短編小説

 あなたは今、「短編小説」を読み始めている。
 私はあなたにどのような「短編小説」を提供しようか、思案の途中である。あなたにとって、この「短編小説」が少しでも印象深く心に刻まれるよう、これまでに類のない「短編小説」の完成を目指して妄想を続けている。

 かつて短編の名手たちは、小説のプロットやクライマックス同様、「書き出し」には神経を使った。冒頭からいかに読者を小説に引きずり込めるか、「書き出し」の良し悪しがその小説の成否さえ決してしまうことを本能的に理解していた。例えば、

「崖へ向かう道で、老人は片手だけハンドルにおいていた。反対の手には煙草だ。車の中にワインと煙草の灰が匂った。咳をしつづけている。しゃべる声まで咳のようなものだ」(『崖』/チャールズ・バクスター)

 冒頭から、不穏な空気が漂っている。とある「老人」が、「飲酒運転」の状態で「崖」を目指して車を運転している。「咳」が止まらず、しゃべり声さえ「咳のようなもの」ということから、健康状態が良くなく、目前に「死期」が迫ってきていることさえ暗示される。最初の数行で、物語は走り出しており、読者は一体これから何が起こるのだろうかと、間もなく何らかのトラブル、事件あるいは事故現場の目撃者になるであろう自身に期待するのである。
 あるいは次。

「禅智内供の鼻といえば、池の尾で知らない者はない。長さは五、六寸あって上脣うわくちびるの上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶらさがっているのである」(『鼻』/芥川龍之介)。

 今度は容姿の特異な主人公の登場である。「五寸」とは約一五センチ、そのような鼻を持つ人物をあなたは現実に見たことないであろうし、冒頭から空想力をかき立てられる。何故そのようなことになったのか、今までどのような不便があったのか、そしてこれからその「長い鼻」がいかなる事態を引き起こし、主人公にどのような災いや幸福をもたらすのか、あなたは直ぐに先を読みたくなる筈である。

 この二つの例で私が言いたいことは、「短編小説の書き出しは重要だ」ということである。翻って、あなたが今読み始めたこの「短編小説」はどうであろうか。

 あなたはそろそろ苛立ちを覚え始めている。いつになったら「短編小説」が始まるのかと。貴重な時間の合間を縫って、無名の素人が書いた小説を読んでやろうとしているのだ、と。バクスターのようなハラハラする状況小説や、芥川のような妖怪小説を。しかし私はまだ「短編小説」を始めてはいない。否、始められない。
 回りくどい言い方は止めて、正直に白状しよう。
 私はまだ、小説のストーリーを思いついていないのだ。何もないところで、いきなり小説を書き始めるなどという芸当は、私にはできない。

 例えば「絵画」。白いキャンバスに絵を描くには「題材」が必要である。写実なら目の前のモデルや事物が、空想なら頭に浮かび上がるイマジネーションそのものが「題材」であり、それがあって初めて「描き始められる」わけであり、書く「題材」を「決めていない」のに、描き始めることはありえない。
 小説もまたしかり。私は一体どのような話を書けばよいのか、書くべきなのか、それは書き手である「私」が決めることであり、「私」にしか決められないことである。
「ネタ切れになった小説家など、もう終わりではないか」と思われるかもしれない。あるいは「怠慢だ」「もったいぶっている」「まさかこれを小説なんて言い始めるんじゃないだろうな」と。正確に言うと、そのどれもが正解であり、間違っている。
 いずれにせよ、作者たる私自身が「まだ小説を始めていない」と言っているのだから、読者たるあなたは、未だ私の駄文に付き合わされているわけである。
 もちろん、モチーフもプロットも一切決めず、いきなり「冒頭の文章を書き始める」という行為自体は、現実的には可能である。その一文を起点に妄想を膨らませ、「短編小説」の体裁を整えながらストーリーを組み立てて展開していくというやり方は、ありえなくはない。

「息子の死を聞いた時、俺は会社のトイレで自慰をしていた」。

 例えば、このような書き出しを考えた場合、私は直ちに想像を強制される。まず第一に、現実問題として「息子」は死んだようである。息子はいくつなのか、病死なのか事故死なのか、父親と想定される「俺」とは、どのような親子関係だったのか、そうした息子に関する情報をこれから私は整備しなくてはならない。
 加えて、「息子の死」を聞いたのが「会社のトイレ」であり、しかも「俺」は事もあろうに「自慰をしていた」のである。そもそも「俺」の職業は何か。「会社」という表現から、恐らく肉体労働者ではなく「ホワイトカラー」のイメージが想起される。そして自慰行為。
 会社のトイレで自慰すること自体は、取り立てて不自然ではなく、むしろ「スマホ」という小さなパソコンと共に生きている現代社会においては、むしろ日常的行為とも言える。実際、「会社のトイレ」でどれだけのサラリーマンが「自慰」をしているのかの統計上の数字は知る由もないが、ポイントは「母親」の存在がこの一文だけでは不明であり、「俺」と「母親」との関係もまた、いずれ説明しなければならないということが暗に示されている。「息子の死」という悲劇に直面した瞬間、「俺」は会社のトイレで「自慰をしていた」という対比が、以降の物語にどのような影響を与えるのか、否、どのような物語であるからこそ、この冒頭の一文が生まれたのか、作者である「私」は、適当に書き始めた一行からそうした想像を働かせ、二行目以降を書き足して物話を動かさなければならない。
 しかし今、私にはその意思はない。この一文はあくまでも「例」として提示したまでであり、もし本当にここから小説を立ち上げるというなら、それはまた別の機会に、別の形でチャレンジしてみるつもりである。

