いきなり読者を虜にする「小説の書き出し」とは?

高橋です。こん○○は。

さて、WEBで小説を公開し始めてから既に9年近くの歳月が流れ、その間に、素人でも簡便にWEB更新のできる仕組みが普及したり、Kindle(キンドル)や楽天koboをはじめとする電子書籍を自費出版できるプラットフォームに多くのライターが参加したりして、「自著を一般の方に読んでもらう」ということが昔より易しい時代になりました。

また、言い方を変えれば、易しくなったが故に、「より多くの方に読んでもらう」には、却って難しくなったように思います。

■「書き出し」の重要性~いかに人目に留めてもらうか

星の数ほどある小説サイトや電子書籍にあって、いかに自著に関心を持ってもらうか、を考える時、WEB小説の書き始め、あるいはサンプルで開いたpdfや電子書籍の「書き出しの一文」がいかに大切であるかは、実際自分も他人の小説を読もうと思った時に重視しているのは明らかです。

おおよそ冒頭の1ページを読んでみれば、その人がどんな文体の小説を書くのか、雰囲気の様なものは感じとることができるからです。

名の売れた作家やお気に入りの小説家、または誰かの薦めがあって、その本を選ぶ場合には、小説の書き出しがどんな一文であろうと、その作家の本を買うことが目的でしょうから問題ないと思いますが、名もない素人の物書きにとっては、特別な固定ファンを除いたら、検索してたまたまサイトを覗いたとか、アマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」に流れていたからとか、読者との出会いなんて「ひょんなことで出会う」ことの方が圧倒的に多いはずです。

そうした時、まず自著に興味や関心を持ってもらうにはどうしたら良いのかと考えると、まず、サイトや表紙デザインなどのいわゆる「ビジュアル」で目を引くことは重要だと思います。特に、電子書籍のリストに並べられるのは表紙の画像ですし、漫画やラノベはこの表紙でいかに関心を惹けるかが勝負になる気がします。

素人が書いた小説でも、表紙だけ見ると、まるで「書店で一般流通している本」と何ら遜色ないクオリティのものが結構あります。まるでプロの装丁家の方に依頼したのかと思うくらい。きっと、文学系のサイトや電子書籍でも、これからは装丁の巧拙が、「書き出しの一文」に匹敵するくらい重要なファクターになってくることは間違いないと思います。

電子書籍ではなくWEBに公開された小説であれば、まずはいきなり小説の冒頭が目に飛び込んでくることになります。この段階で、その話に入り込めるか否か、大抵勝負がつきます。

WEB小説は、星の数ほどある訳で、何も興味のないものを、国語の教科書や試験問題のように、無理に読む必要は(読まされる必要も)ない訳です。従って、ちらっと冒頭を流し読みしただけで、気に入らなければ、あっという間に他のサイトに飛んでいってしまいます。作者としたら、「いやいや、これから物語は面白くなってくるのだから、もう少し読んでよ」と言いたくもなりますが、そうはいきません。自分だって、人の小説を読む時は、同じような行動をとってますからね。

ということで、小説のモチーフやストーリーはもちろん重要ですが、いきなり読者を惹きつける、その世界に引きずり込ませる冒頭の書き出しというのは、WEB小説を書かれている人とっては、より神経を使うべきところだと思います。

■プロが書く「書き出しの一文」の例

・「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。」(カフカ/『変身』)

有名な一節です。話は、ごくごく小説にありがちな「ある朝」ですっと始まった感じですが、それが異常な状況な訳です。目が覚めたら、巨大な毒虫になっていると。「グレゴール・ザムザ」などという名前も、濁音が多く、毒虫のイメージとどこか連関している感じで奇妙な気配が満載です。

「一体どうしてそうなってしまったのだろう」「これは夢の話なのだろうか、現実なのだろうか」「気がかりな夢が何だか気がかりだ」と、この一行で読者は色々なことを妄想し始めます。とにかく、まずは次を読み進めてみよう、という事になる訳です。掴みはオーケー、という奴ですよね。

・「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」(太宰治/『葉』)

これも、僕が好きな書き出しの一つです。いきなり「自殺」を予兆しています。「お年玉」として真冬に夏の着物を贈る、というのもどういう意図があるのでしょうか。まあ、いきなり自殺を仄めかすのは古臭い文学臭があり、ずるい印象もありますが、よそからもらった着物が「夏に着る着物」だった、ということで、自殺は「夏」まで延期されています。

