静けさ

 池は、いつも静謐だった。都会の住宅地にあるとは思えない程、辺りは鬱蒼とした木々に覆われ、水面はどこまでも暗く深かった。
「立ち入り危険」の看板と規制線を侵して、少年は池を眺めるのが好きだった。細かな泡がぷつぷつ湧き上がっている場所があり、それは湧き水なのか魚の呼吸なのか分からなかったが、この池も生きているのだと思うと、不思議と心が安らいだ。
 今日は珍しく先客がいた。白髭を蓄えた色黒の老人が、池に糸を垂れていた。折り畳み式の小さな椅子に座り、煙草をくゆらせながら、糸と水面の境目にある赤い浮きを眠るように見つめていた。
「おじさん、ここで何が釣れるの?」
 少年は老人の世界を壊さぬよう、背中越しにそっと聞いた。
「色んな物が釣れるんだよ」と老人は言った。「見ててご覧」
 そう言うや否や、浮きがびくんと水中に沈むと、老人は勢い良く竿を上げた。「びゅん」という音の後に小型の魚が宙を舞い、老人の手元に着地するのを、少年は大道芸でも見るように感心して眺めた。
「タナゴだよ。綺麗な色してるだろう?」
 老人は手中の獲物を少年に見せて確認すると、手際よく針を抜いて池に戻した。あんな可愛い魚が住んでるんだ、少年は胸をときめかせた。
「よし、次は」
 老人は再び竿を振って、なるべく遠くに針を落とした。しばらく待つと再び獲物がかかり、竿がぶるっと震えた。今度はもう少し大物のようだ。老人は煙草を空き缶に落として網を手に取った。黒い塊は飛沫を立て八の字を描くように逃げ惑っていたが、間もなく力尽き大人しく網の中に収められていった。
「これはこれは大きな鯉だ」と老人は頬を緩めた。池のほとりで口を開け閉めしている巨大な鯉に、少年も感激していた。少年は生まれてこの方、釣りをしたことがなかった。気配を察したのか、老人は少年に竿を託し、釣り方のコツを伝授した。しかし、何度やってみても、少年はうまく魚を釣り上げることは出来なかった。焦っては駄目なんだ、と老人は言った。若い人は我慢を知らない。
 再び老人が竿を持った。老人の服には煙草の臭いが染みついていたが、少年にはそれが不快に感じなかった。以前にもこうした臭いの優しい大人に会ったことがある気がした。
 それからは中々当たりはなかった。浮きはじっとそこに留まったままだった。時々老人は意味もなく竿を上げた。その都度、魚ではなく違ったものが引っ掛かった。藻草や細枝は元より、ビニール袋や運動靴、ランドセルに一輪車、手榴弾なんていうのもあった。そんなものまで釣れるのか、と少年は驚いた。ここは以前、陸軍工廠があったところだからね、と老人は懐かしそうに言った。
「とにかく、焦っちゃいけないんだよ、坊や」
 がっかりした様子はなく、老人はそう言って黙々と針の先に餌をつけては、何度も繰り返し糸を垂らした。「電源タップ」を釣り上げた頃には、日も徐々に暮れ、そろそろ潮時だろうということは、少年にも肌で分かった。
「今日はこれで最後にしよう」
 老人は少し疲れた感じで言った。最後の一投。これまでとは反対に、老人はなるべく近場に勝負を賭けた。久しぶりに浮きが激しく動き、やがてすっと姿を消した。
「きた!」
 老人は立ち上がり、竿を一気に持ち上げた。少年も無意識に網を手に取り、獲物が現れるの待ったが、残念ながら結果は女性のショルダーバッグだった。
 しかし老人は持っていた水筒でバッグを洗うと、「まさか」と言ったきり、その場にへたり込んだ。そしてバッグを開け中の物を確認すると、そのまま全てを抱きかかえ、おいおい泣き始めた。少年はどうしてよいか分からず、ただ老人の背中をさすることしか出来なかった。
妻の物なんだ、老人はどうにか声を絞り出した。少年は何も答えられなかった。ただそれは老人にとって、命と同じくらい大事なものなのだということは、小動物のように震える老人の様子で分かった。
「帰ろう、坊や。楽しかったよ」
 老人はどうにか立ち上がり、道具や椅子をそのままにバッグだけを持って、少年が元来た道とは違う茂みに向かっていった。さようなら、と少年は老人の背中越しに言った。「またな坊や」と言って、老人は振り返り手を振った。
 周囲は既に真っ暗だった。ちゃぽんと池の方から何か音が聞こえたが、振り返るのが怖くて、少年は一目散、家に向かって駆け出した。

 池のほとりには、近所に住む父と子がいた。
 子の方は先の感動が忘れられず、父にせがんで道具一式を買い揃え、釣りを楽しんでいた。魚は「入れ食い状態」だった。どんな種類の魚も釣れた。前回の不発が嘘のようだった。父の方はからっきし駄目だった。ガラクタばかりだった。途中で父は釣りを諦め、ビールを飲んだ。少年はいつまでも釣り続けた。楽しくて仕方なかった。あの老人にめちゃくちゃ褒めてもらいたかった。
 再び、大きな獲物の予感がした。今までにない重さだった。少年は父を呼んだ。父は半分居眠りをしていたが、引きずり込まれそうになっている我が子を見て、急いで跳ね起き息子を背後から抱きかかえた。
 親子二人でようやく引き上げた物は、人だった。顔に絡みついた藻屑を取り除くと、少年はあっと声を上げた。この前の老人だった。色黒の顔は更に色濃く、穏やかだった。腕にはショルダーバッグのベルトがぐるぐるに巻かれていた。老人は確実に死んでいた。少年にもそれが直感的に理解出来た。人の死を見るのは叔母に次いで二回目だった。
「こんなものまで釣れるのか」と父はうんざりしたように言った。
「色んなものが釣れるから楽しいんだよ」と少年は得意げに言った。でもこれ以上、ここで釣りをするのは止めようと思った。もうここに生き物は何一つ住んでいない気がした。
「そろそろ帰ろう。父さん腹減ったよ。今日は焼肉みたいだよ」と父は言った。
「本当? やった」
 少年は道具を片付けながら素直に従った。
「パパ、ママを大事にしてあげてね」
「何だよ、急に」
「お願いだから」
「いつもしてるじゃないか」
「いつも以上にさ」
「分かったよ」
 父と子は急な坂を上りながら、池を後にした。少年は一度だけ振り返った。釣り上げた老人の姿は、もうそこにはなかった。いつまでもある筈はない、と思った。焼肉など別にどうでも良かった。ただ、あの老人があの世で妻と再会し、幸福になることだけを祈った。
誰一人いなくなった池は再び、いつもの静謐さを取り戻した。(了)

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