【超短編小説】リスク

 土曜の昼下がり、私は妻を食事に誘った。妻は内科と小児科のある町医者の門前薬局で働いていた。来る客の大半は発熱していた。感染対策は万全を期さねばならなかった。通常業務以外に、対策の為の作業が上乗せとなった。職場からクラスターを出す訳にはいかなかった。当然、妻は自宅でも細心の注意を払っていた。私にもそれを求めた。そんな生活が既に二年以上続いていた。
 休日の妻は自宅で憔悴していた。私は少しでも妻の疲れを癒してあげたかったが、私も同様に疲れていて妻の働きに甘えていた。私の疲れは感染症対策ではなく、中間管理職にありがちな疲れだった。私の意図だけではどうにもならないものばかりであり、組織の上と下に挟まれ、解決の道筋は常に手詰まりだった。自宅には持ち込めないカテゴリの悩みばかりだった。妻に仕事の愚痴を言っても仕方なかった。かえって妻の疲労を増幅させるだけだった。
 従って、私が出来ることと言えば、家計を心配する妻の為に私の小遣いで食事に誘うことくらいだった。妻は余り気乗りしない感じだったが、私が強引に誘うと渋々同意した。そうでもしないと、三度の食事の支度をいつも妻がすることになった。私が炊事は不得手だった。というより家事そのものが駄目だった。私がしたことでそのまま妻が満足することはなかった。必ず修正が加えられた。時には最初から妻がやり直すこともあった。全くの二度手間だった。妻は何でも卒なくこなした。手抜きを嫌った。結局、お互いの精神衛生上、妻に全てを委ねることが最善の選択だった。

 とある感染症が蔓延して以来、妻は外食を極力控えていた。それは仕事柄やむを得なかった。私も外食好きだった。妻に少しでも楽をさせたいという気持ちと同時に、「外食控え」で蓄積しているストレスをたまには解消したかった。
「ロイホでもいい?」と私は言った。どうしても食べたいものがそこにはあった。「構わないけど」と、妻は留保付きで同意した。
「わざわざ行かなくても今ある物で何か作るわよ?」
 目の下に隈のある顔で妻は言った。熟睡出来ていないのだ。
「たまには楽しなよ。ご馳走するから、ね」と私は宥めた。どれだけファミレスで飲み食いしたところで、たかが知れている。
 妻は先程の話はさておき、執拗な私の誘いを飲んだ。先程の話とは、妻の同僚が、ある飲食店で嫌な思いをしたというものだ。食事が終わっているのに、隣席の客がマスクもせず大声で話し続けていたとのことだった。これまで大好きだったその店が、非常識な客のせいですっかり印象が悪くなってしまったらしい。隣の客は選べない。運がなかった、としかいいようがない。
「いつも私の料理ばかりじゃ飽きるもんね」と妻はやや皮肉っぽく言った。
「いやいや、三度三度作ってもらうのも大変だからさ。ランチだし、お酒飲むわけじゃないし」と私は説得した。
 元来、妻は外食が嫌いということはなかった。昔はグルメ本やネットの情報を仕入れ、あちこちと食べ歩いたものだった。それもこれも、二年前からぱたりと止まってしまった。妻の行動の判断基準は今、「いかに感染リスクを減らせるか」ということだった。それを承知の上で、私は我が儘を言った。
「分かったわ」と妻は頷いた。「ロイホなら」
「よし、決まり」
 私は車の鍵をポケットに入れ、戸締りをした。妻はクローゼットから見慣れないハーフコートを出して羽織った。ふんわりした薄いピンクの毛並みが、見るからに温かそうな感じだった。
「そんなコートあったっけ」と私は聞いた。
「前に買ってあったけど、全然着る機会なかったから」
 それから妻はドライヤーで髪を整え、ヘアスプレーで仕上げた。おしゃれをした休日の妻を見るのは実に久しぶりだった。ファミレスに行くだけなのに、とても贅沢な休日を過ごしている気がした。

 ロイヤルホストはいい塩梅に混んでいた。ざっと見る限り、ほぼテーブル席は一杯だった。もう時間もピークを過ぎている筈で、これは予想外だった。
