「再読」したくなる、小説の書き方。

高橋です。
秋雨が長く続いていて、このままだと、秋がなくて冬に突入する勢いです。
天気とは関係ないですが、このところ少し小説はお休みして、ブログばかり書いてる感じです。
ブログは同じ「書く作業」でも、小説と違って緊張感や気張ることがないので、気分転換するのに丁度いいのです。
今回は、「再読してもらえる小説」について、書きたいと思います。

■何度も読み返したくなる小説

「読み返す度に印象が変わる。だから、また読みたくなる」

最近、拙著「愛玉」という超短編小説に、こんな感想をいただきました。
正に作家冥利に尽きると言いますか、とても嬉しい感想でした。

一度読んだら本棚の裏側へ(あるいはブックオフ?)とかではなく、本棚でも直ぐに取り出せる場所とか机の脇とか、今の時代だと「電子書籍」やWEBをPCやスマホの「お気に入り」に入れて、時々、思い返すように、その物語を再び紐解く。

その読後の色彩は、以前感じたものとは微妙に違っていて、新たな色を発見したり、逆に不快な色がやけに強調されて目に飛び込んでくることがあるかもしれないけれど、でも、どうも気になって、捨てることも本棚リストから「削除」することも出来ず、またある日ふっと思い出したように、ページをめくるような、そんな小説。

小説家であれば、誰しもそんな小説を書いてみたい、と思うのではないでしょうか。

いわゆる「推理小説」のように、「犯人探し」をしたり、そのトリックや種明かしの妙を味わうことに主眼を置くような小説は、余程のことがない限り、「再読する」ということはないのではと思います(もう一度遡って、伏線を辿ったり、確認したりすることはあっても)。もちろん、地の文章を読ませたり、トリックよりも人間関係や、そこに至るまでの生き様に主眼を置いているような小説であればその限りではないですが。

同様に、ショートショートのような、オチで楽しませるものも、その類かと思います。別に、「再読されないから駄目」とか「再読されるから優れている」という優劣を言いたいのではありません。小説といってもとても幅広く、いろいろな書き方があり、テーマがあり、愉しませ方があり、読み手側も、そうした小説の性格を事前に理解しているからこそ、安心して楽しめる訳です。あくまでも僕が書いて行きたい小説として「再読してもらえるような小説が書けたらいいな」という嗜好の話ということです。

■言葉を「投げ置く」レイモンド・カーヴァー

大学生の頃に出会って以来20年以上経った今でも、僕が折に触れ無性に再読したくなる作家として、レイモンド・カーヴァーというアメリカの短編作家がいます。村上春樹氏の翻訳本が沢山出ているので、彼の著作が好きな人は名前を知っているかと思います。

レイモンドカーヴァーの本一度でも彼の著作を読んだことのある方、「読み易いけれど、何か余白の多い作家だなあ」と感じませんでしたか?
ここで言う「余白」とは、行間、気配、間の取り方、会話、地の文、全てにおいて「あまり説明(描写)していない部分」が、意識的にしろ無意識的にしろ、至るところに散りばめられているということです。

こうした文体は、この作家が元来「詩人」であるということに由来しているのかもしれませんが、主人公のささいな仕草だとか、会話の断片をぽんと投げ置いて、読み手側に「想像する余地」をふんだんに与えるという戦術に見事成功している小説家なんじゃないかなと(もちろん、僕も見事にその術法に嵌まってしまっている訳ですが)

小説のニュアンスを文章で説明するのは少し難しいのですが、そうした文体の性格上、初めて読んだ人には、もしかしたら、いわゆる従来の「おもてなし」精神にのっとった仔細な風景描写、心理描写に重きを置く日本の小説とは違って、かなり不親切な、「ぶっきらぼう」な印象を受けるかもしれません。

また、カーヴァーは短編小説が主ですから、ストーリー展開の妙や、意外性を全面に打ち出しているタイプでもありませんので、1編読み終えた後、「ん? 今のは何だったんだ?」という感想を抱くかもしれません。

■小説を「書き過ぎない」ということ

しかし、これはあくまでも私見ですが、この作家の妙味はそこではなく、その余白部分を、いかに読み手である我々読者が埋めていくか、想像を広げていけるのか、ということに委ねている(あるいは、上手く利用している)ところだと思います。即ち、そこに「再読」の愉しみがあり、読む度に印象が変わる、という現象が生まれて来るのかなと。

これは正に詩を読む際の世界観じゃないでしょうか。
詩って、一度さっと流し読みしただけでは、多分「何これ」で終わってしまうんです。いや待てよ、まずこの一行目の意味は何だろう、そして繋いでいるこの接続詞が何故その言葉なのだろう、改行が何故このセンテンスで行われているのだろう、不自然ではないか、いやそこにどんな意図が籠められているのだろうなどと、とにかく、詩を読む時は、何度も何度も作者の書こうとしている、見つめている世界に寄り添っていかないと、こちらの想像力をフル活動させないと、字面だけでその意味を捉えるというスタンスでは正確に理解できません。

カーヴァーの短編小説には、その詩人としての言葉の使い方や配置の仕方が、芸術的なまでに首尾よく並べられていて、知らず知らずのうちに、作者の目線と同化している自身に気付くのです。

カーヴァーの話ばかりになってしまいましたが、つまり何が言いたいのかと言うと、再読を可能にしうる小説の肝というのは、「書き過ぎないこと」なのではないかということです。

作者は、おせっかいな説明を加えない。描写し過ぎない。饒舌にならない。読み手が自由に想像を膨らませられる「余白」は、残しておく。その塩梅、間合いについて、僕自身、これからも勉強していかなければならないと思ってますが、最近何となくですが、どうもそのヒントは、男女間の愛のコミュニケーションの取り方にあるのではないか、と密かに感じているところです。

【「レイモンド・カーヴァー」に関する過去記事】
レイモンド・カーヴァーの衝撃。
カーヴァー『僕が電話をかけている場所』再々々…読。
村上春樹氏の名訳で読むカーヴァー。

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