下着泥棒

 話し合いの場は、既に整っていた。後は本人を待つだけだった。田中夫妻と藤木夫妻はマンションの隣同士、年が近く同じような時期に引っ越してきたこともあって、年に何度か食事をし合う程の仲だった。田中家に招くこともあれば、藤木家の食卓で食べることもあった。
 調度品や絵画、テレビ画面の大きさから、所得は藤木家の方が上に見えた。そのことについて啓介は、「証券会社はボーナスが違うからね」と妻の幸恵に僻みを漏らした。
 幸恵は藤木夫人の美的感覚を尊敬していた。モノトーンでコーディネートされたリビングやダイニング全体の雰囲気が、モダンであり都会的だった。観葉植物もベランダの園芸も良く手入れされていた。部屋には常に何かのアロマが漂っていた。物腰の柔らかい紳士的な夫、そしてモデルのように細く背の高い夫人の佇まいは、幸恵には理想の夫婦像だった。ただ一点、子供がいないという共通点を除いては。
 その理由についてお互い話題にしたことはなかったが、それを知らないことが、付き合い方に問題を生じさせることはなかった。それより何故四十を過ぎてもそのようなプロポーションを維持出来るのかということに、幸恵は何倍も関心があった。
 藤木夫妻をリビングに上げるのなら、もっと部屋を整えておくべきだったと幸恵は後悔した。二人の来訪は突然だった。いつもの食事会とは勝手が違った。部屋には気の利いたアロマではなく、唐揚げ用にすり下ろしたにんにくの臭いが漂っていた。植物は直ぐに枯らしてしまうので、買うのは造花ばかりだった。壁に洒落た絵画はなく、啓介の会社から貰った余り物のカレンダーが、大きな文字と余白で、その存在感を主張していた。
 いつもなら、ゆとりのある笑顔の絶えない藤木夫妻に、今日だけは笑顔がなかった。藤木は固く口を閉ざしたまま、時折奥歯を噛み締めた。今までに見たこともない険しい表情だった。夫人はずっと俯いたまま、白い顔をして身をこわばらせていた。夫人は何度か「私は帰った方が」と主張したが、その度、「証人としていて欲しい」と藤木に説得された。
 幸恵は未だに信じられなかった。自分の夫が下着泥棒をするなんて。しかも、お隣の顔馴染みの女性のものを盗むなんて。
テーブルには、防犯カメラに映った映像が保存されているという証拠のスマホが置かれていた。「田中さんが帰ってきたらお見せします」と藤木は言った。
 三人は無言のまま、刻々と時が過ぎた。今までどれだけの時間が経過し、これからどれだけの時間が必要なのか、幸恵には見当もつかなかった。とにかく自分の夫にかけられた下着泥棒という嫌疑をどう解釈していいのか、冷静に考えようとすればする程、混乱した。
「お茶、冷めちゃいましたね」
 余りの息苦しさに幸恵は席を立ち、やかんを火にかけた。
「どうぞお構いなく。忙しい時間帯に急に押しかけてしまってすいません」と藤木は丁寧に詫びた。お茶にはまだ一度も手を付けていなかった。時間は午後八時を回っていた。
 鍵を開ける音と同時に、「ただいま」と玄関で声がした。火を止め、幸恵は急いで玄関に向かった。足がもつれ、危うく廊下で転倒するところだった。
「ねえ、藤木さんずっと待っててもらってるから、着替えないでそのままいい?」
 啓介は黙って頷き、自室に鞄を置くと、少しだけネクタイを緩めた。箪笥の鏡に映った顔に、啓介はうんざりした。ただでさえ濃い髭がかなり伸びていた。手櫛で髪を整え、ティッシュで目やにを拭った。仕事上がりにそのまま二人に会うのは本来は避けたかった。しかも自宅で。
 訪問の理由は、幸恵から電話で聞いていた。今日は午前、午後と面倒な取引先の対応で酷く疲れていた。そこにきて、二人との話し合いは疲労感を駄目押しした。正直帰りたくなかったが、弁明しないことには拉致が明かないと思った。夫婦揃って帰りを待たれていては仕方ないと観念した。
