【超短編小説】突然「電子音」が聞こえたら、それは

 女の跳ね起きる気配で、男は意識を引き戻された。暗がりの度合いから、日の出まではまだ十分な時間があるようだった。
「どうしたの?」
 じっと半身だけ起こして動かない女に、男は言った。
「この音何かしら」と女は答えた。
「音?」
「ぴぴっ、ぴぴって」
 男は注意深く耳をそばだてた。かすかに、規則的に鳴る電子音のようなものが聞こえる気がした。しかしそれは女がそう言葉で伝えてきたので、その通り思い込んでいるだけかもしれなかった。
「ずっと鳴ってるでしょう? 聞こえない?」
「ああ、確かに」
 女はけだるそうに、掛け布団に乗せてある毛のベストを羽織った。この冷やされた部屋の中で、この時間に布団から抜け出るのはとても勇気がいることだった。
 男は布団に潜ったまま、電子音だけに気持ちを集中した。今度ははっきりと聞こえた気がした。短い電子音だが、確かに一定の間隔を開けて継続して鳴っている。スマホはお互い枕元にあるので、そスマホからではないことは確かだった。台所から聞こえている気もするし、リビングのテレビ周辺という感じもしたが、いかんせん横になったままでは、音の所在を明らかにすることは出来なかった。
 女はリビングを慎重に巡回し、その後台所に消えた。男は女から何らかのリアクションを待ったが、家はまるで二十年放置された空き家のように静まり返っていた。しばらくして床の軋む音、それから子供部屋、トイレ、男の部屋の扉を開け閉めする音が聞こえ、やがて女は再び男のいる寝室に戻った。
「ねえ、全然分からない。何から聞こえてるんだろう。そう、ここにくると良く聞こえるのよ。ね、聞こえるでしょ? 聞こえるわよね?」
「聞こえるよ、電子音っぽいから、何か電化製品とかからなのかな」
 男はいよいよ諦めて布団を剥いだ。夜中の二時半だった。正直、ここで本格的に覚醒したくはなかった。今日は四時起きで、早めに会社に行かなければならなかった。従って、この想定外の電子音の所在問題は、一刻も早く解決させなければならなかった。
 男は女が辿った経路をもう一度、今度は自分の耳と足で確認して回った。妻の言う通り、電子音は間違いなく男の耳にも聞こえていた。しかし現状では、その発信源を突き止めることは出来なかった。テレビ、ブルーレイレコーダー、置時計、掛け時計、電子レンジ、冷蔵庫、温水パネル、ウォシュレット、子供部屋のゲーム機とスマホ、自室のパソコン、電話、血圧の測定器から電気シェーバーまで、目についたありとあらゆる電子機器に耳を近付けてみるものの、電子音が更に大きく聞こえるものはなかった。しかし何処かで鳴っていることは間違いなかった。
「他の家ってことないかな。下の階からとか、お隣りさんとか」
 リビングの雨戸を開け、男はマンションのベランダに出た。余りの冷え込みに音の確認もそこそこに、直ぐに戸を閉めた。化学繊維のぺらぺらなパジャマでは、到底太刀打ち出来る寒さではなかった。男の意識を明確に覚醒させるには、完璧な一撃だった。
「外も分からないや」
 もう勘弁してもらいたかった。このまま四時まで起き続けるのだけは嫌だった。
「でも気になって、このままじゃ眠れない」
 女はソファに腰掛け、天井に向かって溜め息を漏らした。男も女の隣に腰掛け、同じように天を仰いだ。やはり、その電子音は何処かで鳴っていた。しかし今度は、とても近くで鳴っている気がした。かなりリアルに、音の輪郭を掴むことが出来た。しかしそれが一体何処から発せられているのかを断定することは、いつまでも困難を極めた。この程度の問題で貴重な睡眠時間を削られるのは、男には耐え難かった。あいつだって早く眠りたいに違いない、と男は思った。缶ビール一本飲んだだけで食卓で寝落ちするくらいなのだから。
「もう、気にしないで寝ちゃわない?」と男は半ば自棄になって切り出した。
