「小説」は本当に無力か?

心にいくらかの余裕がなければ、小説なんて書けないし、読めない、というのは事実だとは思います。
それは、自然災害などで生存の危機に晒されている時、あるいは生理的、心理的に追い込まれている状況において、間違いなく、小説は無力です。

その人にとっては、小説なんかより、食べ物を確保することや、明日の仕事を探すことの方が重要です。

だからといって、「小説なんていらない」という結論にはならないと思っています。
人の生死にかかわる緊急事態においては、「生死の危機」を回避する物やことが優先される、というだけのことであり、特定のフェイズでは「優先順位が低くなる」という相対的な話だと。
そこを極端に捕えて、「小説は無用」とか「音楽は無意味」と全否定をすることはないのではないでしょうか。

人が長い人生を送る中では、そうした緊急事態も当然あります。
しかし、そこが一段階クリアされると、マズローのいう欲求階層が上がって行けば、求めるものも変わってきます。

小説。
それは、心の安寧。快楽。癒し。慰め。希望。愛。荒み、疲れた心に沁み込む一滴の薬。
小説がその本来の存在理由、力を発揮するステージやそれを欲する人は必ず存在する。

僕も精神的に落ちていた時、目の前の課題から逃げたくなった時、また苦境の時だけではなくても、幸せな時をより深めるために、知らない世界の疑似体験を楽しむために、これまでに非常に多くの小説を読んできました。

その段階において、僕には小説が必要だった、ということです。

そうして僕は大人になり、下手くそながらも、一書き手として自分なりの小説の存在理由を探し続けているわけです。

いや、今日は少し感傷的になってしまったけれど、どうも震災以来、「無力感」に苛まれているクリエイターが周りにあまりに多かったので、ちょっと考えてみました。

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