未来について語るときに我々の語ること

 男と女は、公園のベンチに腰かけている。二人の間には雑誌一冊分の隙間が空いている。他に人影はなく、時折強く吹く風が、古ぼけた欅の葉を揺らしている。男は空を見上げる。三つ程星は確認できたが、それ以外は何も見えない。昔はもっと見えたのだろうが、男は大して昔を知らない。そんなことより、今はいかに女との距離を詰めようかということを考えている。物理的にも。心理的にも。こんな時に酒でも飲めたら、どれだけスムーズに事は進むのだろうと男は思う。
「ねえ、未来は明るいと思う?」と、女は男に聞く。
「明るいと思わなければ生きていけないよ」
 ちょっと投げやりかなと男は思ったが、「そうよね」と頷く女の表情を見て安心する。
「給料は上がらないし、年金もどれだけ貰えるか分からない。貿易摩擦も雇用情勢も気を抜けない。生活だけを考えたら、楽観できる材料はないよ。何より怖いのは」
「何より怖いのは?」
「認知症と介護。介護する側、される側。認知症になる側、面倒を見る側。肉体は健康なのに、精神が疲弊していく。そして誰もが当事者になる可能性がある。昨日まで健常者だった人が事故で障がい者になるように。突然家族が殺され、被害者遺族になるように」
「ねえ、怖いこと言わないで」
「今の幸せを誰だって失いたくないし、未来はもっと幸せになると信じたいのが人だから」
 何の話をしているのだろう、と男は思う。こんな話をするために、公園に来たわけではないのに。
 砂場を見ながら、男はふと幼い頃を思い出す。砂を出来るだけ高く盛って城を作り、そこから水路をひくのが好きだった。ジョウロで水を流し、最後は深く掘った貯水池に流し込むのだ。そうして砂場を水浸しにするため、男は他の子供達から嫌われた。だから男は、夕暮れ時の誰もいなくなった公園の砂場が好きだった。そう、今くらいの時間帯。あれからどれ程の月日が流れたのだろう。
「何かもう、疲れちゃった」と女は漏らす。放っておくと、女の身体が消えて無くなってしまうのではないかと思う程のか弱さで。せめて彼女の未来だけは明るくあって欲しいと男は願う。そして、その未来に自分も一緒にいれたら尚いい。
 女の指先は今、男の右手の少しだけ先にある。街灯のせいで、ただでさえ白い指が一層強調されている。わずかな勇気さえあれば手中に収めることは容易い。しかし万が一、いや、二分の一の確率で驚かれたり嫌われたりされるかもと考えたら、男はいつまでも行動に移せないままでいた。
 疲れたと言ったきり、女は黙っている。長いストレートの髪の毛がレースのカーテンのように女の横顔にかかり、表情を確認することは出来ない。一度大きく深呼吸したように思えたが、溜め息をついたのかもしれない。
 俺だって疲れてる、と男は言いたかった。でも今は自分のことはどうでも良い。「疲れた」と言う女にどう共感している意を伝え、そして少しでもその疲れを癒してあげられるかを考えていたら、やはりわずかな勇気を振り絞るべきだという原点に立ち戻り、堂々巡りを繰り返す。
「もう若くないんだね、私達」
 女は男の腕を取り、五センチだけ、男の方に身を摺り寄せる。男の堂々巡りは女の側からあっさり決着をつけられる。凡そ人生なんてこんなもの、と男は思う。
「皆疲れてる癖に、痩せ我慢してるだけさ」
 男は女の手先を自分の指に誘導する。女の手の平はかすかに湿っている。ささくればかりの自身の手を、男は申し訳なく思う。公園のトイレできちんと洗ってからにすべきだったと今更後悔する。
「結局、強い奴か、ずるい奴しか生き残れない世の中なのさ」
「世の中に詳しいのね」
「それなりに生きてきたからね」
「生き急いでいるのかもね」
 時間は刻々と過ぎている。これまでの時間も。二人の時間も。男は腕時計をちらと見る。
「引っ越しするんだ、来月」と男は核心を切り出す。
「え?」
「同じ市内だけどね」
「転校するの?」
「うん」
「どこに?」
「富士見が丘小」
「富士見が丘小ってサッカー強いとこだよね」
「良く知ってるね」
「サッカーやるの?」
「やらない。運動はからっきし駄目なんだ。吹奏楽も盛んみたいだから、楽器をやりたくて」
「何の楽器?」
「マリンバだよ。ショスタコーヴィチとかバルトーク」
「ごめんなさい、知らないわ」
「知らなくて当然。僕達には、まだ知らないことが多過ぎる。何せ十年足らずしか生きてないのだから。謙虚な気持ちになって新しい事を知ることが、未来を明るくする第一歩になる気がするよ」
「日々、勉強ね」
「それが本分だからね」
 引っ越しという言葉に、女の反応が想像以上に薄いことが男は気になっている。同じ市内だからいつでも会えると思ったのだろうか。同じクラスで顔を合わせるのと、離れ離れになって、時々しか会えなくなるのとでは、繋がりが細く薄くなっていくことを、男は本能的に分かっている。だからこそ、これからについて、女と時間をかけて話をしたかった。しかし今日はどうやらタイムアウト。
 さやか、そろそろ戻りなさい、というラインのメッセージ。女の自宅はもう目と鼻の先、送っていくまでもない。「ごめん、帰らなくちゃ」
 女は男から手を離し、重いランドセルを背負う。どこからか魚を焼いている匂いが漂う。
「じゃあ、またね」
「次また会えるかな」
「明日学校で会えるじゃない」
「そうか。そうだね。またね」
 女は手を振りながら、一度だけ振り返り、小さく微笑む。男も微笑み返すが、不自然に顔が引きつっているのが自分でも分かる。
 男も諦めてランドセルを背負い、家路に着く。不完全燃焼の感情の塊が、男の思考を肥大化させる。
 未来はそんなに暗いのだろうか、と男は女の顔を思い浮かべながら心の中で呟く。案外そうでもないかも。
 男は歩きながら天を仰ぐ。男の未来を祝福するように、空には満天の星たちがここかしこで瞬いている。(了)

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