「いらっしゃいませ。お客様は二名様ですか?」と、白い制服を着た若い店員は言った。私が頷くと「ご案内します」と言って、ソファのある真ん中のテーブルに案内された。妻はふわふわのコートを脱いで奥の席に丁寧に畳んで置いた。私は早速置かれたメニューをぱらぱら捲った。妻は店内を見渡し「結構混んでるのね」と私に言った。
「そうだね。緊急事態も明けたし、皆外で食べたいんだよ。あ、これはない方がいいよね」
 私と妻とを隔てるアクリル板を私はサイドにずらした。これが一枚あるだけで相手の声がとても聞きにくくなるし、かえって大きな声を出すことになり本末転倒だった。
「夫婦はずっと一緒だから」
 妻もそれには異論はなさそうだった。科学的に有効かどうかというより、行政の指導に従っているとアピールすることの方がファミレスにとっては重要だった。
 メニューを眺める妻の表情は、満更嫌そうではなかった。私は既に注文する物が決まっていたが、ステーキセットを眺めているうちに心がなびいた。しかし価格はジャワカレーの三倍だった。デザートはショコラだけ食べたいと思ったが単品設定はなかった。アイスクリームやプリンとセットで千円という価格だった。うまい具合に出来てる、と私は思った。
 メニューを見ていた妻がふと顔を上げ、隣の席に目を向けた。作業服を着た建設作業員風の二人の男が、顎にマスクを引っ掛けた状態で喋っていた。一人は昔で言うところのパンチパーマが中途半端に伸びたような髪型で、顔や首にはどす黒い深い皺が刻まれていた。しゃがれただみ声で、時折何かに怒っているのか、声量が突然増した。「あの野郎」という言葉と、「上から目線」という言葉が聞こえた。
 もう一人の職人はずっと若く、同じくマスクを顎までずらしたまま、だみ声の話にいちいち相槌を打っていた。食事は既に終えているのか、テーブルには水とコーヒーカップ、そしておしぼりのビニール袋や伝票が乱雑に置かれていた。
 妻は私に目配せした。私は妻が何を言いたいのか分かった。テーブルの間隔は適度に空いており、間には一応アクリル板の仕切りもあった。もう少し声のボリュームを抑えて欲しい気もしたが、きっとこういう人間はどのようなシチュエーションでもこういう喋り方をする人間なのだろう、と私は妻ほど気には留めなかった。
 それから妻は何度もメニューを行ったり来たりしていたが、やがて「お待たせ。決めたわ。頼みましょう」と私に言った。
 ボタンを押すと店員は直ぐに飛んできた。妻はオムライス、私はジャワカレーを頼んだ。
「もっとお肉とか、いい物食べなよ」と私は言った。私がご馳走すると言ったから、きっと遠慮しているのだろう、と思った。
「お昼からステーキなんて。家にいるだけだから、そんなにお腹もね」
「じゃあ、デザートにしよう。これ一緒に食べて」
 ショコラはどうしても食べたかった。私は追加でデザートを頼んだ。休日をより休日らしく過ごすためには、「甘い物」は必須アイテムだった。
 妻が何か店員に言いたそうにしていたので「他に何かある?」と促したが、「大丈夫」と妻は歯切れ悪く言った。私は二人で一つのデザートを分け合えばいいと思っていたが、妻はもしかしたら単独でデザートを食べたかったのかも知れなかった。私は早く食事がしたかったのでそれ以上突っ込まなかった。食べたければ、また後で頼めばいい。逆光のせいか、妻の目の下の隈が更に濃く見えた。

 食事は間もなくやってきた。混雑の度合いに関わらず、概ね決まった時間で料理が運ばれてくるロイヤルホストのシステムに、私は感心した。ついこの間まで、いや現在進行形で経営も人手不足も大変なはずなのに。
 妻は経済には関心が薄く、こういう話をしても乗ってこないので、私は「さっきの薬局の同僚の話、思い出しちゃった」と言ってみた。言った後で、何を言っているのだと、私は思った。わざわざ今ここで言うべき事ではなかった。
