ねじ

螺子(ねじ)

 二十代半ばの若い夫婦の未来は、今や妻のパート収入にかかっていた。男は、結婚してからこれで五度目の職探しだった。気性の荒い短気な性格は、何処の職場でも馴染みにくかった。学がないことを直接的にも間接的にも批難されるのは精神...

くまのぬいぐるみ

マアクンとコウタン

 死にたい、そう思った。 車内の人波に流されるまま目的の駅で降りると、視界が突然狭くなり、いよいよ立っていられずその場にうずくまった。朝の通勤ラッシュでホームはごった返していて、その場から動けない人間などただの障害物でし...

名刺入れ

名刺奇聞

 財布のように見えたそれは、イルビゾンテの名刺入れだった。金色のバックルを外すと、マチ一杯の名刺が差し込まれていた。男がそれを拾ったのはラブホテル「シエスタ」の入り口、休憩と宿泊代金が書かれたサインボードの下だった。 通...

老夫婦

気の毒な老人

 朝起きると、老人の右脚は腐っていた。 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。いつかそういう日が来ることは分かっていた。しかし心の準備が出来ていないうちに突然そうなってみると、それはそれで悲しく辛いことだっ...

壁画の娘~銀座ライオンの恋

「銀座ライオン本店でデートすると、一ヶ月以内に別れる」 新橋に本社のある早生の社内では、最近そんな噂が流れていた。 「ライオンの祟り」だの「7丁目には戦前墓地があった」だの「米兵と日本人ウェイトレスの心中話」だの「二人の...

ラベルの記憶(サッポロビール)

ラベルの記憶

 なぜ、瓶ビールを絵の題材に選んだのか、今となっては分からない。きっと、「サッポロビール」の片仮名以外全てアルファベットで埋め尽くされたそのラベルの柄が、どこかモダンで大人っぽく感じたのだろう。 自動車修理工だった父はい...

愛玉

 かつて、愛は高級品だった。庶民が手を出せるものではなく、お金持ちだけが買える贅沢な代物だった。 従って、我々が日常生活で目にする機会はなく、過去に愛を所有したことがあるのは、たった一度だけ、結婚したての頃だった。箪笥や...

男と女が再びホテルで会う理由

「最後もこの部屋だった」 背もたれのひび割れたチャコールグレーのラブソファにバッグを置くなり、女は独り言のように言った。「狭い方が密着できるからいいんだよなんて、あなた」 床よりも物が置いてある面積の方が広いと一目で分か...

奇痒譚

 むず虫。 その奇妙な痒みを感じるようになりましてから、いつしか私はそうした名で呼ぶようになっておりました。 みみずやダニが這いずり回っているとも、ピンや針でなぞられているとも微妙に違う、またおたまじゃくしの卵とか、蜜に...

バレンタイン騒動

  家が不穏な空気に包まれていることは、帰宅して直ぐに直感した。娘の出迎えもなく、労いの声さえ奥から聞こえてこなかった。こういう時は大抵二人で風呂に入っていることが多いのだが、バスルームの引き戸は開いており電気も消えてい...

謝罪

 馴染みのマンションに到着した時、女とやりとりする為だけに開設したラインは正に佳境だった。階下から見上げると、南東を向いた最上階のリビングの窓明かりの中で、スマホをこちらに向けて小刻みに振る女の様子がぼんやりと見えた。 ...

烏

 無残な光景だった。内容物が露わに飛散している様は、男に何か陰惨な事件を連想させた。どう見ても一羽だけの仕業とは思えなかった。路上の中心まで引きずり出し、やりたい放題やり尽くしていた。少なくとも三世帯分の袋が饗宴に供され...

塗り替え

 その職人が女であることに気付いた時、淳は油断していた。首元の弛んだTシャツにワンサイズ大きなショートパンツの出で立ちでソファに座り、両足を左右に放り出して、浮気相手に投げたお別れメールへの反応を待っているところだった。...

例えば、満月の夜の奇妙な行為、妻の変容と世界

「あなた、ちょっと起きてよ」 寝入りばなを妻に起こされ、私の意識はしばらく混濁していた。「こんな時間に、何の音?」 枕元の時計は午前一時を少し回っていた。大きく伸びをした後で、私は妻の注意する方向に聞き耳を立てた。ぱん、...

肝焼き

 これで4度目の手術だった。手術の度に、大柄な母の体は細く小さくなっていった。これが最後の手術となるのは明らかだった。日増しに会話が少なくなる父と母の様子から、当時中学生だった僕は、いよいよ「覚悟」しなければならない時が...

ムカデ

 男は晩酌をしていた。いつもの時間。いつもの食卓。 妻と娘も同じように座り、もくもくと箸を動かしていた。 特にこれといった会話はなく、テレビから流れてくるアイドル歌手の黄色い声だけが小さな音量で鳴っていた。「あ」と娘は目...

生臭さ

「何の臭いかしら」と妻が言った。私はひと風呂浴びてちょうど食卓についたところだった。「臭わない?」皺の寄った眉間の塹壕を更に深めて、妻は鼻から小さく息を吸った。「そう?」 慢性的な蓄膿体質もあり、鼻の利く方ではなかったの...

指輪

1 髪を濯いで顔をあげると、グレーチングを流れる泡にまみれて何かきらりと光るものが見えた。丸くて硬いそれは美鈴の結婚指輪だった。波のような捻りが加えられたイエローゴールドの指輪は、床材の模様の一部に同化していた。 どうし...

白髪2

白髪をめぐる小品2

 日曜午後の「白髪抜き」は、我が家ではもう習慣になっていた。ソファに寝そべってテレビを見ている俺の髪の中から、まるで「宝物」でも探し当てるように白髪を見つけては、千枝は途中で切れないよう細心の注意を払って根元から静かに引...

白髪1

白髪をめぐる小品1

 日曜午後の「白髪抜き」は、我が家ではもう習慣になっていた。ソファに寝そべってテレビを見ている父の髪の中から、まるで「宝物」でも探し当てるように白髪を見つけては、途中で切れないよう細心の注意を払って根元から静かに引き抜く...