なぜ歩いていると靴の中に小石が入るのか?

 なぜ歩いていると靴の中に小石が入るのか、不思議でならなかった。砂浜や砂利道を歩いている訳ではなく、靴に穴が開いている訳でもないのに、何度取り除いても、しばらく歩くと、いつの間にか足の裏に小石を感じるのだった。
 石を捨てる作業は楽ではなかった。立ったまま靴を脱ぎ、小石が間違いなく除去されたことを靴の中に手を入れて何度も確認し、人差し指を靴べら替わりにして革靴を履き直す。その間ずっと身を屈めて、年と共にだぶついた体躯を筋力のない脚で支えなければいけない。最近、この姿勢をとるのが酷く億劫だった。駅までの道すがらこれが何度も繰り返されると、僕はもううんざりして、会社を休んでしまおうかとさえ思った。最早、靴の小石は恐怖となっていた。理解不能だった。心霊現象にしては地味過ぎるし、神様の悪戯にしてはたちが悪かった。
 ねえ、と僕はベッドでスマホをいじっている妻に言った。
「靴に小石が入ることってない?」
「靴に? そんなこと、ないわ」と妻は上の空な感じで答えた。
「歩く度にいつもなんだよね」
「どうして?」
「分からない。どうしてなんだろう」
「初めて聞いた、そんなの」
 妻は一旦スマホを枕元に置いて、大きなあくびをした。靴に小石を感じたことのない人に、四六時中靴に小石を感じている人の気持ちはきっと分からないだろう。
「ググってみたの?」
「いや」
「きっと答えがあるわよ」
 妻はもう一度スマホを手にして、画面をタップした。
「沢山出てきた。『靴 小石』で調べたら。へえ、あなたみたいな人、結構いるのね」
 関心しつつ、妻は画面をスクロールさせながら目で文字を追った。困ったらネットで検索するという癖が、僕にはいまいちついていなかった。確かにネットで調べれば、解決の方法は見つかるかもしれなかった。
「ふいご現象、っていうみたいよ」と妻。
「ふいご?」
「気密な空間の体積を変化させることで、空気の流れを生み出す器具だって。送風機。簡単に言うと、靴を地面から離した時に、跳ね上がった小石がかかとの隙間から吸い込まれる現象みたい」
「かかとから吸い込まれるのか」
 僕は感心した。「ふいご」という器具についてはさっぱり分からないが、つまり心霊現象でも神の悪戯でも何でもなく、科学的に証明できる物理現象であることは、概ね妻の説明で分かった。
「そうならない方法ってあるのかな」と僕は聞いてみた。
「自分で調べてよ」と妻は少し面倒臭そうに言ったが、しばらくしてから、「通気性の良い革靴を履くこと、足に常にフィットさせておくこと、だって。でも小石とか、歩いててそんな入ってくるものなの?」
「うん。入るよ。万度」
「万度? そんなに?」
「駅に着く間に、何度靴を脱いだり履いたりしてることか」
「何ていうか、みっともないね」
「そうだよ。みっともないよ。でもそうしなければ、痛くて歩き続けられないし、その間にもまた次の小石が入ってくるんだよ」
「ねえ、あなた」妻はやや呆れたように呟いた。「子供みたい」
 そう言われても、と僕は戸惑った。いや、僕にとっては真剣な悩み事なのだ。子供みたいだろうが何だろうが、僕は毎日毎日革靴の中に小石が入るという、人から見れば馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、そのせいで会社に行くのが本気で嫌になる程、出勤することが憂鬱になる程辛い思いをしているのだ。
 未だ親身になってもらえていない妻の意向は気にせず、僕はもう一つの疑問を妻に呈した。
「ちなみにグーグルには、どうして靴下の中に小石が入るのか、の情報は出てる?」
「え? 靴下の中にって」
 妻は意味が分からないといった感じに、僕に追加説明を求めた。
「時々ね、革靴の底と靴下を履いた足の裏の間じゃなくて、靴下と素足の間にまで小石が入っていることがあるんだよね。これの方がやっかいでね。石をとるのに、靴下まで脱がなくちゃいけないから」