 妻は口を噤んだまま、同意を瞳に浮かべ軽く頷いた。不用意な発言が余りにも多い自分自身に、最近自己嫌悪になることが多かった。楽しい場面で、わざわざ楽しくなくなる一言を言ってしまう。疲れのせいには出来なかった。妻は私以上に疲れているのだから。
 妻はマスクを専用ケースに仕舞った。耳と頬の間の皮膚が赤く荒れていた。きっと薬局では、もっとしっかりしたきついマスクをしているのだろう、と思った。
「いただきましょう。美味しそう」と言ってスプーンを取った。私も箸を持ち、サラダを口に運んだ。
 隣の顎マスクと若い職人は、声のボリュームを上げ下げしながら、間断なく話をしていた。会社や人間関係への不満であることが、隣接の我々にも伝わる程の声量だった。だみ声は持って生まれた声なのか、煙草や酒が原因で変声したのか、普通な時でも怒っているように聞こえた。
妻はオムライスを少しずつ口に運びながら、時折隣を見やった。妻の視線がそちらに向く度に私も気になり同じ動きをした。顎マスクの男たちはこちらの様子などお構いなしに、我々が食事している間中、止めどなく喋り続けた。

 食後のデザートを二人で取り分けていると、隣席の男たちは席を立って、ドリンクバーに向かった。その様子を妻はずっと見ていた。「何か持ってこようか?」と私が言うと、「ううん、自分で行くからいい」と妻はデザートの皿を私の方へずらし席を立った。私は気になって振り返り、妻の背中を追った。妻はコーヒーメーカーにカップを置いた後、側を通った店員に何やら一言二言話をしていた。店員は何度か腰を曲げて謝る素振りをした。
 席に戻ると、妻は無言のままカップに口を付けて視線を下に落とした。
「どうした? 何かあった?」と私は言った。
「お店の人に言ってきたわ。マスクもしないで歩き回ってるんだもの」
 妻は無表情のまま、小声で言った。
「全くいい大人がしょうがないね。何処にでもマナーを守らないのはいるんだよ」
 間もなく男の店員が隣のテーブルにやってきて、二人の客に申し訳なさそうに言伝をした。声が小さくて良く聞こえなかったが、しぶしぶマスクをする彼らの様子を見て、何を伝えたのかは直ぐに分かった。
 店員が下がった後、二人の会話は少し落ち着いたように思えた。我々の食事はフィナーレに差し掛かっており、最後のショコラを残すだけとなっていた。妻は全く楽しそうではなかった。私はもっと早く気付いてあげるべきだと反省した。
 やがて二人の男は席を立ち、店外へ出て行った。妻はほっとした表情で、コーヒーカップを両手で持った。伝票は席に置かれたままだった。
「全く情けないね。わざわざマナーの紙もあるのに」
 着席時に配られた「お客様にご協力のお願い」にも、「会話時のマスクの着用」はご丁寧なイラスト入りで説明されている。
「本当にそう思ってた?」と妻。
「もちろんだよ。食べ終わってるんだから、マスクして話せばいいのに。そんなに大声出さなくても聞こえるって。席替えてもらえば良かったよ。ごめんね」
「替えるって言ってもね。ここしか空いてなかったし」
「ここは居酒屋じゃないんだから。いなくなったら急に静かになった」
 満席に近いにも関わらず、他の席の人々の会話は殆ど聞こえてこなかった。皆それなりに気を使って控えているのだ。奥のテーブルで、時折小さな子供の喚き声が聞こえたが、それは子供であり、気になる程のものではなかった。
 ロイホは本来こうあるべきなのだ。日本語も理解できない輩が会社や人間関係への不満をまくしたてるような店ではないのだ。
「デザート」と妻は言った。「美味しかったね」
 そう言って、妻は久しぶりに微笑んだ。
「もう一杯何か持ってくる」
 私はドリンクバーでカフェオレを選ぼうとしたが、ミルクがなくなっていたので補充を頼んだ。店員は申し訳なさそうに直ぐに奥からミルクのピッチャーを持ってきてセットした。これだけの店舗をこれだけのホールの人数で回すのはさぞ大変だろうなと私は思った。
