土を食べる。

 今朝、土を食べた。昨日も一昨日も、土だった。最近は土ばかりで、しばらく米を食べていなかった。さすがにこう毎日土ばかりでは辟易するが、妻はそうでもないようだった。家計が逼迫しているのだから仕方がないという消極的な選択肢ではなく、むしろ米や食パンと同列に土がある、という感じだった。
 ベランダの室外機の脇にある二十リットルの土袋から、百均で買ったスコップで茶碗によそった。梅雨時の腐葉土はより湿っぽく、べたついている感じがした。炊き上がりの米を炊飯器からしゃもじでよそるのとは違い、ベランダのポリ袋からスコップというのはどうにも味気なかった。
 しかし妻は実に美味そうに、土を食った。これ程美味そうに土を食う女性を、僕は見たことがなかった。大きな梅干しの果肉を半分砕いて土に乗せ、上品に口元に運んだ。がさつで大雑把な僕とは真逆で、妻は何事においても慎重できちんとしていた。僕はどれ程努力しても、土だけは美味そうに食えなかった。否、美味くないものを美味そうに食うふりをするということはできなかった。やっぱり米が食べたかった。どう考えても、梅干しには土より白米だった。
「相談なんだけど、明日どうしても断れない飲み会があるんだ」と僕は言った。「行ってもいいかな」
 妻は黙々と箸を動かしながら、どうぞ、というように軽く頷いた。「それ相談じゃないわ。もう結論出てるじゃない」
 妻はテレビを見ながら諦めるように答えた。金のかかる話を妻にする時は、独特の緊張感が走った。自分で稼いだ金を使うことがこれ程難しいということを、僕は結婚してから初めて知った。
「塾の夏期講習代、来週までに払わなきゃいけないの」
 独り言のように、妻は呟いた。僕はどう答えて良いのか分からなかった。妻は一口、二口土を箸にとり、こまめに咀嚼した。僕も先に梅干しをかじり、その後で土を食べた。がり、という嫌な音がした。奥歯に何か小石のような固い物が触れた。いつか銀歯を傷つけるのではないかと気になりながら、僕は一息に丸飲みした。異物を探し出すのも億劫だった。大抵僕には異物が当たり、妻には当たらなかった。いや、妻も異物を感じているのかもしれないが、僕みたいに嫌な顔一つせず、黙って処理しているのかもしれなかった。
「ねえ、聞いてる?」と妻は僕を諭すように言った。
「聞いてるよ。夏期講習の支払いを来月」
「来週よ。これからもっとお金かかるの、分かるでしょう?」
「もちろん分かってるよ」
「なら、嫌な顔しないでちゃんと食べてよ」
「嫌な顔なんてしてないよ。ちゃんと食べてるよ」
 酷い顔して食べてるのだろうな、と僕は思った。
「土のフルコースを出してるレストランが五反田にあるくらいなのよ。土だからって馬鹿にしないで」
「馬鹿になんてしてないって」
「嘘ばっかり」
 テレビは首都圏ニュースが始まっていた。そろそろ息子の塾のお迎えの時間だった。僕は残りの土を急いでかき込み、席を立った。息子だって、本当は土ではなく米を食べたいに決まってる。妻だってもちろん、本音はそうだろう。これだけ長い間給料が上がらないとは想像もしていなかった。僕だって、まさか主食に土を食べることになるとは。
 しかしこれが現実だった。土でさえ贅沢なのだと言われたら、もう何も言えなかった。全ては僕の責任であり、僕にしか解決できない問題だった。一刻も早く、こんな生活から抜け出したかったが、為す術がなかった。手詰まりだった。妻にも解決策を提案できない以上、僕は黙って妻の用意した土を食う他なかった。

 恋人は、僕の左腕に抱かれていた。酒も飲まず、まだ一度しか果てていないのに、恐ろしくだるかった。恋人は僕の胸の上に置いた手で、僕の乳首をもてあそんでいた。以前はくすぐったくて止めてくれと言っていたのに、最近はくすぐったささえ感じなくなっていた。体全体が分厚いスキンで覆われているかのようだった。