 時々、そうしたことは本当に起こった。ふいご現象であれば、かかとから入った小石は、あくまでも靴底と靴下を履いた足の下に存在している筈のものである。穴の開いていない靴下の中にまで小石が入り込む現象は、どう説明されるのだろう。まさか「第二次ふいご現象」が靴底で起きて、靴底の小石が巻き上げられ、靴下上部のわずかな隙間から吸い込まれて、脛あるいは脹脛と靴下の間を滑り落ちるように通過し足底に達するという、道理も理屈も超えた超常現象が展開されるとでもいうのだろうか。あるいは、まるで手の平を擦り抜けるコインの手品のように、石が靴下を擦り抜けるとでも。
「さすがにそれはネットにないみたい。ありえないじゃない、そんなこと」
 妻は少し苛立ちながら言った。こんな話、金曜日の寝入りばなにするような話ではなかったのかもしれない。しかし僕の中ではどうにも解決出来なかったし、こんなふざけた(僕にとっては真剣だが)悩みを打ち明けられるのは、妻しかいなかった。
「靴下に穴が開いてるんじゃないの?」
「いや、それはない。おろしたての靴下でもそうなるから」
 靴底の小石について考えていたら、僕はある事実に気が付いた。それは、今妻とこの話をするまでそれほど気にしたことのない事実だったが、もしかしたら、この問題を解決するのに、何かヒントになるかもしれないと思った。
「今気付いたんだけどね、靴に石が入るのって、左足だけかもしれない」
「左足だけ」
「そう」
「もうまるで分からないわね」
「全くね」
 妻はしばらく思案している様子だったが、やがて万策尽きたといった感じに首を垂れた。来週末の連休は、十五回目の結婚記念日だった。「記念日にはどこかで外食をする」というのが我々の定番だった。「靴の小石問題」で夜更かしするくらいなら、今年の食事場所を相談するといった前向きな話の方が良かったかな、と反省した。ネットで調べれば済むような話を、わざわざ持ち出す必要はなかった。
 妻は眠たそうだった。僕も久しぶりに飲んだ焼酎のせいで眠くなっていた。左側の靴だけに小石が入るという事実を今この瞬間発見し、僕としては長い間の苦痛を解決する核心に迫る重要な要素ではないかと考えたが、今となってはどうでも良かった。この流れは、どう考えても金曜夜のロマンチシズムからは程遠かった。
「ねえ」と妻は突然覚醒したように顔を上げ、「ちょっと足見せて」と僕の左足の脹脛を引っ張り出して足の裏を観察し始めた。
「どうしたの?」と僕は聞いたが、妻は何も言わず、足の裏の皮を撫でたり擦ったりして、指と指の間を一本ずつ丹念に検査した。僕はくすぐったいやら恥ずかしいやら、足を保持され身動きが取れないまま、何か言いたげな妻の表情だけを見つめていた。
「おかしい」と、妻はある一点を指で押しながら、言った。
「おかしいって?」
「多分これよ、ここ、いい? 出てくるわよ」
 左足の親指と人差し指の間あたりに、妻は両手の親指の爪を強く押し込んだ。出てくる、という言葉の意味が僕には良く分からなかった。痛みというよりくすぐったさが先に立って、僕は足を引きそうになったが、恐ろしい程の妻の握力に阻まれ、じっと耐えるしかなかった。
「出た」
 妻は布団に転がったその黒くて小さな塊を手の平に乗せて、これ見よがしに僕に見せた。
「これが犯人」
 それは三ミリ程度のいびつな塊だった。指で摘まんでみると、感触は小石そのものだった。丸みはなく、鋭角に尖っていた。それは一体何なのか、僕には見当もつかなかった。
「何、これ」
「あなたの足の裏から出てきたのよ。ちょうど親指と人差し指の間にね、固い部分があるの。黒く変色してるから最初ほくろか何かと思ったけど、触ると固いし、穴のようなものも見えたから、指で押したら石みたいに固くなってて」
 そう言われて、僕は自分の足の裏をひっくり返して眺めてみた。妻の言う通り、確かに左足の指と指の間が黒く固くなっていて、小さな穴が開いていた。足の裏など、全く眼中になかった。盲点だった。小石を感じるという原因が、まさか自分の足から産み出された小石が原因だったというのか。いや、そもそも「足の指の間から産み出された黒い石」は一体何なのだろうか。胆石のようなものなのだろうか。靴下と靴底の間にふいご理論で吸い込まれる小石と、今正に僕の足指から排出された小石は同一のものなのだろうか。
