【超短編小説】夫婦で観た「映画」に関する大事な話

 そろそろ夕食が終わるという頃、私と妻はテレビを見ていた。というより、私の方はテレビの画面を目に映していただけで、明日の仕事の段取りを考えていた。
「トムハンクス」と妻は言った。「懐かしい」
 テレビには映画か何かのドキュメント番組が流れていた。私には殆どその内容は頭に入ってこなかった。映画はそれほど好きではなかったし、こと最近は二時間以上の映像を集中して見続けることが出来なくなっていた。どのような映画を観ても、必ずと言っていい程眠くなってしまうのだった。
「トムハンクス? 誰?」
「誰? 本気で言ってる?」
 妻はびっくりしたように目を見開き、それから呆れたように溜め息をついた。雲行きが一瞬で怪しくなったのに気付き、私は言葉を慎重に選ぶよう注意を払った。
「忘れちゃったの?」
「この顔だよね」
「昔から何も変わってないわよ」
 トムハンクスの顔写真がテレビにアップで映し出されていた。もちろん見覚えはあった。しかし彼が俳優としてスクリーンで演じている姿は、具体的には浮かんでこなかった。
 妻は複雑な表情で私を見ていた。トムハンクスはどうやら妻、あるいは私にとって何か縁のある人物のようだったが、私にはどうしてもぴんとこなかった。それよりも、最近退職した中堅幹部の穴をどうやって埋めようかと、そのことが思考の邪魔をした。
「主演した映画の題名、代表作もいくつかあるけど」
「ちょっと待って」
 最近の妻は些細なことで直ぐに苛立った。私の何が気に入らないのか、会話は必ずと言っていい程混線した。混線させる為に、会話しているようだった。妻の話し方には最初から棘があり喧嘩越しに聞こえた。アルコールが少しでも入っている時は更に酷かった。
 従って、私からはなるべく話し掛けないようにしていた。お互い、気分が悪くなるだけだった。テレビをBGMに、黙々と食事をしている方が平和だった。今回もそうした一夜で難なく切り抜ける筈だったのに。
 テレビは既に次の話題にいっていた。私はさっき見たトムハンクスの顔を頭に思い浮かべ、喋っている場面や動作のイメージを膨らませたが、俳優・トムハンクスの演技がフィーチャーされることはなかった。
 私は傍にあったスマホのロックを外して、検索エンジンを開いた。
「ねえ」と妻は言った。「スマホ禁止」
「え?」
「思い出してよ」
「分からないよ」
「ちゃんと思い出してって。スマホは駄目、絶対。あなたは何でもスマホに頼るから。自分の頭で考えないと呆けるわよ?」
 私はスマホの電源を落として、もう一度テレビの方に目を向けた。調べれば直ぐ分かるのに。しかし妻の視線と言い方には、いつも以上の圧力を感じていた。下手に逆らわない方が、精神衛生上良かった。自宅にいてまで嫌な気持ちになるのはもうこりごりだった。
 それから私はどれだけ考えていたのだろう。天井を眺めたり、目を瞑ったり、五十音の「あ」から順に、映画のタイトルを想起させる印象の言葉を次々と試みるものの、既に「さ行」あたりで疲れ始めていた。
 妻はその間、黙々と箸を動かしていた。というより、最早いつまで考えているんだと辟易していた。
「どうしても思い出せない」
 私はいよいよ匙を投げた。この状態では、いつまでたっても食後のコーヒーに辿り着けそうもなかった。しかし妻は妥協を許さなかった。今日はやけに頑なだった。少しの間を置いた後で、妻はやはりこう言った。
「駄目。これだけはスマホで調べないで絶対思い出して。トムハンクスの映画。ねえ、本気で分からないの?」
 素直に頷こうと思ったが、まだ諦めていないという風に、首を少し捩じるだけに留めた。
「明日まで時間あげるから良く考えて。あなた、最近おかしいわよ。認知症の検査受けてきた方がいいかも」
 妻はそれ以上、口を噤んだ。認知症という言葉には少しかちんときたが、事実、物忘れが酷くなっているのは自覚しているので反論出来なかった。
 明日までの猶予を貰ったものの、思い出せる自信はなかった。こういうものはその場で解決しないと無理ということは、経験則から分かっていた。しかしこれに正解をしないと、これから先の夫婦生活に支障をきたすことは明らかだった。何故妻がこれほどまでに「トムハンクス」に拘泥しているのか分からなかったが、妻の雰囲気から、二人にとってかなり重要な人物であることに間違いはなかった。
