似た物夫婦

 帰宅すると、妻はソファに寝そべって眠り込んでいた。テレビは点けっぱなしで、350㎖のビールの空き缶が、柿の種と一緒に放置されていた。元々、コップ一杯のビールさえ飲めなかった妻が、最近は缶ビールを一本空ける程になったのだ。
 気持ち良さそうに眠っている顔の赤い妻を横目に、私は弁当箱を他の洗い物と一緒に流しに重ねた。私も仕事柄酒を飲んで帰ってくる事が多かったが、最近は以前ほど量は飲めない上に直ぐ酔いが回ってしまうので、余り楽しくなかった。
「ただいま」と私は遠慮して声を掛けた。
「あ、おかえりなさい」と驚いたように妻は答えた。
「寝るなら寝室で寝たら」
「まだ洗い物あるから。あと洗濯も」
 そう言って、妻はむくりと起き上がり、テレビを消してだるそうに台所に向かった。
「缶ビール空けたんだね。驚き」
「今日は暑かったから我慢できなくて」
「一本飲み切ることなんてなかったのに。洗い物と洗濯ならやっておくよ」
「駄目よ。それじゃ、ぐうたら主婦みたいで嫌だから」
 妻はスポンジに洗剤を含ませ、一枚ずつ丁寧に洗い皿を積み重ねていった。
息子が昨年結婚して家を出てからというもの、妻の中で何かが弾け、曇っていた。いつも物憂げで覇気がなく、以前のようなきびきびとした活動的な様子はすっかり鳴りを潜めてしまった。それは私にもはっきりと分かった。いつか子供は巣立つと分かっていても、実際にいなくなってみると、これほどの喪失感があるとは思っていなかったのだろう。もちろん、私にもそれなりの寂しさはあるが、自身の腹を痛め、愛情たっぷりに育ててきた妻の心情にはまた特別の感慨があるに違いない。

 次の日も、またその次の日も、テーブルと流しにはビールの空き缶が転がっていた。徐々に酒量は増えているようだった。ビール以外にも、酎ハイやハイボールの缶が混ざっていることもあった。これほどまでに妻が短期間で酒を飲めるようになったことは、少々驚きだった。
「二日酔いになってない? あんなに飲んだら」と、私は起きたてで寝ぼけ眼の妻に言った。昨晩は缶ビールの他に、赤ワインのボトルが半分程空いていたのだ。
「ううん、全く」と妻は言った。「ビールじゃ全然酔わなくなっちゃって。ねえ、ワインてあまり好きじゃなかったけど、あんなに美味しいものだったんだね。今まで知らなかったなんて、人生半分損したわ」
 余りにあっけらかんと話す妻を見ていたら、飲み過ぎを諫める気も失せた。今までアルコールは全く受け付けない身体だと思っていたが、そうではなく、飲めるのに飲まなかっただけなのかもしれない。

 ある晩、靴下を脱いで籠に放ると、洗濯機の洗濯物は既に仕上がっていた。一枚ずつ丁寧に取り出して、ぱんぱんと叩き皺を取った。今まで家事は妻が担当していたので私が手を出す余地などなかったが、妻が酒を飲むようになってから、私の方が気になって率先して行った。洗い終わったら直ぐに干さないと皺が残るし、食べ終わった食器が流しで干からびている様子はどうにも落ち着かなかった。元来そういうことを一番嫌っていたのは妻だった。その妻は今では毎晩酒ばかり飲み、ソファに横になってテレビばかり見ている。且つて、テレビもNHKかドキュメント番組しか見なかったのに、今では賑やかなバラエティばかりを好んだ。ついこの間まで「いい年した大人がそんな下らないものを」と、私に散々文句をつけていた筈なのに。
 私は私で、毎日通勤と仕事で疲れ果てている筈なのに、帰宅するや勝手に体がきびきび動き始めることが信じられなかった。考えてみれば、これまで家事は妻に頼りきりだった。家のことは何でも妻がやってくれた。私は仕事から帰ってきても、妻の作った夕ご飯を食べて、酒をたらふく飲んで眠ってしまえば良かった。会社の仕事は雇用されている本人にしか出来ないが、家事はその家に住む共同生活者の誰がやってもいい訳で、妻がやらないのなら、否、やらなくなったのなら、私がやればいいだけの話だ。と言っても、やらされている感じではなく、率先してやりたくてやりたくて仕方ないのだ。五十を過ぎて、この漲るバイタリティは一体何なのだろう。
 今の妻はまるで昔の私だ。そして私は、これまで家事と子育てに全力を注いできた妻の気持ちが、少し分かるようになった。息子が家を出て行ってからの方が、より夫婦として理解し合えている気がした。