 理解が追い付かず、僕は混乱していた。妻はまるで何かユニークな宝物を発見したかのように、手の平にあるその小石を、指の腹で大事そうに転がしていた。
「靴下の中に感じた小石は、この石ってことね」
「そんなこと、あり得るのかな」
「あり得てるじゃない、今」
「足の裏から石が生み出されてるってこと?」
「そういうことになるわね」
「良く分からないね」
「色んなことがあるのね」
 おおよそ、原因は突き止められた筈なのに、これほど喜びのない発見はなかった。喜ぶどころか、また新たな悩み事、今度はもっとやっかいで、手に負えない問題を抱えてしまったのではないかと思うと、僕はいたたまれなくなっていた。妻はこの事実を一体どのようにとらえているのか酷く気になった。僕がどうのというより、妻がどう考えるのかが、我が家の価値判断基準だった。
「あなたって本当に昔から、足のトラブル多いよね」
 妻の言う通りだった。靴擦れや魚の目は日常茶飯事、革靴の折り目が指の付け根を圧迫して捻挫っぽくなったり、草野球をする度に指の爪が内出血したりと、足にはしょっちゅう不具合を感じていた。きっとトラブルの原因の大半は靴のサイズや形が僕の足に合っていないのだろうと思うのだが、その度に靴を買い替えていたら、お金がいくらあっても足りなかった。僕の足の形が、一般的な人の足の形ではないのかもしれなかった。だとしても、今回のようなトラブルは生まれて初めての経験だった。
 妻はそろそろ手中の小石を持て余していた。僕はここまで来た以上、気になっていることを聞いてみることにした。そうしなければ眠れないと思った。
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
「確かに僕は足のトラブル多いし、今回の件も、きっと一筋縄じゃいかないと思うんだ」
「うん」
「それでもいい?」
「いいって?」
「ずっと、一緒に居てくれる?」
「どういう意味?」
「いや、これからまだ何十年と一緒に暮らしていかなくちゃいけないでしょう、夫婦なんだから」
「うん」
「こんな男でも、ずっと一緒にいてくれるのかなって最近ちょっと心配になってるんだ」
 妻は少し首を傾げたまま、何か考えているようだった。即答されるのも軽い感じで嫌だが、ずっと考え込まれるのも不安だった。
「だって、足から小石が出てくるような男だよ? 通勤途中で何度も靴を脱いだり靴下を脱いだりして小石と格闘しているような男だよ? そんな男とずっと死ぬまでいてくれるのかなと」
 もちろん好きでそんなことしてる訳じゃない、僕にも愚痴や言い分はあったが、それを今持ち出したところで、妻の返答に何の寄与もしないことを僕は察した。僕はあらゆることに自信を失っていた。惨めで情けなかった。いちいち靴の小石を取り除いて歩かなければ会社に辿り着くことも出来ない自分が、とてもちっぽけで、価値のない男に思えた。愚痴などいくらでも言えるが、言えば言う程、僕の存在価値が一層失なわれていく気がした。
「仕方ないじゃない」
 妻は諦めたように言った。声の調子から、僕には明らかに諦めのように聞こえた。しかし反対の立場で僕が答えるとしたら、やっぱり同じ言葉になるのだろうなと思った。
「あなたの意志ではどうにもならないことなんだから」
「まあ、そうだけど」
「私にはそういうことないから分からないけど、だからって、分からない、で済ませる訳にはいかないじゃない。夫婦なんだから。分かろうと努力するのが夫婦なんじゃない?」
 僕はほっとした。最近の妻の様子からは想像出来なかった。もっとつっけんどんに、いつものクールな返答があるものだと思った。ほっとしたら、全身のこわばっていた筋肉の緊張が解けた。
