五十而知天命。次の三十年に向けて。

こん〇〇は。高橋熱です。
いよいよ今年、40代最後の年を迎えました。
孔子の言う「天命を知る」まで残り1年となりましたが、僕の天命とは一体何なのだろうと。

足掛けのつもりで勤め始めた今の仕事(20年以上にもなって足掛けもないですが)は、それなりに責任あるポジションとなり、若い人とのコミュニケーションに苦戦しながら、日々山のような業務を川のように流しつつ、どうにかやっています。おかげで小説を書くスピードは、若い頃に比べて格段に遅くなりましたが、それでも大好きな小説だけは自分のライフワークと思って、途切れさせることなく、こつこつと続けています。僕はこれまで「小説を書く」ことを「天命」だと信じてやってきましたが、いや実は今の「足掛けのつもりで勤め始めた仕事」こそ天命なのかもしれませんが、そこについては、未だ「知る」境地には至っておらず、今年一年かけて、じっくり考えてみるつもりです(「天命を知る」が「自身で考えてみる」ことなのかどうかわかりませんが)

それはともかく、現在発刊している電子書籍の小説を数えてみたら、全部で106編でした。もちろん、全てを公開している訳ではないので、実際に書いた小説(小説の体を成していると思われるもの)という意味で言えば、更にあと10編くらいはあるかと思います。

もっとも、学生時代から小説は書いている訳で、30年分の成果として、それが多いのか少ないのかは分からないし、ただ数だけ増やせばいいとも思ってはいませんが、まあ、それでも100編の小説というものが、今の自分にとってはかけがいのない財産であり生きてきた「証」であり、「お前は何者だ?」と言われた時に差し出す名刺としては、今の仕事の名刺ではなく「この100編の小説を書いた者です」と言って小説を差し出した方が、はるかに腹落ちする気がします。

そこで、今ちょっと考えているのが、電子書籍やホームページというWEBにこだわらず、この過去の小説をもう少しうまく分類したり整理したり見せ方に工夫を加えて、もっと多くの人に読んでもらえるような手段はないものかなと。五十歳を目前にして、これまでの軌跡を振り返り、また新しい一歩が踏み出せないかと。

ちょっと抽象的ですが、要するに、これまで五十年に渡り自分の人生を駆け抜けてきて(わき腹が痛くなったり呼吸困難になったり、はたまた歩いたり路傍に寝転んだりした時もあるけれど)、さて「平均寿命」を見ればもうあと三十年くらいは生きていかなければならない訳で、それが今のままの流れでいいのだろうか、これが本当に自分の求めている人生なのだろうか、と疑問に思い始めてきたということです。

ただ心の赴くまま、今の100編が200編になったところで、それが一体何になるのだろうかと。好きなものを続けることで、精神衛生上の満足や多少の自己顕示欲を満たすことはできるのかもしれませんが、それ以上のものがあるのだろうかと。「僕は少し欲張り過ぎなのかなあ」と思うところもありますが、一方で、「欲張り過ぎるくらいの貪欲さ、バイタリティがないと、これから更にタフになるであろう余生を生き続けていけるのだろうか」と不安になったりもしています。次の三十年に向けた、「小説を書く」ということ以外に、これまでのやり方とは違った、何らかの「行動」を起こす必要があるのではないかと。それは恐らく、WEBではなくきっとリアルな世界での行動だろうなということは、おぼろげながら感じています。

具体的になりましたら、いずれお伝えいたします。
では、また。

追伸
最近、孔子の「論語」を何度も反復読みしています。学生時代に読んだ印象とはまるで違って見えています。いや、これが実に面白い。実に面白いと思うようになるまで、僕には「五十年」という月日が必要だった、ということでしょうね。確かに小説も、その年齢によって、「はまるもの」って違っていませんか。その年齢や環境で「必要とするもの」は様々、僕の書いたものが、いつかその人の人生の中で理解してもらえる瞬間がきたらいいなあと思う今日この頃です。

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