火種

 一通り片づけを終えた後で、妻は居間にいる私の前に座り、かしこまった顔で言った。
「ちょっと話があるの。どうしても許せないことがあって」
 妻の唇が震えているのを見て不穏な気配を感じ、私はテレビを消した。
「どうしたの?」
「午後、郵便局に用事があったから、ついでに現地に寄ってみたの」
 現地とは、新築現場のことだった。今、我々は近所に土地を買い、マイホームを建てていた。自分達の年齢やローン、これからの子供の学費を考えても、ぎりぎりの選択だった。
「そうしたら、大工が煙草を」
「煙草?」
「窓枠に腰かけて煙草を吸ってたのよ? ねえ、あり得ない」
 妻の顔は白く怒りを宿した目で、私を睨みつけた。私は正に煙草を吸った当事者の大工のような気分だった。
「それは感じ悪かったね」
「感じ悪かったねって、その程度なの? 大体、建築現場で煙草吸っていいわけ?」
「休憩中だったんじゃないの?」
「休憩中とか、そんなこと関係ないじゃない。家の中なのよ? マリの部屋なのよ、そこ。マリの部屋の窓枠に腰掛けて煙草を吸うなんて酷過ぎる」
 妻は声を震わせてそう言うと、両手で口を塞いだ。今にも泣き出しそうだった。もちろん、煙草を吸われるのは気分が悪かった。妻の言う通り、今の時代、建築現場で煙草を吸うという行為が果たして許されるのかどうかは、疑問だった。
「明日、営業に言ってみるよ」
「営業じゃ駄目よ。社長に言わないと気が済まない。ありえない、あんなの」
「社長って、ゼネコンだからそう簡単に」
「あなたは許せるの?」
「いや、許せることじゃないよ、現場で煙草は。火災の危険もあるし」
「当たり前じゃない。私達のマイホームなのよ? あれだけ考えて考えて頭おかしくなるくらい考えて、お金のことも間取りのことも、これからローンだってずっと払っていくのよ。何十年もそこに住むのよ? それなのに、それなのに」
「本当、酷い話だね」
 指の先で涙を拭き、妻は鼻を啜りながらティッシュを取った。煙草吸うくらいでそこまでとは思ったが、妻の余りの取り乱しように、私はその光景を頭に浮かべようと努力していた。
 外出ついでに、我が家の進捗を確認しようと楽しみにして現地に赴くと。休憩時間だったのか、現場は止まり、職人達は思い思いの場所で休んでいた。ふと見ると、マリの部屋になるべき南角部屋で、日焼けして真っ黒な顔をした高齢の職人が、煙草を吸いながら窓枠に腰かけていた。コーヒーの空き缶を灰皿代わりに、残り二時間作業すれば、美味いビールが飲めるなどと考えながら。しかしその間にも、副流煙はむしろ部屋の中にゆらりと吸い込まれ、無垢の木材に浸み込んでいた。
 妻はおおよそ、そんな光景を目の当たりにしたのだろう。まだ実質的に「家」とは呼べない建築途中の物だとしても、仮に休憩時間であったとしても、果たしてそこで煙草を吸うだろうか。名も知らないような安い業者ならともかく、大手ゼネコンのグループ会社が施工する現場である。なけなしの頭金をはたいて、残りは三十年以上のローンを組んで、やっと買った家なのだ。
たかが煙草とはいえ、考えれば考える程、私もやりきれない思いが込み上げてきていた。私も喫煙経験者であり、煙草を吸う者の気持ちは分からなくもないが、せめて敷地の外とか、車の中で吸って欲しかった。
 妻は煙草の煙に恐ろしく敏感だった。少しでも煙の気配を感じるだけで、場所を変えたり、店を出たりした。喫煙者とは、プライベートでも仕事でも距離を置いた。歩き煙草など論外だった。歩き煙草をする人間は、常時、殺人未遂を犯していると言うくらいだった。それ程、煙草については徹底的に嫌悪していたのだ。昔はそれほどでもなかった筈だが、マリをお腹に宿した辺りから拍車がかかっていた。
 妻は目を閉じたまま、黙っていた。妻の気持ちを考えると、余りにも気の毒だった。担当に連絡を取ろうと思ったが、さすがに夜十時を回っていたので、躊躇していた。
「ねえ」と妻は言った。「謝ってもらいたいとかいうレベルではなくて、もう」
「何?」
「止めたい」
「何を?」
「住みたくない、あんな家」
「住みたくないって」
「煙草の煙が染みついた家なんて、死んでも嫌」