 ただ、いずれにしても今日は諦めることにした。これから会社を背負って立つと思っていた中堅幹部の退職が余りにも衝撃だった。

 翌日の妻は無口だった。朝目覚めて顔を合わせても特に確認されることはなく、ちゃんと目を合わせることもなかった。私がきちんとした手順で思い出して正解を妻に伝えないと、これ以上のステップに進まないことは明白だった。
 電車に乗り、会社のデスクに座り、私は考えに考えた。会社は中堅幹部が辞めた次の人事話で持ち切りだったが、私は雑音を遮断し、トムハンクスのことだけ考えることに集中した。メールを打っている間でも、小便をしている間でも、帰りの電車の中でも、私はトムハンクスの顔と名前を幾度となく反芻した。いっそのこと、スマホで調べてしまおうかと思った。調べれば簡単な話だった。妻には内緒にしておけばいいだけの話だった。
 しかしどういう訳か、今回は徹底的にそれを禁忌した。どう嘘を取り繕ったとしても、妻には百パーセントばれる気がした。ここまできたら意地だった。何としても思い出したかった。
 トムハンクスの映画を観たことがあるのは確かなのだ。いくら映画に興味のない私でも、一度観た映画の記憶がこれっぽっちもなくなるなんてことはありえない。たまたま今きっかけがなくて思い出せないだけなのだ、記憶の澱自体はしっかりと残っているのだと、私は何度も言い聞かせた。
 駅を降りていつもの路地に差し掛かると、傘を差さなくても濡れない程度の細かい雨が降っていた。私は傘を地面にこつこつ打ち付けながら、真顔のトムハンクスをイメージした。どこかで魚を焼くいい臭いがした。
 その時、私の想像の中に、突然トムハンクスが無表情で猛然と走っている姿が思い浮かんだ。私はそれに手応えを感じた。走っているトムハンクスのイメージが少しずつ増していった。それも、広いフィールド内を。そう、サッカーあるいはラグビーや何かの芝生のグラウンドの上を、トムハンクスは誰よりも早く駆け抜けていた。しかしそれがどこに辿り着くかは分からなかったし、それ以上想像は膨らまなかった。そんな映画があっただろうか。気が付くと、既に自宅の玄関の前に居た。
「ただいま」
「おかえり」
 妻の返事はキッチンから聞こえた。それ以上の言葉はなかったので、私はスーツから部屋着に着替え、手を洗い、食卓に着いた。今日は先に食卓に着きたい気分だった。猛然と芝生を駆け抜ける、トムハンクス。
 妻はエプロンを外し、一度トイレに行き、それから食卓に着いた。私の挙動を窺っている感じだった。もちろん、このタイミングでしっかり答えられたら完璧だった。いや、昨日思い出せなかった時点で完璧ではないが、少なくとも私としては丸一日経過したこの場面で伝えたかった。しかし、妻からのミッションに応えるには、まだ明らかに記憶の情報が不足していた。
「まだ思い出せないんだ、ごめん」
 私は正直にそう伝えた。妻は無表情だった。ただでさえ血色の悪い顔が更に白く見えた。テレビはついていなかった。湯気のたった野菜炒めと味噌汁を前に、気まずい時間が流れた。
「でもね、何かトムハンクスがサッカー場みたいなところを凄い勢いで走っている景色が浮かんだんだよ。ねえ、そんな場面あった?」
 私は渾身の勇気を振り絞って妻に尋ねた。妻の課題を無視せず、スマホ検索もせず、今日一日考えていたという努力の証を少しでも理解して欲しかった。
 妻は、何度か瞬きをした後で、最後にこくりと頷いた。正解だった。思い出し掛けている。確実に、記憶は残されてる。私はなぜトムハンクスが懸命に駆けているのか、それだけに神経を集中させた。すると、次にトムハンクスがベンチに座っていた。白っぽい服装。それから羽根がひらひらと落ちてくる。ふと、そんな光景も浮かんだと思った瞬間、私にある言葉が閃いた。
「ガンプ。そう、ガンプ。フォレスト・ガンプだ」
 まるで雷に打たれたようだった。フォレスト・ガンプ。具体的な映画のストーリーまで思い出せなかったが、昨夜から頭一杯に詰まった固い血栓が一気に吹き飛ぶようだった。私はその題名を何度も反芻した。
「スマホで検索しなかった?」
 妻は疑わしい顔をして、私を見やった。
「してない、してないよ。これだけは信じて。今回は自分の頭で思い出したんだよ。正にたった今ね。認知症の疑いはこれで晴れたかな」
「丸一日かかったからね、どうだか」