 私の実家に行った際、母から最近二人似てきたことを指摘された。丸く柔和だった私の顔は余計な肉が落ちて骨張り、垂れていた目尻は持ち上がり、話し方も相槌や合いの手の入れ方も、まるで妻の雰囲気だと。逆に妻は酒の嗜好が増えたせいか顔の肉付きが良くなり、眉毛も目元も緊張感がとれてとげのない感じになり、やや猫背気味な姿勢や身振り手振りが、昔の私みたいだと笑った。
 いつもお互い見慣れていると良く分からないが、たまに会う人から見ると、きっとそうなのだろう。私に似てきたと言われることは妻にとっては心外かもしれないが、私が妻に似てきたと言われることは満更悪い気はしなかった。私は妻の容姿や性格を羨ましく思っていたから。 
 その日、妻は初めて私の実家で酔い潰れた。和室で妻を寝かせると、妻はたちまち寝息を吐いた。その間に、私は自分達の食べた食器やら食事の残りを、母親の制止を振り切って片付けた。「そんなことしないでいいから」と母に言われたが、「動いてないと落ち着かない」と言うと、人って変わるもんだね、と母は感心した。何せもう三十年も一緒にいるんだから、私は三角コーナーのネットの水を切りながら、三十年という歳月の長さに思いを馳せた。
 そしてふと、息子のことを思った。息子は三度三度しっかりご飯を食べているのだろうか。仕事でパワハラにあっていないだろうか。風邪をひいていないだろうか。電話もメールもないところを見ると、よろしくやっているのだろうなと思いながら、それでも今どうしているのかが知りたかった。物心ついてから話す機会がめっきり減っていた息子に私がこんなことを思うのは珍しく、不思議な感傷に浸っていた。

 週末、休日出勤から戻ると、妻はいつものようにソファで眠っていた。ウイスキーと炭酸が台所に出しっぱなしだった。グラスの氷は殆ど溶けていた。テレビは点けたまま、スマホをお腹の上で抱いていた。ラインをしても既読にならない訳だった。妻のスマホがミュートしたまま振動していた。誰かからの電話だったが、妻は気が付かないようだった。電話は間もなく切れた。妻の手元からスマホを取り上げて裏返すと画面ロックが掛かっていた。
 最近気になっていた一つの疑念、それは妻がやけにスマホを気にすることだった。片時も離すことがなくなっていた。これまでは充電し始めたらそのまま充電しっぱなしだったのに、最近ではトイレや浴室まで、片時も離さず持ち込むことが多くなっていた。私と話をしていても、時に何かを打ち込んでいた。別に一々気にしなければ済む話だが、もっと言えば、派手目な下着の種類が急に増えたり、今までの嗜好とは全く違う音楽を車で聴いたりと、その線を疑い始めたら当てはまる変化はいくらでもあった。もっとうまくやればいいのにと、どうしたらいいものか悩んだが、珍しく妻と一緒に酒を飲んだ際、酔ったついでに私はこう言ってしまったのだ。
「最近、何か隠し事してることない?」
「え?」
 妻は驚いたように、真顔で私を見た。
「隠し事? そんなの何もないわよ。どうして?」
 そう言って、妻は再びテレビに目を向けた。特に慌てている様子はなかった。こういうかまをかけるような聞き方や、人を試すようなことをするのは本来大嫌いだった。そして、そう問うた私自身がとても嫌な気分になっていた。
 私は五年前のことを思い出していた。まるで今と反対の立場で、妻から同じことを言われた。その頃、私はあるSNSで知り合った女性と、月一の頻度で会っていた。妻には当然嘘をついたが、妻は薄々気付いていたのだと思う。もちろん、証拠を掴まれたわけではないが、妻の瞳は確信に満ち溢れていた。私は大ごとになる前に、その女性とは縁を切った。妻はそれ以上、私を問い詰めることはしなかった。だから私も、妻を追い込む事は避けたかった。酒で飲んだくれている日々も、浮気をしている(かもしれない)ことも、まるでつい最近までの私そのものだった。
似た物夫婦。そんなところまで似る必要ないのに。
 再び妻のスマホが振動したが、妻は気付いているのかいないのか、若手芸人の体を張ったコントに大笑いしていた。神経も随分図太くなったものだ。
 私は空いた食器を流しに下げた。油の酷いものはティッシュで拭った。ドレッシングとマヨネーズを冷蔵庫に仕舞った。無性に息子に会いたくなった。明後日、息子夫婦がこちらにくる予定だった。実に久しぶりだった。私は息子に会えることが、今最大の楽しみになっていた。
 