 妻は思い詰めているようだった。言葉の抑揚からして、冗談ではなく本気で言っていると思った。酷く面倒なことになりそうだな、と私は直感した。妻は一度強い衝動に支配されると、それまた次の衝動の引き金となり、更に酷い悪循環に陥るのだった。
「落ち着こうよ。分かった。今日のことはちゃんと明日伝えておくから」
「明日とか、明後日とかじゃなくて、もう、いいの。あの家は止める。あの営業もゼネコンもみんな終わり。二度と関わりたくない。最初から信用出来なかった、あの人。ただ調子がいいだけで。結局契約取れたらそれでいいのよ。本当、マイホームなんて建てなければ良かった」
「ねえ、ちょっと待ってよ。落ち着こうよ。家も半分以上出来てるんだから、途中で止めるなんて簡単には出来ないよ。ローンだって組んじゃってるし」
「あなたはそれでいいの? 現場で煙草吸うような人達が建てた家になんて安心して住めるの? 私達の知らないところで、手抜き工事なんていくらでも行われてるかもしれないじゃない。ネット見たら、酷い話はいくらでも出てくるのよ。まさか自分がその当事者になるとは思わなかった。本当、がっかり。全てをなしにしてくれたところで、このショックな気持ちが元に戻ることはない。慰謝料を取りたいくらい」
 私にはもう、どうしていいのか分からなかった。何かを言っても黙っていても、妻の感情を落ち着かせるには無理な気がした。日頃の些細な事ならともかく、今回は人生最大の買い物でのトラブルである。そもそも、まだトラブルとも言えない段階の話で、妻は興奮している。確かにショックだったかもしれないが、大工が煙草を吸ったというだけで、建築を直ちに中止して、契約を無効にする事由になるとは思えなかった。今回ばかりは時間と共に落ち着いて欲しい、と考えた私は少し安易だった。

 その日の夜、妻は落ち着きがなかった。寝室の扉が開け閉めされる度、私の意識も時々覚醒した。私は異常に喉が渇き、冷蔵庫の天然水を一杯飲み、寝室に戻ろうとすると、妻はマリの部屋の入口で、娘の様子を見つめていた。
「どうした?」
「いい顔で寝てるでしょう、マリ。寝顔って、生まれた時から変わらないよね」
 私も妻の後ろから部屋を覗いた。ベッドのマリは丁度こちらを向き、妻の言う通り、口を薄く開け、瞼を艶やかにして、気持ち良さそうに熟睡していた。あっという間に小学四年生、何度も夜泣きで起こされていた頃の騒動を昨日のように思い出していた。
「私はマリのために、出来ることは何でもしてあげたい」
 聖母のようにゆっくり、妻は言った。
「俺だって、同じ気持ちだよ」と、私は妻の手を取った。指先は血が巡っていないのかと思うくらい冷たく、細くなったような気がした。
「私がどれだけがっかりしたか、分かってもらえる?」と妻は言った。
「もちろん、良く分かってるよ」
「ごめんね、起こすつもりなかったの。もう少ししたら寝るから、気にしないで、寝てね。さっきは少し言い過ぎちゃった。明日早いんでしょ? 寝ていいからね」
「分かった。恵子もね」
 妻は私に軽く微笑んだ。疲れている感じだった。妻に倒れられたら、マリのことも、家のことも、全て回らなくなるのは目に見えていた。私の仕事も精神的にかなりきていた。マイホームについては少し無理をさせてしまったかなと思ったが、欲しいと言ったのは妻の方だった。もう半分出来ているのだ。後の半分、もう少ししたら新しい生活が始まる。ローンは残るが、それ以上に幸福な家庭生活が待っているのだ。この狭いアパートもおしまい。家のサイズは心のサイズ、余裕が出れば家族も仕事も全て上手くいく、少なくとも私はそう信じていた。

 営業担当者から携帯に連絡が入ったのは、ちょうどこれから家を出ようという時だった。建築中の家でボヤ騒ぎがあった、ということだった。幸い全焼は免れたが、一部の木材が燃えたと。私は至急上司にメールを打ち、少し遅刻をする旨の連絡を入れ、妻と現地に向かった。今日の仕事の約束はどうしても延期するわけにはいかなかったが、我が家から火が出たとなれば、そうもいかなかった。
「どうも放火のようですね」と営業は言った。「夜中の三時頃、近隣の方が気付いて」
