今日が永遠に続いて欲しいと本気で願うこと

 大半の人々は眠っている時間帯だった。眠るとは即ち、明日を迎える覚悟が出来ているということだった。
 五十を過ぎたばかりのその男は、いまだ覚悟が出来なかった。これほど明日が来ることに恐怖を感じることはなかった。今日が永遠に続けばいいと本気で思った。夜が明けたら、いつも通りに支度をして職場に向かい、「重大なミッション」に取り掛からなければならなかった。それは、男の能力をはるかに超えていた。失敗すれば株価を暴落させるほどのダメージを会社に与えるものだった。なぜそのような仕事を託されるのか分からなかったが、いっそ事前に首を飛ばしてもらった方が、はるかに気が楽だった。
 この一月、男は食事もままならず、みるみる痩せていった。痩せると同時に、夜も中々寝付けなかった。隣で眠っている妻と子供たちが羨ましかった。妻子には何の罪もなかった。男には勿体なさ過ぎる程の幸福だった。「重大なミッション」さえなければ、と男は何度も思った。しかし、ミッションがなくなることはなかった。明日にはいよいよその成果を試すスイッチが押され、結果が出るのだ。結果を見たくはなかった。それは余りにも惨めなものになるのが目に見えていた。家庭の幸福と職場のストレスとの落差に、男は耐えきれなくなっていた。
 冷たい水を一杯飲み、妻子が深く寝入っていることを確認してから、男はマンションを出て、隣接する児童公園に向かった。何故児童公園なのかの理由は見当たらなかった。明日を迎える覚悟のできない人間が辿り着く場所、といって最初に思い浮かんだ場所が児童公園というだけだった。
 ベンチに座り、男は自宅では禁止している煙草に火を付けた。空を見上げても、何も見えなかった。煙草の煙が視界を曇らせた。仮に月や星が見えたとしても、眠気を催すどころか、かえって意識が昂ぶり余計に眠れなくなるだけな気がした。年を経れば経るほどセンチメンタルになっている自分が可笑しかった。そんな柄ではなかった筈なのに。男は煙草を足で揉み消し、ベンチにごろんと横になると、誰かの膝枕に乗った。男は直ぐに跳ね起きて、すいません、と言った。
「構いませんよ」と、膝枕をした男が言った。
「今日が永遠に続けばいい、と本気で願ったんだね」
 夜の静けさと同じくらい静かに、膝枕の男は言った。
「もう大丈夫、二度と明日は来ないから」
 男には意味が分からなかった。ふと気が付くと、公園には何人かの人がいるようだった。人影は、まるで人の影のように、しばしば目の前を横切った。年齢や男女の区別は出来なかったが、気配だけは感じられた。
「ここにはね、明日を迎えたくない、と本気で思った人が集まってる。俺も、君も含めて。でも、やっぱり明日は来た方がいい。明日のない世界というのも、それはそれで地獄」
 膝枕の男は、地球の反対側まで沁み込んでいくような深い深い溜め息をついた。男は息を飲んだ。今日がいつまでも続けばいい、と確かに思ったが、実際本当に明日のこない世界を想像したことはなかった。
「時間は動くべきで、止まってはいけない。先にも進まず、後戻りも出来ず、ずっと留まるということほど退屈なことはない。退屈は精神をやられるからね。実際に死ぬ程辛くて嫌なことなんて、人生そうそうあるわけじゃない。夜は朝になるべきだし、朝は夜になるべきで、世界は太古の昔から、ずっとそうなってる」
 男は怖くなっていた。本当に明日のこない世界は、自分の想像をはるかに超えている気がした。明日がくることから逃げた人の気配は、常に公園の何処かに感じた。気配にだけはなりたくないと思った。俺は独りではない、妻子がいるのだ、帰ろう、と男は思った。
「残念だが、もう無理だよ。今日が永遠に続いて欲しい、と本気で願ってしまったのだから」
 膝枕の男は再び溜め息をついた。男は膝枕を無視してマンションの自宅に引き上げた。妻子は今しがた見た姿勢と何の変化もなく眠っていた。仕事を失敗したくらいで、株価を暴落させたくらいで、確かに命を取られる訳ではない、男は遂に明日を迎えることの腹を決めた。
 未開封だった高級ブランデーの栓を開け、グラスを一気に飲み干した。そしてもう一杯。たちまち体中が熱くなり、強烈な眠気に襲われた。これで眠れると男は思った。寝て起きれば、もう朝だ。仕事の結果はどうであれ、明日の今頃は、もう明日が終わっているのだ。忌まわしき明日が、既に忌まわしきではなくなっている筈なのだ。時を動かさないと、自分は永遠に忌まわしき状態が続くことになるのだ。
 男は目覚まし時計をセットした。豆電球を消し、いつも寝ている姿勢を作った。覚悟の出来た男は、そのまま滑らかに眠りについた。家具の軋みなど少しも気にならずに。

 男は跳ね起きた。寝過ごした気がしたのだ。枕元の時計を見ると、先ほど眠った時刻で止まっていた。
 おや、と男はリビングの時計を確認したが、やはり同じ時間だった。時計の秒針は止まっていた。妻子の姿勢にも変化がなかった。頭が朦朧として、立ち眩みがした。膝枕の男の声が聞こえた気がした。残念だが、もう無理だよ。
 男は再び公園に向かった。夢であって欲しかった。膝枕の男はまだベンチに座っていた。「嘘はつかないよ」
「どうしたらいい?」と男は聞いた。
「どうすればいいと思う?」と、膝枕は言った。
「明日になって欲しい、と強く思い続ける」
「言うのは簡単だけどね」と言って、膝枕はそのまま黙り込んでしまった。まるで眠ってしまったかのように。
 明日を迎えたくない人の気配だけは、いつまでも公園内に浮遊していた。男は再び煙草をくわえた。残りはあと二本だった。煙草が無くなってしまったら、どうやって退屈を凌ごう、それを考えると、もう二度と眠れなくなるだろうな、と男は思った。(了)

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