「香水変えた?」と恋人は聞いた。いや、と僕は否定した。
「何か違う臭いがするのよ、何だろう」
 恋人は僕の脇の下あたりに鼻を近づけた。香水など変えていないどころか、普段香水は付けていなかった。誰かと間違えているのだろう。
「どんな臭いなの?」
「この前から思ってたんだけどさ」
 言い辛そうにしているので、正直に言っていいよ、と僕は促した。昔妻からは口臭について何度か咎められたことがあったことを思い出した。
「ゴボウ」と恋人は言った。
「ゴボウ?」
「そうよ、ゴボウ。何て言うの、土の臭いがする」
 僕は観念した。なるほど、土ばかり食べていると、体が土臭くなるのだ。
「怒った?」
「怒るって、何で?」
「だって」
「でも本当にそういう臭いするんでしょ?」
 何度か瞬きを繰り返してから、恋人は申し訳なさそうに言った。
「悪い意味にとらないでね。あなたが正直に言っていいっていうから。でも拒絶したくなるような臭いではないわ。何て言うか、畑で寝転がってるみたいな。母なる大地ってやつ?」
 恋人が真面目に言っているのかふざけているのか良く分からなかったが、しかし少なからず、僕はショックだった。ついにそこまで来たのか、と思った。土を食い続けることは、やはり常識的に考えてもおかしいことなのだ。
 さすがに恋人には、毎日土を食べているとは言えなかった。それをあえて指摘してくれたことにむしろ感謝すべきである筈だった。つい今しがたまでの彼女への情熱が、既にかけらもなくなっているどころか、嫌悪すら抱いていることに気付いた。いや彼女の方こそ、土の臭いのする男なんて金を積まれても抱かれたくないだろうなと思った。金持ちの彼女にはいくらでもお相手はいるのだ。
 隣の部屋の玄関扉の閉まる音が聞こえ、その後で人の声が聞こえた。エアコンの冷暖房の設定が間違っているのではないかと思うくらい、室内は汗ばむほど蒸し暑かった。
「大地讃頌って、合唱で歌わなかった?」と恋人は聞いた。
「いや、知らない」と僕は言った。歌ったけれど、これ以上この話を膨らませたくはなかった。
「知らない? 本当? へえ、そんな人もいるんだ」
 不思議な生き物を見るような目で、恋人は僕を見た。恋人のスマホがテーブルの上で鳴ると、ごめんと言って、裸のままスマホの画面を指で叩き始めた。僕は身を起こして、聞こえないようにゆっくり溜め息をついた。
 そろそろ潮時かもしれなかった。今すぐシャワーを浴びて身を清めたかった。自身が酷く不浄に思えた。体から土の要素を一切消し去りたかった。
 しかしベッドから抜け出す気力がなかった。恋人は足を組み、難しい顔をしてスマホを見つめていた。無性に煙草が吸いたかった。こういう時に煙草を吸えたら、どれほど気持ちが休まるだろうと思った。煙草は息子の誕生を機に、もう何年も止めていた。止めなければ良かったと後悔した。
 どこかの部屋から、今度はカラオケで歌う下手糞な男の歌声が聞こえてきた。一刻も早くここから退散したかった。恋人はスマホを打ち終わると、ちょっとシャワー浴びてきてもいい、と僕に聞いた。いいよ、と僕は言った。行為の途中で恋人がシャワーを浴びるのは珍しいことだった。
 シャワーの音が聞こえると、僕は急いで服を着て、髪形だけ整え、そのまま静かに部屋を出てホテルのエレベーターボタンを押した。どうせ本名も住所もお互い知らないのだからと、僕はこれ以上この恋人と関わるのは止めようと誓った。
 街はフライデーナイトを楽しむ多くの人々で賑わっていた。世の中のどこか不景気なのか、僕には実感が湧かなかった。ただ単に、僕の会社だけの話なのかもしれなかった。
 この中に、どれ程の人が毎日土を食べているのだろうと思った。そもそもこの都会に天然の土などあるのだろうか。町の大半は、コンクリートと鉄とガラスで出来ていた。両手の平を鼻に当てて嗅いでみるものの、土の臭いを感じ取ることはできなかった。
