【掌編小説】ウォーキング

 男はずんずん歩いた。男の足取りは軽かった。中年で独り身の男にとって、休日のウォーキングは何よりの楽しみだった。ウォーキングをしている間は何も考えなかった。頭の中は空っぽだった。家のこと、仕事のこと、将来のこと、言葉はもちろん、イメージを持つこともなかった。頭も体も、心地良い疲労感だけで満たされた。それが何よりの快楽だった。ただただ、ひたすら目の前にある道を、気の赴くままに突き進んだ。
 歩き始めて半年が経った。筋力が付き、歩行スピードも上がった。一日当たりの歩く距離も、同じ時間で倍に伸びた。歩ける距離が伸びると、また違った景色に触れることが出来て、愉しみも多くなった。平日の仕事のストレスを、男はウォーキングで解消した。強いストレスを感じれば感じる程、ウォーキングの距離は伸びた。ストレスさえなければ、ウォーキングはしていないかもしれなかった。ストレスがなければ、頭を真っ白にしてただ近所を歩き回る行為など必要なかった。
 いつにも増して、その日はやけに体が軽かった。まるで軽くジョギングをしているようだった。疲労感も全くなかった。いつもの近所ばかりでは退屈だった。そこで男は決心した。よし、会社に行こうと。
 会社は自宅から十キロは離れていなかった。いつもは電車で行っていた。男は線路沿いを行けるところまで行くことを決めた。十キロなど、今の身体の感じから苦ではなかった。疲れたら、帰りは電車で帰ってくればいい。
 男はずんずん歩いた。線路沿いの道を三駅程歩けば会社のある町に出る。途中、道が切れ、違った方向へ曲げられることもあったが、男は気にせず柵を乗り越え、線路に繋がるのり面の繁みを突き進んだ。関係ない、行けるところまで行こう、男の意志に現実は逆らうことなく受け入れた。これほど楽しいウォーキングはなかった。男は何の制約も受けず、ただひたすら目標に向かって歩いた。ウォーキングというより、まるで空を飛んでいるようだった。どうして今日はこんなに身体が軽いのか分からなかった。平日会社に向かう時の鉛のような体の重さが信じられなかった。
 休日は最高だった。仕事のストレス、というより上司のパワハラから解放される自由な時間だった。何も対応してくれない会社には恨みしかなった。三十年も会社のために尽くしてきた報いがこれなのかと男は悔しくてならなかった。
 決別。正に今がその時だと思った。休日の今、電車ではなく大好きなウォーキングで会社に行って縁を切るにはうってつけだと思った。ざまあみろ、という気持ちで一杯だった。後のことは考えなかった。命まで取られることはないと思えば、何も怖い物はなかった。命を取られたところで、独り身の男にとっては、思い残すことは何もなかった。強いて気になると言えば、実家にいる母親くらいだった。
 男はずんずん歩いた。目的が出来ると、歩くスピードは益々加速した。障害物など関係なく、男はただひたすら線路沿いを歩いた。これほど気持ちの良いウォーキングは初めてだった。世界はのどかだった。風もなく、雲一つない空は何処までも無限に広がっていた。明日から、また別の人生の道が開けると思うと愉快でならなかった。早く会社に到着したいと思った。ただひたすら、男は会社に向かって歩いた。
 いつものデスク。いつもの書類。いつものパソコン。休日出勤している社員はいなかった。休日出勤しても、コストカットでお金は払われなかった。そんな仕事など誰もやる筈なかった。
空調が止まっているせいで、オフィスの空気は澱んでいた。否、空調が回っていても澱んでいる、と男は思った。男は自席に座って引き出しから便箋を取り出し、殴り書きに近い筆跡で文字を書いた。お決まりの文章だった。お決まりで十分だった。三十年にも渡って尽くしてきた人間を簡単にお払い箱にするような会社に、余計な言葉を連ねる必要はなかった。
使いまわしの封筒に便箋を入れ、上司のデスクに置いた。これでもう二度と嫌な思いをすることはないのだと思うと、心が晴れ晴れした。