 席に戻ると、隣に三人の男が座っていた。先程の二人の男に、更にもう一人男が加わり、再び顎マスクの状態で話をしていた。
 私は目を疑った。俄かには信じられない光景だった。妻は呆れていた。煙草の残り香が周囲に漂っていた。煙草を吸うために、一旦外に出ていっただけだったのだ。空のカップに口を付けて直ぐに下ろすという動作を、妻は何度か繰り返した。少し苛立っているように見えた。もう潮時かもしれなかった。
「何か飲む?」
 妻の答えは凡そ予測がついたが、私は念のため聞いた。
「そろそろ出ましょう。ちょっとトイレ行ってくる」と言って、妻は男たちのいる方のテーブルの脇から腰を上げた。こっちから出たらと私は言い掛けたが、時既に遅かった。
「すいません、喋る時はマスクしていただけませんか?」
勢いを増して喋っていただみ声に向かって、妻は注意した。
 だみ声は目を見開いて、下から見上げるように妻を睨んだ。残りの二人も突然遮られた会話に何事かと顔を上げた。まずい、と私は思った。
 男の返事を待たずテーブルから離れようとした妻に、だみ声は背中から浴びせるように言った。
「それは法律で決まってるのかよ」
 しゃがれ声を歪ませて、だみ声は妻の足を止めた。
「なあ、おい、決まってるのかって聞いてんだよ。マスクなんてしてたら、聞こえねえんだよ。人権侵害だ、人権侵害。言い方を気を付けろ、馬鹿。ブス女」
 今度は耳を疑った。男は間違いなくそう言った。聞き間違いようのない酷い言葉だった。妻は黙ったまま、男を見ていた。
 法律。人権侵害。馬鹿。ブス女。脳内に反復する一つ一つの言葉が、どうにか平静を保とうとする私を激しく打った。
 店員は周りにいなかった。近くの客は何が起きたのかとこちらに目を向けた。妻は何も言い返さず、ただ、だみ声の男を寂しい目で見つめていた。それから間もなく妻は男と私に背を向けて、何事もなかったかのようにトイレに向かった。
「このブス女が」
 もう一度、だみ声は妻の背に言葉を投げつけた。それが妻に届いたかどうか分からなかった。
今時、いい年した大の大人が、馬鹿だのブスだのという言葉を使うことに私は衝撃を受けた。それはまるで昭和の子供の口喧嘩のようだった。相手をするのも馬鹿馬鹿しくなる程度の人間だった。今の妻の心中を察すると、私は気の毒でやりきれなかった。
 妻にキレた後も、だみ声はマスクすることなく、他の二人に向かって、妻という人間そのものを否定するかのような罵詈雑言をまくしたてた。今や標的は会社の人間ではなく妻だった。妻は一言、店で決められているルールを伝えただけだった。何故人格まで否定されなければならないのか。
 その後、私に対しても何か言ってくるのではないかと内心気を張っていたのだが、幸い私に絡んでくることはなかった。
 私は外の国道を流れる車両を目で追っていた。なぜもっと早く席を替えなかったのかと後悔した。テーブル席が空いていなければ、カウンターだって良かった。そして妻を罵倒したこの脳の足りない連中に、猛烈な怒りを覚えた。
 一方で、想定外だったとはいえ、妻に何の援護も出来なかった自分を、黙って眺めていることしか出来なかった自分を情けなく思った。夫としても、男としても。
 妻がトイレから戻ってくるのを待たず、三人の男はぶつぶつ言いながら伝票を持ち席を立った。私は冷えたコーヒーを飲みながら、すました顔で天井を眺めた。ひょっとすると、連中は料理すら注文していないのではないかと疑った。実際、三人目の男は何も注文せずに店を出ていくのだ。酷い客だと思った。他の客に迷惑を与えた分、客ですらないと思った。今日、ロイヤルホストに妻を連れだしたことを、私は心から後悔した。どうしても今日じゃなければならない理由など何一つなかったのだから。
 妻がトイレから帰ってきたので、私は上着を着た。妻は申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい。どうしても我慢出来なかったの」