「無理よ、そんなの」
「だって、分からないものは仕方ないよ」
「もっと探してよ。気になって絶対眠れない」
 女は再び、リビングを徘徊し始めた。食器棚やカーペット、サイドボードの引き出しを開け、預金通帳や家族のマイナンバー通知書が入ったジップ付きのケースにまで耳を当てた。おい電子音だよ、男は女のやり過ぎな挙動から目を背け、大きな溜め息を飲み込んだ。
「妙案を思いついた」
「え?」
 これだって同じようにやり過ぎかと思ったが、やってみる価値はありそうだった。敵は電子音なわけだ。少なくとも、預金通帳を疑うよりは余程可能性はある。
 男は洗面所にあるブレーカーを落とした。ばちんという音が聞こえ、照明も同時に落ちた。
「何するのよ」と女は言った。
「どう? まだ音聞こえる?」
 二人は同時に息を飲んだ。目を開けても閉じても、部屋の暗さは同じだった。冷蔵庫の通電音、二十四時間回しっぱなしの浴室の換気扇さえも止まると、更にここまで静かになるのかというくらいの静けさだった。
「どうかな」と男は再び聞いた。少なくとも今現在、男の方には電子音は聞こえてこなかった。
「聞こえなくなった、かも」と女はまだ心許なそうに答えた。
「だよね」
 電子音は消えていた。そう信じたかった。男はスマホのライトを頼りに、もう一度リビングに戻り、女の隣に座った。
「でも何だったんだろうね」
「うん、聞こえなくなったみたいね、大丈夫」
「ブレーカーを落としたら消えたってことは、この家のコンセントから電気をとっている何かということは間違いないね」
「でもブレーカー落としちゃったら、困るじゃない」
「今だけだから。とりあえず」
「冷蔵庫も切れちゃってるの?」
「ああ、冷蔵庫はまずいか」
 男は今一度とって返し、「キッチン」のブレーカーだけはオンにした。冷蔵庫や電子レンジ、米びつや炊飯器からは、先の確認作業と同じく、電子音は認められなかった。こうして一つずつ確認していけば原因は突き止められるかもしれないが、今その作業をするのは男には辛かった。
「今日はもう寝ようよ。明日、ていうかもう今日だけど、帰ってきたら確認してみるから」
「そうね。ひとまず聞こえなくなったみたいだし。でも気になる」
「もう考えないでさ。ね? 本当に眠れなくなるよ」
「分かった。寝る。その前にトイレ行ってくる」
 男は布団を掛けて仰向けになって目を閉じた。体が小刻みに震えているのが分かった。眠いのか寒いのかもう分からなかった。
 時間は既に三時前だった。一時間は眠れる。いや四時半起きでもどうにかなるからもう少し、それにしても電子音は一体、と思い始めて、男は直ぐに思考を停止した。もう何も考えてはいけなかった。一時間でも、眠らなければならなかった。頭の上で、女の小便の音が聞こえた。男は横を向き、片方の耳を枕に押し付けた。いつもは気にならなかったが、今日だけは水が勿体なくても音を消して欲しかった。

 男は疲れていた。日中、何度も眠気に襲われた。今日は酒もそこそこにして、早めに床に就きたかった。それは女も同様だった。ほぼ同時に布団に入り、ほぼ同時に布団を剥いだ。
「また聞こえる」と女は言った。
「ブレーカーは落としたよ」と男は言った。
「何なのよ、一体」
 眠ろうとするとどこかで鳴り響くこの電子音が恨めしかった。二日続けては勘弁して欲しかった。今の眠気をもってすれば今日は大丈夫だろうと男は思ったが、女はそうはいかなかった。とかく、女というものは白黒はっきりさせないと気が済まない生き物なんだよな、と男は思った。
「ねえ、もう一回ブレーカー見てきてよ」
「今落としたばかりだってば」
「間違ってるかもしれないでしょ。順番にチェックするって言ってたじゃない」
「でも今日はもう寝ようよ」
「ブレーカーは確認してきてよ、ほらもう一回」