ん? そんな程度で延期してしまうくらいの覚悟だったのか、と。いくじなしなのか、気取っているのか、どうも良く分かりませんが、しかし、そうか、今直ぐ死なないなら、どうなれば死ぬのかちょっと見極めてやろうか、お前の自殺に付き合ってやるよ、と先を読んでみたくなります。

・「盲人が私のうちに泊まりに来ることになった。私の妻の昔からの友だちである。」(レイモンド・カーヴァー/『大聖堂』)

これはアメリカの短編小説家、カーヴァーの一小説から。この2行のセンテンスで、僕はやられてしまいます。
まずは、「盲人」が泊まりに来る、という段階で、どんな一騒動や困難が待ち受けているのかを予感させます。身近に目の不自由な人がいない場合は、その状況に想いを巡らすことはかなり難しいです。

さらにそれが、妻の昔からの友人だということです。この主人公の夫は、それを知っていたのでしょうか。妻とはどんな関係なのでしょうか。盲人の友達との関係が続いている、というのはどういうことなのでしょうか。読み手は勝手に妄想してしまいます。ただ、何気なく、とてもそっけなく書いている様ですが、実にいろんな想像を掻き立てられる訳です。

以上、思いつきで3つほど紹介させていただきましたが、いかに読者を冒頭で惹きこませるか、のコツは少し感じてもらえるのではないでしょうか。

ポイントは「?」。
冒頭を読んだだけでは、その意味や状況がうまく飲み込めない。なぜそうなのか、どうしてそうなってしまったのか、これからどうなるのか、と読み手の想像と妄想を掻き立て、そして一般的な先入観や常識をいかに裏切ることができるか、ということではないでしょうか。

現代ホラー作家の権威、スティーブン・キング氏も、「書き出しだけを考えるのに数カ月かける時がある」と何かで読んだことがあります。実際にそこまでかけるかどうかは別にして、しかしその重要さはとても良く認識されています。胸ぐらを掴むように、著者の世界に引きずり込んでいく書き出しの一文。重要ですね。

大量の本■最初から「クライマックス」?

もう一つ、読者に小説を読み進めていく手法として、最近の公募対策本や執筆指南のセオリーでは、「前半部分」の重要性を強調しているものが多くあります。それは、「書き出しの一文」だけではなく、いきなりクライマックスに近いインパクトを最初の一章目にもってくるという構成を推奨しています。

もっとも、有名な新人向けの文学賞などでは、1千~2千の小説がエントリーされますから、まずはいかに下読みさんにページをめくって貰うかを考えると、「最後まで堪能して初めてこのコース料理の素晴らしさを実感し満たされる筈です」では駄目な訳で、とにかくいきなり自信のあるメイン料理を持ってきて、先に「空腹感」を満たしてあげる必要があります。

これは数多くの小説に短期間で目を通さなければならない、選考システム上の理屈から、そうなってしまうことは充分理解できるところです。

しかし、どうなんでしょうか。あまりそこにばかり意識が囚われすぎると、結果その小説全体が尻すぼみで終わってしまい、読後の印象として「悪く」感じてしまうことの方が多い気がしますし、全ての小説がそのスタイルを目指すとなると、かえって様式の「画一化」が進む懸念もあります。文学新人賞を受賞した小説が皆そうだとは思いませんが、前段の濃さに比べて、中盤から後半にかけてがいまいち盛り上がりにかける小説が多い印象を受けます。皆さんはどうですか?

小説には、凡そ「起承転結」があり、クライマックスに至るまでのプロセスの方が、僕自身は最終的には重要だと考えています。
「書き出し」から、いきなり小説の肝を持ってきて畳みかけてしまうのは、山登りに例えれば、最初からいきなりゴンドラに乗せて、苦労することなく山頂の眺めを見せるようなものなのかもしれません。

苦しみばかりを読み手に与える書き方は良くないと思いますが、いきなり「いい景色ばかりを見せたがる」のは、本来の登山で汗をかき、その苦難の末に見る「景色の素晴らしさ」を味わう愉しみを、最初から奪ってしまうことと表裏なのではないか。

「いい小説」と言われるものには、その頂上を目指すためのわくわく、どきどきするような「道標」が、きちんと記されている気がします。「書き出しの一文」と「道標」双方を充分意識した上で、これからも執筆していきたいと思います。

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