会計を終えて店を出ると、男たちは駐車場でまだ立ち話をしていた。我々はその脇を通り過ぎて、自分たちの車のある場所に向かった。男たちには目もくれなかった。いちいち気にするだけ人生の無駄だと思った。
「外食なんてしなければ良かったね。ごめんね」
 帰りの車の中で、私は助手席の妻に言った。どういう気持ちでいるのだろう、と考えると、気が気ではなかった。
「ううん、仕方ないわよ。色んな人がいるから」
 両手でバッグを抱え、遠くを見ていた妻は目線を落として答えた。
「人権侵害なんて、本当に言葉の意味を分かって使っているのかな。ただそう言いたいだけなんだよ。大体、馬鹿とかブスなんて、今の小学生でも使わないよ」
 実際改めて口にすると、その言葉のくだらなさと浅はかさが一層際立った。妻は少なくともあの連中よりずっと利口だし、まともだった。
「この人達には何を言っても無駄なんだと思って、言い返さなかった。ただね、ただ私は」
 妻は言葉を飲み込んだ。私は黄色信号でブレーキを踏んだので、二人共、前のめりになってしまった。ごめん、と私は言った。だみ声の奇妙なイントネーションが頭をよぎった。
「あの人達にも、嫌な思いをして欲しかったの」
 うん、と私は頷いた。妻の言葉から、どれだけ嫌な気持ちだったのか、十分伝わってきた。
「どうして私達ばかり嫌な気持ちにならなければいけないのかって。どうしてちゃんとルールを守っている人が我慢しなければならないのか。私が最後にああ言って、少しでも全員が嫌な気持ちになって帰って欲しかった」
 妻の声は震えていた。悔しさが溢れていた。しかし泣いている訳ではなさそうだった。気持ちが高ぶっているだけなのだ。
「あまり喋ってなかったけど、あの手前の若い男の方は分かっていたと思うよ。うん、マスクをしないことは、やっぱり良くなかったんだって少しは」
 それは私のなけなしの希望だった。だみ声には絶望しかなかった。最後に来た男も、だみ声と同類だった。彼らに未来があるとすれば、あの若い男だけが、だみ声の話を徹頭徹尾黙って聞いていたあの若者だけが、せめてもの可能性だった。
「でもね、気を付けた方がいいよ。善意が常に勝つとは限らないから。理屈が通じない人って、世の中にはいくらでもいるんだよ。いきなりナイフで腹を刺されることだってあるからね。正論をまともに伝えることが本当にいいことなのかどうか」
 事実、高校生が電車で煙草を吸っていたマナーの悪い大人に向かって注意しただけで腹を刺され亡くなったという事件があったばかりだった。注意した相手によっては、いつ何時妻だってそうなるとも限らなかった。そういう時、私は妻を守れるのだろうか。どこまで私は、実直で正義感の強い妻の夫として共に行動できるのだろうか。
「ごめんね」と私は改めて言った。心から申し訳ない気持ちで一杯だった。
「外食なんてしなければ、こんな気持ちにならなくて済んだのに」
「ううん。あなたの言う通りなのかもね。言葉で分かる人達ばかりじゃないってこと。私は言えてすっきりしたけど、テーブルに残されたあなたのことを考えなかった。こっちこそ、ごめんなさい。嫌な気持ちにさせちゃって。
 久しぶりのオムライスとデザート、本当に美味しかった。ありがとう。ご馳走様でした」
 妻はきっと、穏やかな顔をして言っていた。正面を向いて運転していた私にも、それは感じ取れた。妻はそういう人間なのだ。私なんかよりずっと素直で繊細で、誰にも気配りが出来る素敵な大人なのだ。馬鹿でもなくブスでもない。ファミレスのマナーさえ守れないお前らなんかに、そう簡単に妻を理解されてたまるもんか。
  私はエアコンを止めた。もう十分、外界は春に向かっていた。いい加減料理を覚えようと、私は思った。大過なければ、私はあと三十年以上、この妻と一緒に暮らしていくのだから。(了)

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