【超短編小説】二月二日

 その日は、一二四年ぶりに「二月二日」となった「節分の日」だった。節分と言えば「二月三日」と決まっているが、今年はある理由があって一日前倒しになったようだ。しかし私にとっては、節分が二日だろうが三日だろうが、あるいは前倒しになった理由など全く関心がなかった。「行事」というものは、私にとっては日常以外の余計な時間の消費であり、余計な所得の浪費だった。いかなる行事ごとも、私には煩わしい雑事でしかなかった。
「去年は太過ぎて食べ辛かったから、今年は一回り小さいのにしたのよ」
 ネクタイを外そうとしている私に向かって、妻は恵方巻について語った。
「ねえ、豆撒き、食事終わってからより今がいいんじゃない? 桃花、先に豆撒きするよ。あなた、お面お面」
 私の返事を待たずに、妻はリビングから小学館の付録で付いてきそうな紙のお面を持ってきて、私に「被って」と促した。
 私は整理解雇された者が残していった仕事の引き継ぎで酷く疲れていて、耳や手指は身を切るような北風に晒され未だ強張っていた。先に熱い湯船に漬かりたいというのが本音だったが、酒を飲んだ後に鬼をやらされるのも、それはそれで嫌だった。
 私は妻の指示に従い、スーツの上着だけ脱いでお面を被り、ベランダに出た。ワイシャツだけでは一層冷気が肌身に染みた。何故一家の主が帰宅早々、こんな拷問を受けなければならないのか、「行事」にはこうした理不尽と思われることが少なくなかった。
「鬼はぁ、外」
 娘は、暖房の効いた温かい部屋の中から大きな声を張り上げ、鬼のお面より鬼のような形相をして。私めがけて豆を投げた。いくつかの豆はお面に当たり、いくつかの豆は私を通り越してベランダの柵を超え、三階下の路上に散らばった。
 鬼は外、妻は娘よりは遠慮がちに、しかし漏れなく私に豆を当てた。「わあ」と私は大げさに痛がる体を装った。日が暮れた後の町のしじまに、妻と娘の声が響いた。他の何処の住宅からも、「鬼は外」の声は聞こえてこなかった。
「福はぁ、内」
 今度は声を潜めて、娘は少量の豆を和室の襖に遠慮がちに投げた。あまり沢山の豆を投げると後で掃除が大変になること、そして食べる豆が減ることへの配慮だった。
「次は、玄関玄関」
 妻は段取り良く、私に玄関に回るよう指示をした。玄関に移動するや、私は後ろをついて回る娘に覆いかぶさるように、両手を上げて威嚇した。
「があ、良い子は食べちゃうぞお」
 我ながら、迫力は皆無だった。馬鹿馬鹿しくてやっていられなかった。早く熱い風呂に入りたかった。
 娘はあらん限りの力を込めて、今度は私の体に豆を投げつけた。所詮小学五年生程度の投力では、たかが知れていた。豆の殆どはマンション共用部の廊下に落ちた。
 豆撒きが一段落すると、私は妻と娘の撒いた豆を箒で履いた。いつから撒いた豆を掃除するようになったのだろう。後で拾うくらいなら、最初から撒かなければ良いのに。
 うっかり踏み潰して粉々になった豆の欠片を、私は丁寧に塵取りに入れた。丁度帰宅した隣人の女性が、何か言いたげな好奇の顔に、私は目だけで挨拶をした。何年も住んでいる筈なのに、隣人の名前が咄嗟に出てこなかった。
 寒さは限界に達していた。私は切り上げて家に戻り、玄関の鍵を締めた。玄関にもいくつか豆が落ちていたのに気付いたが、それは見なかったことにした。

 食卓には三本の恵方巻が並んでいた。大葉の一部と飛子が端からはみ出していた。寿司は嫌いではなかったが、太巻きは好んで食べる部類ではなかった。カットもせず長い本体のまま無言で食べ切るなど、狂気の沙汰ではなかった。
「準備万端」と妻は言った。「パパ、早く座ってよ」と娘。「ちょっと待って。ビール」
 ビールさえ飲めれば私は何でも良かった。ビールは空きっ腹に飲み切るのが好きだったが、今日はどうやら難しそうだった。ご飯なんて食べてしまったら、美味さが半減することは確定だった。