 しばらくぶりに見る息子の様子を見て、私は安心した。痩せてはいなかった。結婚してから、また一層凛々しく男らしくなった気がした。親馬鹿と言われても構わなかった。息子の嫁も、気立てのいい、気が利く娘だった。息子は一人っ子なので、もし下に妹でもいたらこんな食卓になっていたんだろうなと、私は想像した。
 会話の殆どは、息子に関する昔話だった。生まれた時の出来事から、ついこの間の結婚式のことまで、まるで昨日のことのように、いくらでもエピソードは思い浮かんだ。妻はその間、殆ど喋らなかった。本当は妻が一番楽しみにしていたのではと思ったが、結局料理は全て私が担当し、妻はどちらかというと面倒臭そうに、布団の支度をしただけだった。
 珍しく、私は酔った。妻は隣で鼾をかいていた。息子夫婦は、以前の息子の部屋で眠っていた。いつ眠ったのか、余り覚えていなかった。一度トイレに立ち、少し開いていた息子の部屋を覗くと、二人は互いに反対を向いて寝息を立てていた。同じ布団で抱き合って寝ていたらどうしようと一瞬想像したので、私は安心した。
 変な時間に寝たせいか、あるいは酒を飲み過ぎたせいか、妙に目が冴えていた。息子のことがどうにも気になって仕方なかった。再びトイレに立つ振りをして息子の部屋に向かうと、先ほどと同じ姿勢のまま時は止まっていた。息子の顔はまるで赤ん坊の時のままだった。「寝顔だけは年をとらない」というけれど本当だ、と思った。こんなに息子をいとおしいと思ったことはなかった。
 寝顔を見ていたら、矢鱈に抱きしめたい衝動にかられた。おかしい、と私は思った。親父が息子を抱き締めたいだなんて。しかし、それを抑えることは難しかった。義理の娘の存在はもうどうでも良かった。
 私は息子の側に寝そべって、片肘をついて間近で息子の寝顔を見つめた。息子もかなり飲んでいたので、そう簡単に目覚める筈はないと、私は酔った勢いに任せた根拠のない自信に満ちていた。私は息子の髪の毛を撫でながら、その手を頬に当てた。そこには赤ん坊ではなく、立派な成人男子となった息子がいた。
 んん、と義理の娘が呻き寝返りを打った。息子は半分口を開けて、規則正しく寝息を立てていた。唇。私はじっと息子の唇を見つめた。誰かのスマホのバイブレーションが鳴り、やがて止まった。静かな夜だった。このまま時間が止まって欲しかった。私は更に息子に顔を近付けていった。
 私は最早、息子の母親、私の妻そのものになっていた。(了)

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