 男は意識的に半分だけ目を瞑りながら、洗面所に行った。今のこの眠気をもってすれば、三十秒も立たない間に意識を無くす自信が男にはあった。
 ブレーカーは「キッチン」以外、間違いなく落ちていた。それはそうだ、今やったばかりなのだから。男は女にその旨を伝えてから、布団に潜り込んだ。ねえ、まだ鳴ってるわよ、聞こえるでしょ、女は男の肩を掴み揺すった。
「あなたの布団の中から聞こえてくるみたい」
 女は男の掛け布団を剥いで、裏側やカバーの中をチェックした。
「ちょっと寒いよ。そんな場所から聞こえてくるわけないよ」
 男は苛立っていた。いきなり布団を剥ぎ取られた寒さと、連日スムーズな入眠が出来ないことに対してのやるせなさ。
「ねえ、あなた」
 女は真顔で言った。
「何」と男は感情を際まで抑えて答えた。
「ちょっとうつ伏せになってみて」
「何でよ」
「いいから」
 男はしぶしぶ体を反転させた。女は男の背中にしばらく耳をつけていたが、嘘でしょ、と言って首を何度も傾げた。
「あなたから聞こえてくるみたいよ。冗談じゃなくて」
「馬鹿言え」
「馬鹿じゃないわよ。本当なの」
 男には理解不能だった。電子音は確かに聞こえてくるし、ブレーカーを落としても今のところ昨日のように音が消え去ることはなかった。それは事実だとして、自分の体内から音が聞こえてくるなどという荒唐無稽は、信じられるものではなかった。もちろん、自分自身では分かる筈もなかった。
「スイッチ切ってよ」と女は言った。
「スイッチ?」
「あなたの」
「ないよ、そんなの」
「頭おかしくなりそう」
「それはこっちの台詞」
「自分じゃ聞こえないのかな」
「聞こえてるよ、音は。でもそれが俺からとかそんなこと」
 男は改めて耳を澄ませたが、相変わらず電子音は小さく聞こえていた。それが自分からかどうかは判別できなかった。「電子音が聞こえている」という二人で共有化した事実だけが、原因を飲み込み隠蔽した。連日の疲労と眠気が、原因を追究しようとする二人の気力を萎えさせた。
「あなたが眠ったら聞こえなくなるのかしら」
 女は鼻から男を疑っていた。男は何も答えなかった。二人共黙っている間、やはり電子音はどこからか聞こえていた。
「幻聴かもよ」と男は言った。核心を突いたつもりだった。
「偶然にも、夫婦で同じ幻聴を体験しているみたいな」
「幻聴なんかじゃないわよ。本当に聞こえてるじゃない。あなたも聞こえるっていったじゃない」
「いや、そうだけど」
「適当なこと言わないでよ。もううんざり、この音」
 適当とあしらわれたことは、男にとって心外だった。ここまで原因不明となると、幻聴はかなりの精度を持った推察だと思った。しかし二人して同時に同じ幻聴を共有するというは、確かに妙な話だった。男は女の反応を見て、これ以上幻聴についてこだわるのは止めようと思った。
「分かったよ。先に寝るから、音が消えるかどうか確認してくれる?」
 もう言い争うエネルギーは男にはなかった。早く眠りにつきたかった。女の言う事に素直に乗ることが、最大の睡眠導入剤になると思った。
「いいわ。早く眠って」
「早くって」
 男は女に背を向けて、布団を首まで掛けて目を閉じた。眼球が瞼の裏でぐりぐり動いているのが分かった。明日の仕事でやるべきことが頭に浮かびそうになったが、男は直ぐにそれを打ち消した。何も考えてはいけない、何も考えるな、言葉が浮かびそうになる度、男は黒板をチョーク消しで消すように、直ちに可視化を防いだ。とにかく眠ることだけに集中した。しかし眠ろうと思えば思う程、様々な言葉やイメージが邪魔をして、意識はより鮮明になった。
 どれだけの時間が経過したのだろう、男は泣く泣く一度トイレに立った。どうにも我慢できなかった。女は既に寝息を立てていた。やれやれ。
 男は仰向けに寝そべって真っ暗な天井を眺めた。電子音は相変わらず、実に確実に鳴っていた。試しに女の背中に耳を近付けてみると、音量が少しだけ増したように思えた。