 下着泥棒は、これで最後にするつもりだった。最後に見つかるとは、油断であり落ち度だった。かといって、その時の衝動を抑えることが出来たかと言われれば、それは不可能だった。当然、徹頭徹尾、白を切るつもりだった。
「大変お待たせしました」と啓介は軽く頭を下げながら、椅子を引いた。
「帰宅早々、申し訳ありません。また今日は夜分勝手にお邪魔させていただきまして」
 極めて落ち着いた感じに、藤木は言った。
「先月の食事会は大変ご馳走になりました」
「いえいえ、こちらこそ粗末な料理で、お二人のお口に合ったかどうか、あの後妻と反省しました。もっと気の利いたものをお出しすれば良かったと」
「粗末だなんて、料理上手な奥様で羨ましいですよ。ご存じの通り、うちのはあまり得意じゃないもので」
「いやいや、前回のエビチリは最高でした」
「すいません、あれ、自分が作ったんですよ。うちのは殆ど料理しませんから」
「ああ、そうでしたか。藤木さんは料理好きでしたもんね。逆に僕は一切やらないから」
「いや、奥様が料理上手というのは何よりですよ。妻が夕食を作って旦那の帰りを待つ、外食の多い私達からしたら田中さんご夫婦は羨ましい限りです。まあ、今の時代、そんなことを言うと時代錯誤だとか非難されるんでしょうけど」
「どこも共働きが多いですからね。一馬力だけでやっていけている藤木さんの方がずっと羨ましい」
「子供がいませんから。いたらそうはいかないですよ」
「うちも同じですけどね」
 社交辞令はいいんじゃないか、と啓介は思った。早く本題に入って欲しかった。話の節々に挟み込まれるブルジョワ的な物言いが、啓介には一々耳についた。
 幸恵が改めてお茶を入れ直しテーブルにつくと、藤木は姿勢を正し、軽く咳払いをしてから、話し始めた。
「すいません、今日伺ったのは、ちょっと確認したいことがありましてね。奥様にはお伝えしたのですが、改めてお話しますと、実は、このところ洗濯物がなくなることが多くてですね。具体的に言いますと、お恥ずかしい話なのですが、妻の下着がです。二枚干した筈なのに一枚しかなかったり、一枚干した筈なのに無くなっていたりと。
 うちのも少しぼうっとしてるところがあるので、最初は余り気付かなかったのですが、そのうちにこれはおかしいと。全体的に下着が減っていますからね。それもこの前買ったばかりのものが、一度使っただけでなくなるんですからね。
 さすがに妻も、これは盗まれているのではないかと。ひと月前に気付いたので、実際盗まれていたのは、更にその前からなのかと」
 淡々と説明する藤木に、時折相槌の目配せをしながら、啓介はテーブルの中心に置かれた茶菓子の皿を見つめていた。夫人は、長い髪の毛で表情を隠したまま、相変わらず俯いていた。幸恵には、少し震えているように見えた。自分の下着が盗まれた話を皆の前で晒されるなんてこの上ない恥ずかしさだろうな、と思った。同席させている藤木の意図が分からなかった。
「泥棒の話は町会の会合でも出ませんし、警察にも聞いてみましたが、特にこの地域でそういう話はないとのことでしたので、これはうちだけの問題なのかと。ただ三階ですからね。たまたま道を通りかかった盗人が配管なりなんなりをよじ登って三階にあるうちだけに侵入するなんていうことは考えにくい。風で飛ばされた可能性も否定できませんが、タオルで三六〇度囲っていましたから、ショーツだけが常に内側から飛ばされるということがあり得るのだろうかと。そして、五枚、六枚となくなった段階で、いやこれはやはりどうしてもおかしいということになりまして。もっとも、タオルで囲うというのは、かえってそこに下着がありますよ、と宣言しているようなもので良くなかったのかもしれませんし、そもそも下着を屋外に干すというのは、今の時代、やってはいけないことなのかもしれませんが、一人暮らしの女性のアパートならともかく、一応セキュリティのしっかりした分譲マンションですし、目の前に建物もありませんし、まさか下着泥棒の標的になるなんてことは夢にも思っておりませんでしたので、恥ずかしながら懲りずに何度も」