 スマホのライン電話が鳴っていた。恋人からだった。電話を切り、そのままブロックした。もう十時過ぎだというのに、電車はまるで通勤ラッシュ並みに混んでいた。僕はもう一度腕の臭いを嗅いだ。かすかに土の臭いがする気がした。家に着くまで、僕の頭の中には、ずっと「大地讃頌」の合唱が流れていた。

 自宅に戻ると、キッチンの明かりが灯ったまま、妻の姿はなかった。息子はまだ塾に行っている筈の時間帯だった。まな板の包丁は、長ネギを切る途中で止まっていた。
 スマホを見ると妻からのラインが入っていた。富士見公園北側の土手にいる、と。僕は鞄を置いて、そのままの格好で家を出た。公園は歩いて直ぐの場所だった。どうしてそんな場所にいるのか理由は書かれていなかったが、薄々想像はついた。
 街灯も月明りも辛うじて届くか届かないかという微妙な場所に、妻はいた。斜面の中腹にしゃがみこんで、一心不乱にスコップを動かしていた。僕が「どうしたの?」と聞くと、「たまには腐葉土じゃないものをと思って」と、妻は言った。「ここの土は関東ローム層だから、売ってるのよりずっといいのよ」
 そういって、妻はスコップでかいた土を次々にバケツに入れた。「粘土質のいい赤土なの。この辺は結構穴場らしくて、ほら、ここなんか誰か掘った後がある。土も地産地消が一番」
 妻はやけに楽しそうだった。ウインドブレーカーに丸いつばの付いた帽子を被り、軍手をして土を掘っている姿は堂に入っていた。こんなに生き生きとした妻を見るのは久しぶりだった。関東ローム層の土と言われてもピンとこないし、赤土だろうが粘土質だろうが、もう土はこりごりと思って帰ってきた筈なのに。
「あのさ」
「なあに?」
 妻は背中で返事をした。コンビニで冷凍の米でも買ってこようか、とはとても言えなかった。既にバケツは赤土で八割方埋まっていた。月の明かりがスーパームーンかと思うくらい煌々と大きく見えた。
「いや、何でもない」と僕は答えた。「手伝おうか?」
「お願い。深いところの土を掘るのは、結構力がいるの」
 僕は上着を脱いで植え込みに引っ掛け、妻の元へ近寄った。妻はスマホのライトで僕の足元を照らした。スコップは案外思ったより深くまで地中に刺さった。何度か掘っていると、妻の言う通り、柔らかくてねっとりとした土の感触が指先に伝わった。この妻とは結婚する時、一生一緒に生きていくと決めたのだと、僕は改めて思った。
「ちょっと味見してみる?」と僕は言った。
「さっき少し食べちゃったけど、でももう一回」
 スコップの先についていた土の塊を、妻の手の平に乗せた。僕もバケツに盛った一番上の土を一口摘まみ、舌で転がすように舐めた。いつもの土と基本的には変わらない感じだが、金属臭というか、錆びた鉄のような香りが口の縁に残った。これはきっと好きな人にはたまらないアクセントなんだろうな、と僕は思った。
「どう? 腐葉土より美味しくない?」と妻が目を見開いて僕に言った。
「美味しいね。やっぱり掘り立てだからかな」
「そうそう。土も野菜と同じなのよね。新鮮が一番」
 妻の口の周りについた土を、僕はハンカチで拭いた。ありがとう、と妻は言った。明日の朝が愉しみだよ、と僕が心から言うと、妻はとても嬉しそうに微笑んだ。
 離れた斜面に、もう一組の夫婦が、同じようにバケツとスコップを持って土を掘り始めた。軽く目配せすると、向こうも頭を下げた。どこの誰かは知らないが、ここにも一組土を食べる夫婦がいるのだと思うと、心がいくらか安らいだ。月が陰ると、辺りは急激に暗くなった。堕ちるところまで堕ちたら、後はもう上がるしかないじゃないか、それだけを心に留めて、僕はもう一つまみ、土を食った。(了)

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