 本当に、馬鹿馬鹿しい。
 電子音が鳴る度、男は敢えて意識して頭に刻み、反復した。それは反撃のつもりだった。もう、この音と共倒れしても構わないと思った。
それから男が入眠したのは、もう日の出間近のことだった。

 次の日も、またその次の日も、電子音は鳴り続けた。日中は気にしなければ済むことだが、テレビを消し横になると、どうにも耳についた。
 男の酒量はいつになく多かった。女はいつまでも際限なく飲もうとする男をたしなめたが、そのことでちょっとした諍いになった。連日の電子音騒動と寝不足で、男も女もただでさえ苛立っていた。
 台所で皿の割れる音が聞こえても、男は何事もなかったかのように酒を飲み続けた。女はその態度が気に入らなかったが、もう何も言わなかった。言っても嫌な気持ちになるだけだと思った。男など放っておいて、先に寝てしまおうと思った。しかし先に横になったらなったで、またあの忌まわしい電子音が聞こえると思うと心からうんざりした。男と並んで眠るのは今宵こそ勘弁して欲しかったが、子供部屋に避難することもできなかった。余りにも部屋が狭過ぎて、女の布団をひくスペースなど何処にもなかった。ゲームをやりたい子供に疎んじられるだけだった。最早、八方塞がりだった。
 それからしばらく男は酒を飲んでいたが、ダイニングテーブルに座っていられる限界値を超えた。グラスを台所に下げ、歯を磨いた後で、男はいつも以上に大きな音を立ててブレーカーを落とし横になった。女は眠れずに襖に向かって目を開けていた。しばらくして、男の寝息が聞こえ、それはやがて鼾となった。
 鼾と鼾の間で、やはり電子音は鳴っていた。男の背中に耳を近付けると、明らかに音量は拡大した。発信源は間違いなく自分の夫だと、女は確信した。
 壁を伝ってトイレに向かい、用を足した。トイレの室内は当然真っ暗だった。真っ暗なトイレで用を足すのはとても心細かった。心細いというより惨めだった。経済的な惨めさではなく「電子音を発するような男の妻である」ことが許せなかった。
 冷蔵庫を開けると、中は真っ暗だった。冷気は抜け通電音もしなかった。まさか冷蔵庫のブレーカーまで。
 寝室に戻り、女は男の布団を剥いだ。男は微動だにせず、半目を開けながら鼾を立てていた。部屋中、酒の臭いが充満していた。悲しみの感情を遥かに凌駕する怒りの焔が、女の顔をたちどころに火照らせた。
 次の瞬間、女の両手は男の首にあった。これ以上ない力を込めて、女は全体重を乗せ押し込んだ。男の目は一瞬かっと見開かれ、それから「ぐう」という大きな音を喉から一度だけ発し、抵抗もせずそのまま眠り続けた。
 女ははっと手を離した。女の手には、男の首の形と温もりがいつまでも残っていた。体中が震えていた。
 女は男の背中に耳を寄せた。気を静めるために、何度も息を吸い、そして吐いた。目を閉じて、気持ちを音に集中させた。電子音は聞こえなかった。
 部屋の電気は消えているのに、何故か男の大きな背中は月光を浴びているかのように白く浮き上がっていた。女は静かに目を閉じた。目覚めた後のことは考えないようにした。というより考えられなかった。とにかく今は、あの恨めしい電子音がいよいよ聞こえなくなったという事実だけが、何より嬉しかった。
 寝る前にもう一度、妻はトイレに向かった。さっき行ったばかりな気がしたが、尿意はどうにも収まらなかった。意識はこちらとあちらを行ったり来たりしていた。生きていたって死んでるのと大して変わりはしない、と女は思った。
 電子音が聞こえた。音は、規則的な法則に基づいて、正しく鳴っていた。
 まさか、ね。
 女はトイレで下着を下ろす正にその直前、床に崩れ落ちるように便器の中に顔を突っ込んだ。(了)

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