 藤木はそこで一度話を切って、初めてお茶に口を付けた。啓介は貧乏揺すりをしたいところをどうにか堪えていた。相変わらず、藤木の話はまどろっこしかった。単刀直入、盗んだのはお前だろうとだけ言えばいいじゃないか。早く湯船に浸かって、明日の仕事の段取りを考えたかった。
「余りにも癪だったので防犯カメラを付けてみたんです。ダミーじゃなくて、ちゃんとカラーで録画できるやつです。そしたらですね、今週の水曜日、一昨日の午後、何と現れたんですよ、大胆にも。時刻は午後一時半頃でしたから、正に白昼堂々って奴です。防犯カメラはかなり精度の高いものなので、結構はっきり映っていました。実に素早く、ショーツだけを盗っていきました。とても素早い行動でした。それでですね田中さん、ここが問題なのですが、どこから侵入したと思います?」
 藤木はやや語気を荒げて啓介に尋ねた。「さあ」と啓介は答えた。余計なことは極力喋るまいと心に決めていた。否、一刻も早くこの場をやり過ごしたかった。
「これ見てもらってもいいですか? 奥様も」と言って、藤木はスマホの画面をタップして田中夫妻の見つめる視線の真ん中に置いた。動画は一分程度で、カラーだった。再生を終了すると、「もう一度」と言って、藤木は改めてリピートした。それから呼吸を整えるように、鼻から大きく息を吸って吐いた。和室に移動したハムスターの「回し車」で遊ぶ音が、かすかに聞こえていた。しばらく啓介か幸恵どちらかの反応を待っているようだったが、特にそれもなかったので、痺れを切らした藤木は口を開いた。
「驚きでした。つまり田中さん、あなたの家のベランダから侵入した、ということなんですよ」
 映像に映し出されていた「下着泥棒」は、田中家と藤木家のベランダを仕切る非常用の「仕切り板」を外して侵入していた。火災が発生した時などに隣に逃げ込む際の緊急用の板たが、泥棒はその扉を外して通路を作り、下着を奪った後、再び綺麗に扉をはめ込んで田中家のベランダへと戻っていった。行為はあっという間だった。泥棒は黒いパーカーを被る以外の変装は、特に何もしていなかった。水曜日、幸恵は一日ファミレスのパートに出ていて、啓介は代休をとっていた。
 幸恵の頭は真っ白だった。啓介が今どんな表情をしているのか気になったが、顔を向けることは出来なかった。しばらく啓介は黙っていたが、夫人が一瞬顔を上げて啓介を一瞥したのを潮に、啓介は覚悟を決めた。
「こんなのと鉢合わせしたら、溜まったもんじゃないですね。それにしても大胆だなあ」
 意外な反応だった。藤木の期待していた言葉とは違っていた。幸恵も同じだった。一同、啓介の次の言葉に注目した。
「うちのベランダから侵入するなんて、実に度胸のある泥棒ですね。しかしうちの下着が盗まれたことは、なかったよな?」
 幸恵はひとまず頷いてみたが、思い当たる節がなくはなかった。
「まあ、うちのには何の興味もなかったんでしょう」
 そう言って、啓介はにやりと笑った。お茶はまだ十分熱かった。茶菓子を食べるのはさすがに気が引けた。藤木があっけにとられた顔をしているのが、啓介には愉快だった。愉しまない訳にはいかなかった。ここまできたら後には引けなかった。浮気や不倫と同じく、認めた段階で全て終わりだった。
「田中さん」
 藤木はいよいよ業を煮やしたかのように、テーブルに乗せた両手の拳を軽く固めた。
「こんなこと聞いてはいけないのかもしれませんが、この映像の男、誰かに似てませんか?」
「誰かって? 知り合いですか?」
 藤木は啓介を直視した。啓介も負けじと藤木の視線を受け止めた。弱みを見せたら負けだと思った。今度こそ正真正銘、名実共に、この二人を前に敗北を認めることになると思った。そんなことなら、もう死んでもいいとさえ思った。啓介はやけになっていた。