呼吸は乱れることなく、ひざの疲労も全くなかった。スポーツウェアで会社に来ることなど一度もなかったので何だか不思議な感じがした。週明けの反応が楽しみだった。案外、期待する程の反応はないかもしれないなと男は思った。この会社に期待をしてその通りになったことなど一度もなかったことに気付いた。
男は引き出しを締め鍵をかけて、会社を後にした。そして、再び歩いて帰ることにした。今日は全く疲れを知らなかった。この調子なら、どこまでも歩ける気がした。それならば。
男は実家にいくことにした。ここから更に三十キロは離れていた。明日までに帰ればいいと男は思った後で、直ぐに考えを改めた。もう会社に行かなくてもいいのだ。となれば、いつまでに帰る必要もなかった。
男はずんずん歩いた。実家には二年くらい帰っていなかった。一人親の母とは、時々電話するくらいだった。もう八十を超えていた。結局、この年まで妻をめとることなく、従って孫の顔を見せてやれることもなく、心配ばかりかけている親不孝な息子だった。
男はただひたすら仕事をしてきた。親には入社以来、仕送りをし続けた。今一人なのは、ただ、その結果に過ぎなかった。退職金が入ったら、少しは親孝行できるかもしれないなと男は思った。
三十キロなどあっという間だった。休憩も取らず水も取らず、気が付いたらノンストップで実家に到着した。会社を離れただけで、これほど身軽になるなんて。逆を言えば、日頃どれだけ会社に縛られ、足枷を嵌められ、重圧を押し付けられてきたのだろう。
実家の玄関の鍵は開いていた。不用心だな、男は黙って土間を上がり和室に向かった。線香の香りがした。背中を丸めた母は、布団に眠る男の前でしくしく泣いていた。その隣には、母を慰める叔母がいた。
眠っている男の顔には、白い布が被せられていた。男は直感的にそれが自分であることを理解した。布を取ると、眉間に深い皺を寄せ、苦悶の表情で目を閉じているやつれた自分の顔があった。頬はこけ、唇は乾燥し、頭髪も半分以上が白髪だった。
何だ、死んでるのか。
 男は自分の亡骸を目の当たりにして合点がいった。道理で今日のウォーキングは身が軽いと思った。塀ものり面も容易く乗り越えていける訳だった。
母の体調はこの一週間芳しくなく、もしかしたら入院するかもしれないということを男に伝えるため電話をしていたが、男が中々電話に出なかったので叔母を通じてアパートの管理会社に連絡したところ、男が布団の中で冷たくなっていたということだった。
脳か心臓のいずれかをやられたようだったが、男にとっては、どちらでもいいことだった。一人暮らしにとって、寝ている間の緊急事態に対応するのは不可能だった。それが一人身の性だった。母も同じ一人身だったが、結果的に自分の方が先に逝ってしまったという訳だ。
男は自身の親不孝を詫びた。項垂れている母親の肩に男は手を置いた。母も叔母も、男の存在には気が付いていなかった。当然だった。男は母を抱き締めたかったが、母を抱こうという素振りに留まった。素振りさえ、誰にも見えなかった。男にはかすかに、母の体の感触が手の平を通じて伝わってきた。それは気のせいかもしれなかった。気のせいでもいい、と思った。それから男は改めて、生んでくれてありがとう、と母親に感謝した。
男はずんずん歩いた。休日のウォーキングは何よりの楽しみだった。しかし、もう週末だけの楽しみにしておく必要はなかった。そして戻るところも失った。戻らなくてもよかった。行けるところまで、ただひたすら行くだけの片道切符。
男は何処に向かうともなく、ただひたすら歩き続けた。終わりがあるのかどうか分からなかった。男の趣味はウォーキングだった。男はずんずん歩いた。
空の満月には、薄い雲がちぎれるように掛かっていた。今なら、月までだって歩ける気がしたが、男は本当は、地に足の着いたウォーキングが好きなのだった。(了)

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