「プロ作家」と「素人小説家」の違い その④

高橋です。前回からの続き、その④です。
今回と次回でまとめます。もう少々お付き合いください。
次に、③信頼できる「需給関係」が崩壊する、という点についてです。

■純文学の定義とWEB小説

一般的に「純文学」という言葉で括られているジャンルを想定しますと、僕も昔からこのジャンルの小説が大好物であり、小説家を志そうと思ったのも、また人生の節目節目で、僕のものの見方や考え方、生き方に深くかかわってきたものも、この分野の小説です。

当然、思い入れもあるし、自身を育ててもらったという感謝もありますので、今特に若い人が純文学を読まなくなったとか本離れが止まらないなどと言われると、とても切ない気持ちになります。ただそれは、若い人だけの問題ではなく、小説を提供している「供給側」に問題はなかったのか、ということもあると思っています。供給側、つまりこれまでの出版社、ということです。

以前はそれほど気にしたことはなかったのですが、この文学なり芸術なりという言葉が、とてもアカデミックな閉鎖性を想起させ、元来「大衆娯楽」であった筈の小説が「大衆化」するのを拒絶しているような印象を持つようになりました。

芸術「誰もが使える文字や言語というツール」で書かれている小説が、「分かる奴にしか分からない、分かる奴が分かれば良い」といった「独りよがりの、言語芸術の世界」として、囲われてしまったように感じます。

言葉も「ツール」である以上、時代に合わせて変化するだろうし、時代が違えば、社会、価値観も変わります。複雑な文章や小難しい言葉や真新しいメタファーを組み合わせたものが「高尚な文学」であって、そうではないものには、「文学性」も「芸術性」もない、という固定観念がいつまでも出版社側にあるような気がします。「文学とはそういうものだ」という固定観念。

「今はそうではないのだ」と。もっとライトに読めるけれど、深く考えさえられたり、印象に残るいい小説だってたくさんあるよと。もちろんそうなのかもしれませんが、僕から見ると、まだまだ様々な年齢層の様々なニーズにマッチした商材としての「文学」は供給不足ではないかと思っています。

今、僕は小説を、少しでも多くの販売数の達成を目的とした、企業の「商品」として捉えた場合、という想定で話しています。「文学」を商材と捉えることには違和感がある、という方もいるかもしれませんが、値札が付いて消費者向けに流通している以上、それが芸術であれ大衆向けであれ、他の娯楽商品との競争性を伴った、れっきとした「商品」です。

プロと素人の境界と合わせて、これまでの出版社が出版物を一定のルールに基づいて市場に提供してきた方法が、今問われています。著者への印税、価格設定、流通、販売方法もろもろ、これまでのビジネスモデルと商習慣が、インターネットの普及によって大きな変革期を迎えています。

プロと素人を厳格に隔てていたはずの、「プロは、リアルな書籍を出版する権利を有する者」、逆から言えば、「印刷されたリアルな出版物を持たないプロなど存在しない」という概念は、失われつつあるのではないでしょうか。

■短編1つから「書籍化」できる「電子書籍」

小説が一つの形ある「書物」となって書店流通するにあたっては、小説も一定のボリュームが必要になります。
僕のように、短編専門で書いている人間の小説を、たった一話だけを本にして出版する、というのは、従来の仕組みでいけば、製造コスト、流通コスト、採算性から考えて論外です。原稿用紙50枚にも満たない短編小説が、どんなに「いい小説」であるとしても、それだけで書籍化され、出版されることはありえませんでした

短編1冊で売れる売れないは別にして、それを可能にしたのが、WEBで書籍を販売する「電子出版」です。
リアルな出版では様々な理由から「出版できなかった書籍」や、書店の棚の関係で置くことのできなかった「あまり売れない本」でも、電子出版なら24時間、365日開店しているネット上の「書店」で、売り買いすることが出来ます。

電子で何でも出版ができるようになると、小説は好きだけれど、何らかの事情(忙しくてあまり読む時間がない、本屋が側にない、リアル本に読みたくなるような本がない、経済的にたくさんの本が買えないなど)で小説に触れることが少なくなった人達に、小説を読んでもらうことができます。

家事育児の合間の読書僕がWEBで小説を公開し始めるようになってから感じたことが、正にそういう人々が、この世の中には確実に存在する、ということでした。市販の書籍は高くて中々買えない、あまりに忙しくて長編小説は読み切れない、家事や育児の合間のちょっとした息抜きに相応しい短めの小説を読みたい、そうしたニーズや不満の声があることを教えていただきました。

■満たされない隙間を埋める「WEB小説」「電子書籍」

そして今僕の小説を読んでいただいている方々も、もちろん、既存のリアルな書籍を読みながら、同時に無料のWEB小説や有料のKindle小説を読んでいる。出版社の出版する本だけではなく、電子書籍やWEB小説も、「読書」の選択肢として選ばれている。

こうなると、「純文学」などのジャンル分けもあまり必要ないのかもしれません。「口コミ」をベースに、面白い小説か、そうじゃない小説が選別されていくだけです。

僕のサイトは、今「純文学」というような表現を使っていません。大まかな小説の内容でカテゴライズする為の「テーマ」と、文章の「長短」だけです。以前は「純文学」なる言葉も使っていたのですが、上記の理由からどうもしっくりこない感じがありましたし、何人かの方から、「これは純文学じゃない」と言われました。言われたから変えた訳ではありませんが、この言葉のもつ曖昧性が、ミスマッチを引き起こしてしまう恐れが強くなったと感じたからです。

「純文学」という言葉自体、人によって様々に理解されてしまう言葉だと思います。僕の中では、今までは「生きることを考える小説」という意味で使っていました。ざっくり言ってしまえば、そんなイメージです。それほど深く理解している訳ではありません。読んだ後に、これからの自分の生活や生き様を考える上で、何らかの示唆や検討をするきっかけ、ヒントを与えてくれる小説。そんな理解です。もちろんストーリー展開や魅力的なキャラクターも必要ですが、主眼はそこではありません。

「純文学じゃない」と言われた方は、恐らく難しい言葉や表現や、旧来の所謂「純文学作家」たちの小説と比較されたのではないかと思います。だとすれば、僕の書いているものは、かなりかけ離れているかと思います。難しい表現やメタファーや構成は、極力使わないようにしている訳ですから。

読者の不満むしろ、そう言う意味だけに囚われ続けていると、読者のニーズからかけ離れた商品を量産することにもなりかねません。プロダクトアウトの発想では、もうモノは売れません。「分かる奴には分かればいい」という独りよがりの痩せ我慢が、そういつまで続くとは思えません。

電子書籍やWEB小説における素人小説家は、そのような読者の、既存出版物では満たされなかった隙間を上手く埋めているのだと思います。読者の声を聞いて、どんどんリライトも加えますし、ストーリーを変えていきます。直接読者の声を聞きながら小説を書く、こうした執筆方法をこれまでの仕組みの中でプロ作家ができたでしょうか。ダイレクトに読者と繋がることができるWEBだからこそ可能になったと思っています。(→次回に続く

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