「分かりませんが、それなりの年の男のようですね。下着泥棒なんて、若い人はやらないですよ。そういうのに興味あるのは、比較的年のいった大人です。それにしても、実に大胆な男だ。排水管を伝って、ここまでよじ登ってきたということですよね?」
「いやもういいです」
 先に折れたのは、藤木だった。
「私達は今から被害届を出すつもりです。防犯カメラの映像も合わせて。田中さんもベランダに侵入されてますから、住居不法侵入で問えるんじゃないですか?」
 藤木が少し苛ついているのが声の調子で分かった。夫人は口を閉ざしたまま、徹頭徹尾黙っていた。いつもの夫人に比べると、今日はずっと質素で飾り気がなかったが、たまにはそんな彼女も素敵だ、と啓介は思った。盗んだショーツの中で一番いやらしいデザインを思い浮かべ、目の前の夫人に重ね合わせた。
「特にうちには実害ありませんから」
「この件で警察からお尋ねがあるかもしれませんが、その節はご迷惑をお掛けします」
 ここまで譲歩するつもりは藤木にはなかった。証拠を見せれば白状すると思っていた。この映像を見れば、当然認めるだろうと思っていた。誰がどう見ても、田中啓介だった。あくまで認めようとしない、ふてぶてしい啓介の態度が腹立たしかった。
 そして自身の妻を見やる、その視線。盗んだ下着で妄想しているのかと思うと、いたたまれなかった。この家の何処かに、自分の妻の下着が複数あると思うと胸糞が悪かった。やはり妻を連れてくるべきではなかった、と藤木は後悔した。しかし一人で敵地に乗り込むには心細かった。
 息苦しさの限界を無言で訴える夫人を、藤木は感じた。狂っていると思った。もっとも、最初から啓介という男は、どこか自分とは違う毛色を持つ男だと感じていた。今回の件でそれがはっきりと露呈した。ベランダの「仕切り板」を外して隣家の人妻の下着を盗んだ挙句、証拠を見せても認めないとは、どう考えても狂っていると。
「田中さん、夜分失礼しました。帰ります。一刻も早く、この気持ち悪い犯人を捕まえたいです。是非ご協力をお願いしますね」
「もちろんですとも。奥さんも大変でしたね。お気の毒様です」
 夫人は何の反応もしなかった。もう自宅に上がることは二度とないだろうな、と啓介は思った。当然、定期的に開催していた食事会も。前回のランチの後、ソファで寛ぐ夫人の、足を組み替える際にわずかに見えた白い影を、啓介は忘れることが出来なかった。あの衝撃。あの艶めかしさ。しかし白いショーツが洗濯物で干されていることは一度もなかった。
 幸恵は玄関まで藤木夫妻を見送った。啓介は幸恵の後に立ち、金属の沢山ついたパンプスを夫人がぎこちなく履く様子を眺めていた。藤木夫妻の身なりはいつもきちんとしていた。パジャマ姿でエレベーターに乗る啓介とは大違いだった。郵便受けに新聞を取りに行く時でさえ着飾っているのが、藤木夫妻だった。いや、そもそも着飾るという意識さえきっとないのだ。普通にしていても十分絵になる二人だった。それには夫人のモデル並みの身長とスタイルが大いに関係している、と啓介は思った。藤木夫妻が羨ましくて仕方なかった。どうして同じマンションに住む者同士でこれ程の差があるのか。二人が帰ったら、例の話をしなくちゃな、と啓介は思った。
 藤木夫妻が部屋を出た後で、幸恵はきちんと話をしたかった。今回の事の顛末について、ちゃんと啓介の口から弁解を聞きたかった。もっとも弁解といっても、まだ罪を認めていないのだから弁解とは言わないのかもしれないが。
 啓介はスーツを脱ぎ、シャツと短パンに着替え、缶酎ハイを冷蔵庫から出してソファに寝そべった。目を閉じたらそのまま寝入ってしまいそうだったので、諦めて上半身を起こして缶を開けた。目の前に幸恵が座っていた。一度玄関を開けたせいか、さっきまでの空気の澱みは幾分解消していた。話し合いをするタイミングが正に今であることは、自らの打刻音さえ打ち消す壁掛け時計の嘆息で察した。