「恵方巻って、いつから始まったのかね」
 ややこしいことになるのは分かっていたが、抑えることが出来なかった。
「さあ。でもここ毎年やってるじゃない」
「子供の頃はなかったよね? ものが売れないもんだから、コンビニとかスーパーの販促に上手く乗せられてる気がしてね」
 妻は露骨に嫌な顔した。
「これから食べようとしてるのに、何でそういうこと言うのよ。あなたのそういうところ、本当に嫌」
 私はただ事実を言っただけだった。無批判に、上滑りな流行を取り入れるだけの行動様式が、家族の価値、自らの価値を貶めているような気がして情けなかった。「天邪鬼」ということではない。新たに習慣として取り入れるには、それなりに納得できるロジックが欲しかった。
 妻からはいつも「理屈っぽい」と非難された。「理屈っぽくて何が悪い」と私も開き直って言い返すものだから、そのことでしょっちゅう喧嘩になった。妻とはこれほど価値観が違っているのに良く結婚したものだと、年を経るごとに感じていた。
「早く食べようよう」と娘は待ちきれないようだった。恵方巻は見た目にもはっきり分かるほど部分的に凹んでおり均一な円柱ではなかった。海苔の質感が変化しているのも明らかだった。苛立ちというよりむしろ怒りに近い感覚が、私の体を熱くさせた。家族にとってそれは負のエネルギーで満ちていることに他ならなかった。
「だってさ」
「もういいじゃない、桃花、お腹空いてるんだから」
「パパの子供の時は、恵方巻、なかったの?」
 不穏な流れを察したのか、娘が口を挟んだ。
「分からないけど、今みたいに、節分の日に食べた記憶はないよ」
「恵方巻って何で縁起のいい方角向いて黙って食べるの?」
「それは」
 妻は諦めてビールの栓を抜いた。
「佐智、知ってる?」
「何が?」
「恵方巻の起源」
「知らない」
「本当に聞いたことない?」
「知らないわよ。でも縁起がいいんだから、それでいいじゃない」
 昔はこれほど単純な女性ではなかった筈だった。私は注意深く、言葉を選んで言った。
「芸者とのお座敷遊びで広まったんだって」
「芸者って何?」と娘。
「芸者っていうのはお酒をお酌、いや注いで回ったり、踊りを踊ったりして、男性のお客をもてなす着物を着た女性のことだよ」
「ふうん」
 娘は全く関心がないか、言葉の意味が理解できない様子だった。妻は不機嫌だった。それは私に対してのことなのか、注いだビールの泡が多過ぎたからのか分からなかった。
 これ以上話を膨らましても仕方ないと思った。少なくとも、娘を交えてするような話ではなかった。食事に進まないことで、妻の忍耐力は限界に達している気がした。
 娘が一瞬黙ったのをしおに、「お待たせしました」と私は観念して、乾杯した。娘と妻は真っ先に恵方巻を手にして、居住まいを正した。
「ママ、どっちに向くの?」と娘は言った。
「今年は、南南西みたいだから、えっと、こっちが北だから」
 妻は椅子に座ったまま、真後ろに近い方向に向いて腰掛け直した。娘も、妻の向く方角に体勢を変えた。私は妻の背中を見る感じで殆ど向きを変える必要はなかった。私の気分は最悪だった。節分の日ほど、寿司を食べるのに気乗りのしない日はなかった。
「では」と妻は言った。「では」と娘も答えた。私は何も言わずに、太巻きを口に近付けた。妻と娘は目を閉じて、口いっぱいに太巻きを押し込んだ。私はどうしても口に入れることが出来なかった。
 芸者のお座敷遊び。殿方のあれを太巻きに見立て、芸者に頬張らせて、その様子を面白おかしく眺めながら酒を飲んだなんていう由来を、妻と娘に言える筈もなかった。妻と娘は、黙々と太巻きを食べ続けていた。時々辛そうになっては一旦口から離し、咀嚼して飲み込み、そして再び、ぐにゃりと曲がった太巻きの先端を口に刺した。男性のペニスを模した巻きずしを。
 私はビールを飲んだ。太巻きに醤油をつけて一口齧った。色々な具材の、色々な味がした。美味いか不味いかと言われれば、別に不味くはなかった。しかしそれは、こうして普通に醤油をつけて、一口ずつ気兼ねなく食べる場合においてだ。