 既に警察も消防も処理を終えたのか、そこには誰もいなかった。少し焦げ臭いが残っており、庭になるべきスペースには水溜まりが出来ていた。一番黒く煤けていたのは、マリの部屋だった。見ただけで、これは建て替えなければ使い物にならないだろうな、という程の焼け方だった。ボヤどころではなく、半焼に近かった。
 私は煙草の話が直ぐに頭に浮かんだが、しかし午前三時に火が上がるというのはありえなかった。既に作業が終わってから相当時間が経過した後の話だ。仮に作業で火種が残っていたとしても、十時間近くも経過してから燃え広がる、というのは考えにくかった。しかし、この状況を見て、妻はきっとそう思っているだろうなと思った。
 妻は放心していた。ボヤだと言った後から、妻は一言もしゃべらなかった。楽しみにしていた家が燃えるなんて、誰も想像できることではなかった。妻はじっと黒ずんだマリの部屋を見つめていた。昨晩からの寝不足も祟って、かなり憔悴しているように見えた。あってはならないことが、起きてしまったのだ。妻の精神状態を考えると、錯乱してもおかしくない状況だった。
 妻は黙ったまま一点を見つめていた。今この若い営業に言いたいことは山のようにある筈だった。妻の気持ちを察すると、私はいたたまれなかった。
「川久保さん、この感じでは部材交換では済まないと思いますので、建て替える必要があるかと思います。もちろん保険入ってますので、費用はこちらで持ちます。ただ、工期が伸びてしまうのはご了承下さい。どのくらいになるかは、また別途ご連絡しますので」
 営業はいつもの調子とは違い、神妙な面持ちでそう言った。私は職人が現場で煙草を吸っていたという事実を、今この場で持ち出すか否か悩んでいた。しかし、煙草の不始末だろうが放火だろうが原因はともかく、結論は建て替えるということであり、我々の引っ越しも、また何か月か先送りにされる、ということには変わりはないと思うと、彼に文句を言う気も削がれた。
「戻りましょう。マリが一人ぼっちだから」
 営業に何か一言二言言っていくのかと思ったが、まるでそこには我々以外の誰も存在していないかのように、妻は車の助手席に早々と座った。
「今日は時間ないから、また改めて連絡します」と彼に言って、私は車のエンジンを掛けた。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」と担当は深々頭を下げた。煙草の一件は改めて言わなくちゃ駄目だな、と私は思った。
「ねえ、あの家はもう終わりにしましょう。これで踏ん切りついたわ」
 車が走り始めると、極めて落ち着いた感じに、妻は言った。 
「終わりって?」
「契約解除する。あそこには住まない。住めないわよ、もう。縁起悪い」
 私は信号で停止した。心臓が思ったより早く鼓動しているのに気が付いた。今日のこれからの仕事とマイホームの火事と妻の言葉が混然一体となって思考を支配し、離合集散を繰り返した。それぞれの課題に対する最適解が上手く整理出来なかった。あるがままを受け入れざるを得なかった。口は干からび唾液さえ出てこなかった。
「何か、さっぱりしたわ。しばらく家のことは考えたくない。うんざり。ねえ、どこか旅行行かない? たまには遠出しましょうよ。マリに飛行機乗せてあげたいなあ」
 妻の横顔は、笑っているように見えた。どこかほっとしているような感じだった。
 足元のフロアマットは、泥で酷く汚れていた。先週洗ったばかりの筈だった。契約解除などそう簡単に出来るのだろうかと、私は旅行よりその事を考えていた。妻は窓を半分開け、鼻歌を歌っていた。それは私には分からない曲だった。この妻とは、後何十年も一緒に生きていくんだよなと、私は改めて思った。
 アパートの前に、一台のパトカーが止まっていた。
「何だろうね」と私は言った。
「さあ」と妻は関心もなさそうに言った。
 ワイシャツの首が既に湿っていた。今日もまた、酷暑の一日になりそうだった。(了)

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