「実はさ」と啓介は言った。「もう会社駄目なんだ。恐らく、この一月以内に倒産する」
 幸恵はてっきり下着泥棒に関する話だと思っていたので面食らった。
「出入りする人間の様子で分かるんだよ。社長もほとんど会社に顔を出さなくなってるし」
 いくら人手不足とはいえ、この年で再就職はきつかった。まだマンションのローンも二十年近くも残されていた。会社が倒産したら、退職金さえ払われない可能性だって十分ある。どのみち大した退職金でもなかったが。
 肴もなく、空きっ腹に酎ハイを流し込む啓介を前に、幸恵は未だ混乱していた。今宵直面した二つの大きな事実を、どのように消化して良いのか分からなかった。鼓動が早まり、身の回りの酸素がたちまち薄くなっているような気がした。
「赤字の値段でいつまでも売り続けてたら、そりゃ潰れるよ」
 レースカーテンの奥の窓は半分開け放たれていたが、部屋はとても静かだった。このマンションに住むことを決めたのは、この「静けさ」に魅かれたからだった。国道沿いのアパートに住んでいた頃と比べたら、天地の差だった。国道沿いは、騒音は元より大型トラックのタイヤの粉塵が巻き上げられ、ベランダの桟が真っ黒になる程だった。そこと比べ、ここはトラックはおろか軽自動車でさえ遠慮がちに走るような場所だった。もしかしたら、ここを離れることになるかもしれないと思うと、幸恵は眩暈を覚えた。
「幸恵」と啓介は言った。「さっきの、信じてる?」
 幸恵の頭には、藤木のスマホの映像が再生された。防犯カメラに写っていた男性は、十人のうち九人は、啓介に間違いない、と指摘する筈だった。残りの一人は目が悪いかへそ曲がりか、あるいは認めることで不利益を被る人間しかいなかった。
「ううん、信じたくないわ。信じたくないけど、でも」
「でも?」
 啓介の目つきが鋭く変化したのを、幸恵は見逃さなかった。
「あんな映像を残されたら」
「あれだけじゃ分からないじゃないか。間違いなく俺だという確証なんて何もない。お前、あれが俺だと思うのか? 自分の亭主を疑うのか? それが妻か?」
 啓介の目は血走っていた。今は何を言っても無駄だと思った。この場合、啓介を糾弾すべきなのか、あるいは自分の夫の言い分を無条件に受け入れるべきなのか、どちらが正しい対処法なのか幸恵は決めあぐねていた。
 気持ちが高まると、何を言っても受け入れなくなる気質であることは、幸恵には重々分かっていた。今日の啓介は、会社の倒産も併せて、冷静に話し合いが出来る状況にないことは一目瞭然だった。本音を言えば、この安くて直ぐに酔う高いアルコール度数の酎ハイは買い置きしたくなかった。ビールではなく酎ハイから飲み始めた翌日は、啓介は必ずといっていい程二日酔いになった。しかし一本も買っておかないと不機嫌になるので仕方なかった。
「もちろん、私は信じるしかない」
 幸恵は自分に言い聞かせるように言った。「そんなことする訳ないって」
「そうだろう? 当たり前じゃないか。今時下着を外に干す奴があるか? 何度も盗まれてるのに馬鹿じゃないのか。そもそも、最初から俺はあの夫婦、好きじゃなかったんだ。いつも気取ってるし上から人を見てるし」
「上からなんて思ったことないわ。藤木さんはそんな人じゃ」
「表向きは丁寧だけど、腹の中じゃ俺たちのことを見下してる。分かるんだよ。感じるんだよ、俺には」
「ねえ、そんな飲み方止めて。ビールじゃないのよ?」
 一息に飲み干した後の空き缶を片手で潰す啓介に、幸恵は言った。藤木夫妻との交流はうまくやっていると思っていた幸恵にはショックだった。啓介がそんな風に二人を見ていたとは思ってもみなかった。どうして今まで言ってくれなかったのだろう、こんなに近くにいるのに啓介の心の中は何も知らないんだ、と幸恵は打ちのめされた。早く今日を終えたかった。問題をこれ以上抱え込むのは耐えられなかった。