 妻の強張った表情はいくらか緩んだ。「最初のデートで観た映画だったから、ちょっと寂しかったのよ」
 私ははっとした。妻との最初のデートで観た映画だったとは。昨日から何故妻がこれほど執着していたのか、その理由を聞いて私はとても申し訳なく思った。そして自分の不甲斐なさにうんざりした。妻が不機嫌になる理由が分かった。情けなかった。将来、私はきっと早い段階で認知症を患うだろう。否、最早、既にそうかもしれない。本気で検査してもらおうか、と私は思った。
「本当にごめんね」と私は心から言った。
「いいのよ、別に。思い出せなかったら、別れようと思ってた」
 ニュートラルな妻の顔を見て、本気で言ってるのか嘘なのか良く分からなかった。しかし最初のデートで観た映画の題名を忘れるなんて、きっと離婚する事由の一つとしては十分な気がした。未だ映画の内容までは思い出せないでいるが。
「冗談よ。さ、食べましょう。冷めちゃう」
 乾杯の後、妻は珍しくビールをコップ半分一息に空けて、炒め物を取り分けた。その様子から、それほど機嫌が悪くはないことを私は察知した。
 その晩は、妻と最初に出会った大学生アルバイト時代の話から、結婚に至るまでの様々な思い出話に花が咲いた。そうしたことはちゃんと記憶にあるのに、どうして妻と最初に観た映画を忘れてしまったのか、我ながら不思議だった。そして迂闊だった。最初のデートだからと、気持ちが映画ではなく妻にばかり向いていたということなのかもしれないと、心の中で勝手な言い訳をしていた。

 私たちは二人とも飲み過ぎた。こんなに夫婦で飲んだのは久しぶりだった。いつも私の酒量を咎められていたので、今日はかなりのサービスぶりだった。
 妻は私より先に眠ってしまっていた。眼鏡を掛けたままだったので、外してケースに仕舞った。薄く寝息を立てていた。こんなにまじまじと妻の顔を見るのはいつ以来だろう、結婚してもうじき十五年、結婚してからはただひたすら仕事にばかり打ち込んできた気がする。平日は元より、休日はいつも疲れていて、妻の相手をほとんどしてこなかったことを、私は反省した。家のことは妻に任せっぱなしだった。当時より、妻の肌は荒れ、白髪は俄然増えていた。きっと、それは私のせいだった。初めて妻と観た映画を忘れてしまうような、薄情な私のせいだった。タオルケットを掛け直して、私は居間のソファに戻った。昔話を楽し気にする妻の顔が、焼酎をもう一杯だけ飲み直すきっかけとなった。
 私はスマホで「フォレスト・ガンプ」を調べた。文字を拾うのが少し辛かったが、ウィキペディアでストーリーを追った。ああ、ああ、と感嘆することばかりだった。確かに、そこに書かれているような内容だった。一通り読み終えてみると、どうしてそれを思い出せなかったのか今となっては不思議だった。
 日本でのロードショーは「平成七年三月」のようだった。妻と出会ったのは、平成十年十一月だった。それは大学二年生の時だから、間違いはなかった。
 私の頭は一瞬混乱した。ロードショー、三年半もやるだろうか。私は何度も見直したが、その時系列に間違いはなかった。妻の記憶は常に完璧だった。妻の記憶を疑ったことは、過去に一度もなかった。反対に私の記憶はいつも錯綜し、その度に妻に修正を命ぜられた。
 最後の一杯を早めに飲み終え、私も横になることにした。突然の眠気に襲われ、最早目を開けていることが辛かった。目覚ましをセットして枕元に置いた。妻に起こされる期待が薄い明日は、気を付けなければいけなかった。もう一度、妻を確認しようと思ったが、妻は反対側の襖にぴったりくっつくように寝返りを打っていて、表情は見えなかった。
 出会う三年前に公開された映画。トムハンクス。フォレスト・ガンプ。
 横になった途端、あれほど眠かった意識が異様な程覚醒した。眠気はすっかりどこかに飛んでしまった。豆電球でさえ眩しく思った。
 私はぼんやり、妻の過去にどんな彼氏がいたのだろうかを思った。そして、妻の過去の彼氏を知っている夫というものは、世の中にどれほどいるのだろうかと。
 私は目を閉じた。しかし何度チャレンジしても無理だった。反対に、妻の寝息はそのまま永遠に止まってしまうかのような深さと静けさで、染みだらけの襖に吸収された。(了)

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