「足の指の間から小石が出てくるということを本当に理解出来るかどうかは分からないけど、未来だって、平均寿命で考えたら、まだあと四十年もあるのよ。四十年。今までの人生を、もう一度生まれた時からやり直すくらい生きていかなくちゃいけないのよ。想像できる? 私には想像出来ない。そんなに先のこと。来年のことだって予測できないのに、四十年後にあなたと一緒に暮らしているのかどうかなんて考えれば考える程分からないわ」
「まあ、確かに」
「分からない未来のことなんて考えても仕方ないのかなって、最近思うの。時間が立たないと解決しないことを今心配したり不安に思ったりするのって、今を無駄にしているような気がして。だから、余り将来のことは考えない。今どう感じるか、思うかが大事なんじゃないかな。そうじゃなければやってられないことが多過ぎる。
 この石のことだって。考えれば考える程不思議なことだけど、その理由がどうとか、解決出来る問題なのかどうかとか、考え始めたら、永遠に考えてしまいそうな気がしない? もっとも、あなたに関するトラブルだから、私が思っている以上に悩みは深いのかもしれないけど」
 妻は珍しく饒舌だった。こういう金曜日もありかな、と思った。こういう話を、夫婦ならちゃんとすべきだった。キスやセックスだけではなく、夫婦は言葉として、意味のある言葉を発して、相手に伝えなければ伝わらないことがあるのだと。
「分かるよ。全く同じように考えてた。結局、何も解決はしていないけど、いや、もっと難しい課題、事実が分かったかもしれないけれど、いやそんなことより、玲子とこうして話出来たこと、気持ちを分かり合えたことが、何よりの収穫だったかなって」
「大げさよ。私は何も」
「いやそうなんだ。こんな話をするつもりはなかったから。本当なら、結婚記念日に行く店の話をしたかったんだ」
「ああ、来週だったね」
「そうだよ。忘れてた? いくつか候補のお店を選んでみたからさ」
「忘れてないわよ。でも今日はもう遅いから、明日でもいい?」
「もちろん。僕が小石の話なんて持ち出したのがいけなかったね」
「ううん。でも困ったわね、これは」
「困った。でも仕方ないよね」
 それからしばらく間があって、妻が入眠したことを知らせる規則的な呼吸音が聞こえてきた。
 僕はトイレに行き、冷蔵庫にあったアセロラドリンクを一杯飲んだ。それから椅子に腰掛けて足の裏を見た。黒い塊はやはり、指と指の間に厳然と存在していた。これまでに足に出来たどんな魚の目やまめよりも強靭で硬質だった。こんなものが足に出来ていたことに気付かなかった自分が情けなかった。どれだけ自分に無関心なのだろうと思った。本当にこんな男といつまでもいてくれるのだろうか、僕は急に不安になった。先ほどの妻の言葉を何度も頭の中で反芻した。反芻すればするほど、既にもう愛想を尽かされているのではないか、僕を傷つけまいとして、言い繕っているのではないかと疑った。
 妻は向こうを向いて熟睡していた。今では呼吸音さえ聞こえなくなっていた。世の中は金曜日の夜なのに、我が家だけは全くの無音だった。茫洋の海原へ裸で放り出された気分だった。僕の身体はみるみる沖合に流され、妻の知らない間に、波間の泡沫と一緒に消えて無くなってしまう気がした。
 僕は足の裏を見返し、指の間から石を摘まみ出した。痛みは全くなかった。ホタルイカのくちばしを取る要領に似ていた。石は面白いように、次々と取り出すことが出来た。検索エンジンにさえ掲載されていないこの事実を、僕はどう考えたらいいのか分からなかった。時間が解決してくれる気はしなかった。靴底にせよ、靴下の中にせよ、ふいご理論だろうが胆石だろうが、僕は生涯足の裏に異物を感じながら生きていくことになるのだと確信した。確信は存在感のみを身に纏い、意識の片隅を占拠した。
 既に、足から産み出された小石は十数粒に達していた。僕は手の平に乗せて、その黒い粒を眺めた。石は不均一で不整合だった。こんなものが靴に入っていたら痛いに決まっている、僕はそのまま玄関に行き、妻のスニーカーとパンプスに均等に振り分けた。
 明日になれば、十五年振りに何かが動き、もっと妻のことが理解出来る気がした。(了)

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