「プロ作家」と「素人小説家」の違い その①

高橋です。
さて、今回より数回に分けて、「プロ」の作家と、「素人(アマチュア)」の作家との違いについて、考えてみたいと思います。

何故そんなことを思ったのかというと、以前、ツイッターで、Amazonなどの電子書籍販売サイトで出版(有料)している素人小説家に対し、下記のような見識を主張された方がいたことが直接のきっかけですが、小説に限らず、インターネットの普及と共に、他のジャンルでもこの辺りの境界線が曖昧になってきている状況について、もう一度自分なりに整理してみたいと思いました。

また、それはとりもなおさず、「何故、自分がホームページで小説を公開しているのか」ということに関わるテーマでもありますので、この機会にしっかりまとめ直してみたいと思います。(過去に一度、同内容の記事をアップしましたが、あれから1年以上経過し、WEB小説を巡る環境も少し変わってきておりますので、改めて加筆修正を加えています)

■素人小説家が「有料販売する」ということ

まず、初めに言っておきたいことは、そのご意見は、決して素人が小説を書く行為自体を否定するものでも、WEBサイトで公開したり、電子書籍で出版すること自体を否定したものではありません。あくまでも、「有料で販売する」という行為についてのご批判でした。

大よその骨子は、下記の通りです。

①有料販売は「出版社」のお墨付きが必要
素人(アマチュア)小説家は、電子書籍で「有料販売」すべきではない。顧客からお金を貰っていいのは、あくまでも「出版社」のお墨付き(新人賞受賞者等)をもらった「プロ」だけだ。

②プロの小説を読む「機会喪失」に繋がる
素人が本を出版できるようになったのは、「電子書籍」を誰でも自由に出版できるプラットフォームが整備されたおかげであり、誰も「実力を認めた」わけではない。編集者の手にも寄らない「稚拙な小説」を読まされるせいで、プロが書いた良い小説を読む機会を奪われている(無尽蔵に電子出版される素人の創作の中に埋もれてしまう)

③信頼できる「需給関係」が崩壊する
誰もが扱える「言語」で構築された小説を、芸術や文学の次元で捉える際には、少しでも「良いものを読みたい」という、読者側の当たり前の要求と、少しでも「良いものを供給しよう」という出版者側の体制が、これまで通り、きちんと守られなければならない。

以上、3つの観点です。主張自体はとても良く理解できるものでした。それは、ついこの間までの自身の考え方でもありました。
しかし僕が自分の小説を7年程前から、最初は自サイトで、続いてKindleで(Kindle以前に、いくつかの電子書籍サイトで出していますが省略します)出すようになったきっかけというのは、③の在り方に疑問を覚えた個人的体験がきっかけでした。

■落胆と焦りの「文学新人賞」

自身が落選した新人賞受賞作がどれだけのものかと後で読んでみるのですが、明らかに相手の方が舌を巻く程上手で、落選したことが納得できるものであればいいのですが、時に小説を読み続けることが苦痛になるような文章に出会うことが多くなりました。

それは、ただ単に僕の知識レベルがそこまで達していないだけなのかもしれません。そう言ってしまえば身も蓋もない話ですが、同時に、そのような小説を「好き好んで読むタイプの人間が、一体今の世の中にどれほどいるのだろう」といった疑問、あるいは好奇心のようなものが芽生えてきました。

学生から社会人、年を経るにつれて、新人賞に限らず、一般流通している、所謂プロ作家の新刊書籍についても同様でした。帯につられて買っても買っても、中々満足できる小説に出会うことが少なくなりました。

特に「純文学」というジャンルの本には辟易させられることが多くなりました。これは新人賞の選考過程に問題があるのではないか、「ジャンルを問わない」と言っておきながら、最初から決まったベクトルにバイアスがかけられているのではないか、小説の内容より、流通やマーケティングありきで選考しているのではないか等、沢山の「?」が生まれてくるようになりました。

書き手として、一度も疑問に思ったことのなかった「プロへの登竜門」としての「新人賞を受賞する」という道が、何ともハードルが高く、年を重ねるにつれて「焦り」のようなものも生まれてきました。
1,000人に一人、あるいは2,000人に一人、しかも半年や一年に、たった一人しかその栄に浴することができない厳しい世界。
僕はそれこそ学生時代から、いくつもの文学賞にいくつもの小説を応募してきましたが、「最終選考」まで残ったことは一度もありませんが、二次選考、三次選考が何度かありました。「箸にも棒にもかからない」というのなら諦めもつくところですが、時々「いいところ」まで残ったりするものですから、「手応え」がない訳ではない。

とはいえ、予選落ちだろうが三次選考だろうが落選は落選です。結果「選ばれなかった」わけですから、やはりそれは選考する過程において、あるいはその新人賞が求めている小説としては何か足りない、下読みさんや編集部の方を納得させるものではなかったということです。
落選する度に落胆し、次に何が足りなかったのかを自分なりに考えて、また次の新人賞に応募する、ということをただ繰り返してきました。

落選通知ネット時代の今、大抵の情報はネット上にあり、良きにつけ悪しきにつけ目に留まります。実際に新人賞の選考過程を説明しているサイトや「下読み」経験者の個人ブログなどを見るにつけ、小説という子を産み落とした親としては何とも言えない「切なさ」と「やりきれなさ」を感じました。

たった1名(ないしは2名程度)の下読みさんにしか読まれないまま「お蔵入り」となるのは、いくら駄目息子(娘?)とは言え、何とも言えない寂しさを感じました。せめて「どこが悪いのか」「何が足りないのか」くらいは知りたいと思いますが、それは2,000名が応募する新人賞の選考過程で、いちいち落選理由を説明するというのは物理的にも無理なことなんだろうと。(「1次選考落選者」であっても、複数の審査員のコメントと採点表を入れて郵送で通知を出すという、何とも驚くべき懇切丁寧な賞も実際あることはあるのですが)

■「WEB小説」でのダイレクトな反応

そんな、何とももやもやした焦りと気持ちを抱えていた時、仕事の関係で「ホームページ制作」を勉強する機会がありました。今はたくさんの便利ツールがあって、想像していたものよりずっと手間も費用もかけることなく立ちあげられることが分かりました。

また、多くの小説家志望の方々が、WEB(自分のホームページであったり、小説投稿サイトであったり)を使って小説を発表し、仲間と情報交換したり、感想のコメントをもらったりしていました。誤字脱字や文法上のミスの指摘は元より、小説の構造やモチーフ、過去の文学作品との類似にまで踏み込んだ講評や巧拙への批評など、作者でさえ気付いていない「分析」を加えていただけることもありました。

作家でごはん文学賞に応募して若干名の下読みさんの目に触れただけで、永遠に日の目を見ることのなかった可愛い愚息達を、この方法ならいつでも自分の目に触れる場所に留めておくことが出来る、同時に不特定多数の方に読んでもらうことができるし、運が良ければ感想や批評までもらえる。

「落選続き」でもやもやしていた心の霞が、すっと晴れていく気がしました。もっと大袈裟に言うと、これまでの孤独な執筆環境の中では体験したことのない、未来への「希望」を予知するような衝撃でした。(→次に続く

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