高橋熱です。
めっきり秋ですね。
このまま直ぐに冬になってしまうのでしょうか。
寒くなると、朝布団から抜け出すのに難儀し、うだうだしてる間に、自由な作業時間が直ぐに過ぎてしまいます。
書く時間の確保がただでさえ難しいというのに。
■「書けない時間」「書かない時間」
締め切りがある仕事とは違いますから、一日二日書けなかったところで、誰からも「お咎め」はありませんが、それがあまりにも長期に渡ってくると、とても不安に感じてしまいます。しばらく何も書かないでいると、言葉も忘れていくし、感覚も鈍ります。
「小説なんて、もう二度と書けないのではないか」と、本当に思う時があります。
アイデアは塩に漬かり、頭のどこかの引き出しに仕舞われて(ゴミ箱に捨てられて、かもしれない)、いずれ仕舞った場所も捨てた事実も忘れてしまって。更に、若い頃のように創作意欲が旺盛で、寝てる時間も惜しんでがんがん原稿に向かっていくようなモチベーションも気力体力もなく、ただただ、自信喪失の状態に陥っていきます。
久しぶりに、真っ白な原稿を広げた所で、「さて、何を書こう」と、丸々二時間何も書けないまま、魂の抜けた廃人のように、ただしみったれた天井を見上げるだけになったりして、「俺は一体何をやってるんだろう」と、自己嫌悪する為に早起きしてるような、みじめな気持ちになったりします。
とはいえ、自己嫌悪ばかりもしてられないので、書く時間を確保できない点については、こう解釈するようにしています。
「今は小説を書くことよりも、未来の小説の実となるシーズ(種)を徹底的に集めている時期なのだ」と。「いつか書く(書かれる)だろう」小説の厚みと深さを必ずや増すものだと信じて。
■時間が有り余っていた学生時代。だからといって……
これまで、学生や独身のサラリーマンの人達を、とても羨ましく思う時期がありました。仕事で付き合っている人の中にも、不動産経営をしている人や株で一財を築いている人など、明らかに「昼間の時間をもてあましている」と思われる人も沢山知っています。
そういう人を見ると、実に時間の使い方が「もったいないなあ」と思います。時間を売ってくれ、と本気で思います。株の動向を毎日追っかけているとか、政府やマスコミの批判話に明け暮れていたりとか。まあ、時間をどう使おうが自由だし、人それぞれの価値観ですから、僕がどうこう言う話ではないのですが。
眠い目と鉄の様な体躯を無理矢理鞭打って覚醒させ、早朝ちまちま筆を進めている僕からみたら、自分の裁量でどうにでもなる時間を持っている、ということが何と羨ましいことか。
しかし、そういう時も、僕は自戒を含めて、こう思うようにしています。
「限られた時間を有効に使うことが出来ない人間に、膨大に有り余る時間など使いこなせるはずがない」
僕が小説を書き始めたのは大学生の頃です。同時はバブル経済の真っ只中、「何でも潰しが利くだろう」ということと、受験が3教科だけで済む私立の文系に進んだ僕は、創始者の銅像も欠伸する程、時間は有り余っていました。大学にはほぼ毎日通っていましたが、それは麻雀のメンツと飲み相手を探す為に、でした。
その頃、暇な時間を、全て小説を書くことに費やしていたか、と問われると全く「否」でした。当時はただ何となく、「将来は小説書いて食べていけたらいいなあ」くらいの、いや、自分としては、当時なりにかなり真剣に思っていたのかもしれませんが、「そんなにがつがつ書かなくても、自分にはそこそこ素質があるから、文学賞に応募し続けてさえいれば、いずれは」なんて、若さ故の自信過剰、厚顔無恥の極みでした。危機感も何もあったものじゃありません。飲食店のバイトで稼いだお金は皆洋服やCDやデートに使ってしまい、酒も浴びる程飲みました。
そんな合間に、小説を書いていたので、今のように「早朝2時間は執筆に充てる」というような生活リズムを作ることもなく、書きたくなった時にだけ書く、という行き当たりばったりの執筆姿勢でした。(『ラブドールズ・ライフ』という小説の原型はその頃書いたものです。学生時代ですから、テーマも作風も、今と全然違っていることにお気づきになるかと思います)
■「小説」は、製造工場では量産できない無形資産
今は、執筆時間を「早朝2時間(朝4時~6時)」と決めています。
学生時代よりは、時間も時間帯も限定されてしまっていますが、「この時間しか書けないのだから」と強く意識して、却って昔より集中できている気もします。
確かに、ふんだんに時間を使えるのは理想かもしれない。でももし仮に今の自分に、神様のお慈悲により、膨大な時間が与えられたとしたら、本当に執筆が捗るのか、いい小説を沢山書けるようになるのか、と考えると、実は正直自信がないのです。
もし、今それだけの時間があったら、別のことに費やしてしまう気がします。本を読んだり、コンサートを見たり、美術館にも行きたいし、ジムで汗を流してもみたいし、夜は気ままに行きつけの飲み屋で酒を飲んだり、ひょっとしたら不埒な「恋」を求めてしまうかもしれない。
仮に時間があったところで、結局執筆に充てる時間は今と大して変わらないのかもしれません。「いつでも書ける」という環境が「いつもは書けない」理由と言い訳を色々とこしらえて、むしろ今より書くスピードが緩慢になり、内容も悪い方向へ向かってしまう可能性すら、これまでの僕の性格なら、ありえない話ではないと。
「小説を書く」とか「言葉を紡ぐ」という作業は、工場の生産設備のように、1時間10個作れる設備だから、10時間稼働させたら100個できるよ、みたいな単純なものではない気がします。
集中力と持続力の掛け合わせであったり、体調管理であったり、意欲やメンタルの有り様であったり、心身を取り巻く様々なファクターが混然となって、結果としての一つの作品に昇華される無形資産なんだと思います。
なので、「膨大な時間が欲しい」だなんて欲は言いいません。
あと、もう一時間、いや30分でもいい。
心身両方に付いた「贅肉」を落とす時間が、ちょっと欲しいだけ。