 さて。
 あなたの忍耐力も、最早限界に近づいている。一向に語が始まらないどころか、主旨の分からない文章を、既に四百字詰め原稿用紙五枚以上も読まされているのである。これまでのあなたの長きに渡る読書経験の中で、そうした経験はあっただろうか。少なくとも私は、ない。
「短編小説専門作家」の書く、「短編小説ではない」もの。一体それは何なのか。私はあなたの期待を裏切っている。アイデアの枯渇を認めようとせず、いつか物語を始めよう、そのうちに始まると思わせぶりな態度をとり、大家の「書き出し」を引き合いに出したり、思いつきの「書き出し」に解説を加えたり、読者を馬鹿にするにも程があるというものだ。
 もし、私があなただったら、とっくに他のページに遷移し、あるいはパソコンやスマホの電源を落とし、借りていたDVDを返しに行くか、晩御飯の支度を開始する。こんなふざけた文章をいつまでも読まされ続けるのは、小説愛好家への侮辱であると激怒し、もう二度と「高橋熱」の小説は読むまいと誓う。
 最早、私は「物書き失格」と言わざるを得ない。この小説を最後にして、私は小説を書くことを止め、堅気の仕事に徹し、これまで小説に費やしてきた情熱を、もっと家族のために、地域のために、そして世界平和に繋がるボランティア活動にでも注ぐべきなのかもしれない。恐らく、神は私をそのように導いている。
 小説を捨てる、というのは私にとって辛いことである。まるで「人生の伴侶」をもがれる気分である。否、「伴侶」ではない。小説は即ち「私そのもの」であり「高橋熱」の存在理由である。小説が失われたら、私がこの世に生きている意味が、証しがなくなるに等しい。
 しかし悲しい哉、私が小説を捨てることは、読者であるあなたにとっては何の関係もないばかりか、私一人くらいこの世から消え去ったとしても、代わりなど星の数程いるのだ。私が小説を書かなくなって困るのは、とどのつまり「私」だけであって、あなたではない。
 あなたはこう思うかもしれない。「自惚れるのもいい加減にしろ」と。「言い訳はもう聞き飽きた。つべこべ言わずに早く短編小説を書け」と。これ以上私が何を言おうと、あなたにはもう通じない。あなたの期待を私はどこまでも裏切り続けている。まるで私と妻との関係のように。

 私は妻を裏切り続けている。結婚した当初の約束を、全く果たせないでいる。結婚二十余年、私は妻を一向に幸せにできないばかりか、当時より不幸をもたらしてさえいる。金で苦労させ、女で苦労させ、酒で苦労させ、まるで時代錯誤の「無頼派」のようである。今年の春いよいよ小学生になる息子以上に手の掛かる「夫」であり、息子以上に「息子」である。妻の白髪が増えたのはひとえに私のせいであり、白髪を染めることのできない経済状態にしているのも私である。式の日、神父の前で誓ったあの言葉は一体何だったのだろうか。結局、私はこの駄文同様、人を裏切る能力ばかり長けているのである。
 閑話休題。

 そろそろデスクに戻り、私は仕事を再開しないといけない。午後三時からの会議資料がまだ出来上がっていないのだ。まさか職場でこの文章を書いているとは、あなたは思ってもみなかったはずだ。もっとも、私が「いつ」「どこで」この文章を書いているのかなどという情報は全く不要だと思った故に伝えていなかっただけで、いよいよここにきて万策尽き、私は読者にとって全く無価値な情報で文章を繋ぐ、という悪あがきを始めた。私がどこまでもクズで駄目人間かということが理解いただけるだろう。

「メモ帳」アプリを閉じ、ウォシュレットのボタンを押す。リズミカルな水流が、私に抗えない雄の気持ちを呼び起こす。シークレットフォルダにあるブラウザから馴染みの動画サイトを開きサムネイルをスクロールする。
 私は若い女の尻が大好きである。複数の娘が尻を剝き出しにして整列するシチュエーションの画像を見つけるや否や、私は躊躇なく動画の再生ボタンを押す。もちろん、左手はとうに自身を愛撫する準備を完了している。
 その時、スマホが突然振動し始め、画面に妻の名前が表示される。危うく便器にスマホを落とし掛ける私。出るべきか、出ないべきか。
 嫌な予感がした。トイレに他人がいる気配はなかった。下半身もそのままに、緑色の「受話器アイコン」を右にスワイプして、小さな声で「もしもし」と言った。電話の向こうにいる筈の妻から応答はなく、啜り泣く声だけが聞こえていた。その数秒後、私は妻から絞り出された衝撃的な言葉を聞くことになる。
 「短編小説」はここにきて、次の「書き出し」をもって、いよいよ動き始めたのだった。

「息子の死を聞いた時、俺は会社のトイレで自慰をしていた」(了)

【参考文献】
〇芥川龍之介(1986)『羅生門・鼻・芋粥』角川書店
〇ロバート・シェパード,ジェームズ・トーマス編(1994)『Sudden Fiction(超短編小説70)』(村上春樹・小川高義訳) 文藝春秋.

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