小説を書く時、プロットによっては「下調べ」が必要になるものがあります。
今は“Google先生”と言う名のスペシャリストが自身の側にぴたりと寄り添い、困った時には手とり足とり教えて頂ける時代なのでとても便利です。
僕の場合、具体的な「病い」を取り上げることが多いため、いろんな「病い」について良く調べるのですが、世の中には、数ある「病い」と毎日死に物狂いで格闘してる方が本当に多いんだ、とつくづく思います。
「病い」に苦しめられている(当事者本人が「病い」と認識できない「病い」もありますが)本人はもちろん、看護する家族や兄弟、友人知人、病院、介護施設の人々等も含めて、それぞれの立場で悩み、苦しみ、そのストレスが蓄積すれば健常者であってもまた違う「病い」を患ったり心を病んだりと。
「病い」の種類によっては、胸が締め付けられるほど切迫した状況におかれている方もいて、そんな方の書いた一杯一杯のブログを読んでると、もう小説を書くことなんてどうでもよくなる時があります。自分みたいな素人が、その「病い」を簡単に小説の材料になんて使ってはいけないのではないかと。
最終的には「書く」のですが、もちろん当事者にはなれないですが、極力渦中にいる方々の気持ちに寄り添い、軟弱な想像力ですが可能な限り思いを巡らすことで、より深みとリアリティある表現ができるのではないか、と。
自分は短編小説しか書けない(書かない?)ですが、それでも「分かって」書くのと、「知らない」で書くのでは、やはり完成度を大きく左右してくるのだと思っています。調べているうちにプロットが全く変わってしまってもそれはそれで構いません。その小説は、そういう形でしか「語られたがっていない」訳ですからね。
「短い小説だから」と侮ることなく、「下調べ」の時間は極力作るということを、これからも実践します。