「シャワー浴びてきてもいい?」と幸恵は言った。いいよ、と啓介は言った。
「その前に、もう一本頼むよ。それで終わりにするから。終わりにするよ、もう」
 啓介は両手で顔を覆った。しばらく次の言葉を待っていたが、特になかったので、幸恵は仕方なく酎ハイを置いて浴室に向かった。頭を冷やす時間が必要だと思った。
 上着を脱ぎ、ガウチョパンツを脱いだ。次に、何の特徴も色気もない、単色のシンプルなショーツを。もうどれだけ履き、どれだけ洗っているだろう。クロッチ部分は毛羽立ち、ゴムの刺繍が一部解れていた。どこで買った物かさえとっくに忘れてしまっていた。こんな下着をいくらベランダに吊るしていても、下着泥棒は何の関心も示さないんだろうな、と思った。藤木夫人の盗まれた下着はどんなものだったのだろう。
 自分が取るに足らぬ、とても小さい人間に思えた。夫を信じられない自分が嫌だった。いや、夫に自己主張すら出来ない自分が情けなかった。子供を産めない身体であったことの負い目を、幸恵はずっと感じていた。
 浴室の扉を閉め、熱いお湯が出てくるまで蛇口を全開にした。アンダーヘアに数本の白髪があるのに気付いた。どこで間違えたのだろう、いや、そもそも間違いなのかどうかさえ分からなかった。「運命」という名の仕掛けは、余りにも巧妙だった。これは生涯かけても見破れないんだろうな、幸恵はアンダーヘアにシャワーを浴びせながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 翌日の朝、啓介はいつも通り家を出た。いつもと全く変わらなかった。少なくとも幸恵にはそう見えた。流しに、酎ハイの空き缶が三本転がっていた。昨夜は中々寝付けなかった。目を閉じようとすれば、また直ぐにでも眠れる感じだった。他の誰かから思考だけ借りてきたように、真実の自分とは、ずれている気がした。
 片付けを終えると、幸恵は洗濯物をそのままにしてソファに寝そべった。テレビを消したら本当に眠ってしまいそうだったので、音を大きめにして点けておいた。外は雨だった。どうせ洗濯しても外には干せないと思えば急ぐ必要はなかった。
 藤木夫妻は今日、警察に被害届を出しに行くのだろうか。届が出たら、警察は直ぐに動くのだろうか。もし自分しかいない昼間の時間帯に事情聴取や現場検証なんてされたらと思うと、幸恵の気落ちは更に堕ちた。
 突き上げられるような衝動が幸恵を襲った。ソファから跳ね起きて、スリッパを履いた。体中が熱くなり、じっとしていられなかった。啓介の部屋は、玄関を上がって直ぐ右側にあった。洋服ダンスの上、パソコン周り、ウォークインクローゼットの中と棚。そこに見慣れない段ボール箱があった。幸恵はその軽い段ボールを床に下ろして、何もテープの貼られていない、交互に嵌め込まれた蓋を開けた。
 そこには色とりどりのショーツが、綺麗に折り畳まれて、何枚も入っていた。自分から見たくせに、本当は見たくなかった、と後悔した。見て見ぬふりをすることも可能だった。こういう男の妻なんだと思うと、幸恵はいたたまれなかった。
 一枚ずつ箱の中の下着を床に並べた。下着はショーツばかりだった。赤、青、黒、ピンク、ゴールドにシルバー、実に色々な色があった。形も普通のデザインのものから、派手な刺繍がふんだんにあしらわれているもの、サイドを紐で止めるようなもの、一部が透けているもの、あるいは殆どが透けているもの、フリルが沢山ついたものもあった。途中、幸恵の手が止まった。見覚えのある紫の花柄の下着が目についた。ついこの間捨てたばかりの、自分の物だった。自分の妻の捨てた下着までコレクションに加えるとは。
 全部で二十三枚、隣の藤木夫人の物がどれなのかは分からなかった。少なくとも、夫人のものだけでないことは確かだった。一人の女性の好みにしては、余りに幅が広過ぎると思った。