 とうとう妻と娘は最後まで食べ切った。先に娘が、そして間もなく妻が食べ終わると、はあ、といってお互いの顔を見合わせた。
「パパ、食べてないじゃん」と娘はすかさず私の怠慢を指摘した。
「一息には食べられないよ」
「桃花もママもやったのに何でパパはやらないの? つまらない」
「つまらないって」
「いいよ、桃花。パパはこういうの人なのよ」
「ノリ悪いね」
 何と言われても良かった。無理なものは無理なのだ。我々にとって行事とは、常に家庭の空気を悪くするものでしかなかった。LINEの着信音が聞こえた。
「あなたじゃないの?」と妻は言った。嫌な予感がした。
 私は食卓を離れ自身のスマホを確認した。同僚はまだ会社に残って仕事をしていた。明日までに提出しなければならない書類があるらしく、私に手伝いを求める内容だった。仲間が仕事しているのに、安穏と恵方巻など頬張ってビールを飲んでるのは申し訳なかった。同僚の彼にも小さな子供が二人いるのだ。
「ごめん、ちょっと仕事しなくちゃならなくなった」
 私は残っているビールを飲んでしまってから、グラスと缶を下げた。妻と娘は無言だった。完全に白けていた。しかし私にはどうしようもなかった。仕事と家庭を両立するなど幻想だった。最終的に、仕事は取らざるを得ないものなのだ。仕事をしなければ、行事どころか日常生活さえ全う出来ないのだ。
 それから私は自室で仕事に取り掛かった。風呂は後だった。まずは会社にいる同僚を早く帰宅させてあげなければならなかった。送られてきたメールの添付文書を開いた。ダイニングの歌番組が煩かったので、廊下の扉を閉めた。
 体がぼうっとしていた。たった缶ビール一本なのに。先程まで会社で格闘していたワード文書と似たような文字に目がちかちかした。仕事なんて本当はやりたくなかった。でも仕方なかった。同僚では分からない仕事だった。何度もタイプミスをした。酒を飲んだ後にやるような仕事じゃなかった。
 ようやく風呂に入れたのは、それから二時間後のことだった。

 妻子は既に床に入っていた。私は酷くお腹が空いていた。そういえば、缶ビール一本と恵方巻を一齧りしただけだった。食べかけの恵方巻は、既に冷蔵庫に仕舞われていた。
 ダイニングの明かりをつけ、缶ビールと恵方巻、醤油さしを用意して椅子に腰掛けた。腰の骨が砕けるように体は深く沈み込んだ。眼球の奥に鈍痛が走った。細いとはいえ、一息で食べるには十分なボリュームだった。
 テレビをつけてみたが、見たい番組も特になく直ぐに消した。ベランダの戸を少しだけ開けた。
 鬼は外、と町のどこからか聞こえた。小さな子供がはしゃぐ声だった。珍しい。時計は〇時十分前だった。まだ辛うじて節分の日だった。
 妻子だけいくら福を呼び込もうとしたって、主がやらなきゃ意味ないよな。
 私は南南西の方角を向き姿勢を正した。何も考えないようにした。何かを考え始めたら、途端に馬鹿馬鹿しくなる気がした。恵方巻を両手に持ち、私は目を閉じた。冷たい海苔の感触が、指の腹に吸い付いた。少なくとも、自分のいちもつよりはずっと太くて長かった。
 私は決意を固め口に入れた。なるべく入れられるだけ口に押し込んだ。少し自棄になっていた。咀嚼もままならず、いつまでも嚥下することが出来ずにいた。
 飲み込むタイミングと呼吸が合わず、私は口の中の物を一気に吹いた。一瞬呼吸できず、死ぬかと思った。酢飯は方々に散った。玉子とかにかまはほぼ原形のままだった。
 涙が出た。一度溢れたら止まらなかった。むせたからだろうが、それは最初の涙だけな気がした。
この家はおろか、マンションにはもう誰一人住んでいないのかと思う程の、静けさだった。(了)

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