 雨足は更に強まっているようだった。これはもう言い訳の出来ない致命的な証拠だった。黒いビニール袋にショーツを詰めた。もちろん一旦捨てた筈の自身のショーツも含めて。それから洋服ダンスのハンガーに掛かっている黒いパーカーを最後に押し込み、固く口を縛った。
 まだゴミの回収車は来ていない時間帯だった。間に合う、幸恵は急いで袋を握り締めサンダルを履き、エレベーターは使わずに階段で一階まで下りてマンションのゴミ捨て場に置いた。
「おはよう、田中さん」と管理人が掃除をしながら言った。「おはようございます」と幸恵も返した。管理人は好きではなかった。微笑み方がどうもわざとらしく、視線が卑猥だった。
 本当は誰にも見られたくなかった。家に戻ってからもずっと、捨てたばかりの袋が気になった。ゴミを漁る趣味を持つ奇特な人間の話を聞いたことがあった。もう誰も信じられなかった。啓介も。管理人も。
 幸恵は家に戻り、段ボールを再び元の場所に戻して部屋の戸を閉めた。冷蔵庫から酎ハイを取り出し、そのまま飲んだ。冷えているという感覚だけで、酒の味も香りも何も感じなかった。こんな不味い酒はどんなに安くても買うべきじゃない、幸恵は残りの液体を全部流しに捨てて、そのまま和室の畳に崩れるように横たわった。
 退路を断たれた夫が不憫でならなかった。そして、そんな夫を持つ自分自身も。先のことは考えたくなかった。考えたところで辛くなるだけだった。せめて人の下着を盗む行為を理解し肯定できる理由を知りたかった。しかし今の幸恵の頭では、何も想像出来ることはなかった。先程捨てたショーツの残像だけが頭に焼き付いていた。
 段ボールに入った下着が無くなっていると分かったら、啓介はどのような行動を取るだろう。知らないふりをするのかもしれないし、怒り狂って暴力を振るわれるかもしれない。いっそ殺してくれた方が、かえって楽になれるかもしれないけれど。
 集めた下着を自分の妻に勝手に捨てられたとも知らず、明日にも倒産するかもしれない職場で働く啓介が、気の毒でならなかった。目尻から、熱い涙が零れた。もう限界だった。

 部屋の中がやけに暗いのでもう夜かと思ったが、まだ午後二時だった。あれから幸恵は同じ姿勢のまま、昏々と寝続けた。玄関のチャイムが何度か鳴っていた。体の節々が痛かった。畳の上でこんなに眠るなんて。
 メール着信を知らせるスマホのライトが小さく点灯していた。啓介だった。今夜ちょっと話したいことがあるから、ということだった。
 チャイムがまた鳴った。玄関モニターには、警察の制服を着た男と管理人、そして藤木が、黒いゴミ袋を手に、じっとカメラを覗いていた。幸恵の鼓動は早まった。啓介に今の状況をラインで送った。指が震え、何度も打ち間違えた。しかし、啓介へのメッセージはいつまでたっても既読にならなかった。
 玄関のチャイムはようやく止んだ。カメラにはもう誰も映っていなかった。サイドボードに立てかけたフォトスタンドは、新婚旅行先で撮った二人の笑顔で満ちていた。その日から二十年の歳月が流れていた。そして、子供が出来なかった自身の境遇を、改めて恨んだ。こんな時、夫以外にもう一人、側にいてくれる人がいたらどれほど心強いだろうと思った。
 ラインはいつまでも既読になることはなかった。箪笥の引き出しを開けて、銀行通帳を確認した。給料日まで十日を残し、残り一万円を切っていた。給料日にちゃんと給料が入金されるのかどうかは怪しかった。入らなかった場合、入らなかった場合は。
 電話が鳴った。啓介からだった。しかし幸恵は直ぐに電話に出ることが出来なかった。電話で冷静に話をする為には、その前に安い缶酎ハイを最低一本は開ける必要があった。(了)

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