暗く長い眠りから、ようやく男は目を覚ました。本当に目が覚めているのか、実はまだ怪しかった。眼に映る天井の照明はぼやけ、きわどく歪んでいた。
昨夜は泥酔した。店で飲んでいる記憶は途中で切れていた。あれ程の酒量は珍しかった。何がそうさせたのか、男にも良く分からなかった。良く分からないうちに酒を飲み、店の途中で記憶がなくなり、目覚めたら布団で眠っていた。
男は上半身を起こし、部屋の中を見渡した。着ていたスーツは丁寧に壁に掛けられ、外の風がレースのカーテンを揺らしていた。壁紙も家具も見慣れない部屋だった。パジャマも借り物のようだった。男のセンスでは絶対選ばないような柄だった。
ここは一体何処なのだろう。男は目を閉じて、姿勢を正そうと試みるものの、突然の吐き気に阻まれ断念した。トイレ、と男は思った。部屋を出ると直ぐにフローリングの廊下があり、目の前がトイレだった。男は待ったなしでトイレの便器にうずくまり、顔を突っ込んだ。他人の家の綺麗な便器を汚すのは申し訳なかったが、最早そんな状況ではなかった。胃からは何も出てこなかった。代わりに、唾液ばかりが出た。便座カバーを抱きかかえたまま、男は再び意識を無くした。
それからどのくらいの時間が経ったのか、吐き気が落ち着いた男はようやくトイレから出ることが出来た。それでもまだ体中にアルコールは残っているようだった。洗面所で口を濯ぎ、鏡に映った自身の顔を見て愕然とした。二十年老けたようだった。死相が出ているようにも見えた。いい年をして情けなかった。
洗面所は白で統一され、色とりどりのスプレーやドライヤーが整然と並んでいた。強烈な香水、あるいはアロマの香りを感じた。つまり、女の臭いだった。
洗面所から見えるリビングに、一人の女が椅子に腰掛けて飲み物を飲んでいた。パジャマ姿の男が視野に入ると、直ぐにその場から「大丈夫ですか?」と声を掛けた。
「すいません」
男は気恥ずかしさと申し訳なさで一杯だった。「ここは」
「深夜の二時過ぎでしたか、玄関を叩く音が聞こえて、あなたがスーツのまま倒れておりました。鞄や名刺入れが散乱し、ご近所にも迷惑になりますからこれはいけないと、一旦家の中に入っていただきました。とても 酔っておられてもう会話もできないような状態でしたので、勝手をいたしましたが、服を着替えさせ、寝室で一眠りしていただくことにしました」
「勝手だなんて、全て私のせいですから。しかし、夜中の二時にそれは酷いですね。本当に酷い。大変なご迷惑をお掛けしましたね」
五十も過ぎて一体俺は何をやっているんだ、警察に通報されてもおかしくない愚行だった。
「こちらは、どちらのお宅ですか?」
「四丁目ですよ。5番地です」
「同じ番地ですね。ご近所の家と自宅を間違えるなんて」
男は余りの不甲斐なさに顔を両手で拭った。泥酔して自宅に帰れず、同じ地域の住人の家と間違え、無様な姿を晒した挙句介抱されるなんて一生の恥晒しだ。これから妻に、どうこの顛末を説明したら良いのかを考えると暗澹とした気持ちになった。
「直ぐに失礼します、色々お世話になりました。後日、改めてお礼に伺いますので。本当に何てお詫びしたらよいか」
「いえいえ、気にしないでください。同じ町内なんですから。でも、間違えた家が私の家で良かったですね。そうじゃなければ」
「住居不法侵入で警察沙汰でしたね」
「かも、ですね」と言って、女は笑った。男には女神の微笑に見えた。世の中にはこれほど親切な人がいるのかと。妻よりもはるかに器量と品がありそうな女性だった。こういう妻が家にいたら、朝帰りはおろか、夜飲みにも行かずに真っ直ぐ帰ってくるのに。
男は支度を整え、パジャマを畳んで布団に重ねた。スマホを無くしていなかったのは奇跡だった。スマホは鞄の中にあった。LINEにもメールにも、何のメッセージもなかった。もう昼過ぎなのに薄情なものだ、男は自分を棚に上げて家族の無関心さを嘆いた。
玄関を出ると、遮るものが何もない強烈な日差しが目を射った。男は振り返り、深く頭を下げた。下を向くと、地震かと思うくらい足元がぐらついた。
「本当に失礼いたしました。ご恩は一生忘れません」
「大げさですよ。困っている方がいたら助けるのは当たり前のことです」
「妻には内緒にしておいてください。こんなこと知られたら何と言われるか」
「言いませんから、ご安心を。それより、お体大切にされてくださいね」
「ありがとうございます。肝に銘じます」
男は女に改めて感謝した。表札には「鈴木」とあった。名前を聞かなかったのは失礼だったかな、と男は思った。同じ苗字というのも何か縁を感じるものがあった。
女はいつまでも男に手を振っていた。男も女が視界から消えるまで何度も振り返り、頭を下げた。いくら泥酔していたとはいえ、あれほど素敵な女性に側で介抱されたのに、良く手を出さなかったな、と思った。しかし、真実は今となっては分からなかった。
灼熱の中、男は上着を脱いで自宅を探した。汗が止まらなかった。胃の中が空っぽなのが良く分かった。水分も取りたいし腹も減っていた。しかし今自分が何処を歩いて何処を目指しているのか分からなかった。確実に見覚えがあるはずの景色なのに、いまいち確信が持てなかった。
財布の中の免許証で住所を確認し、スマホの地図アプリに打ち込んだ。先程の女の家が表示された。どのアプリでも同じだった。男はもう一度、女の家に向かった。自宅の場所を聞くなどずうずうしいにも程があると思ったが、今の男には頼れる者は女しかいなかった。とにかく、早く家に帰りたかった。普段は帰りたいと思うことの方が少なかったが、今は水を沢山飲んで、シャワーを浴びてから買い置きのインスタントラーメンでもすすり、もう一度布団に横になりたかった。
女の家に戻ると、改めて表札を確認し、チャイムを押した。何度押しても、応答はなかった。薄々、実はここが自分の自宅なのではないかと思い始めていたが、やはり確証はなかった。しかし自宅だとしたら、女は一体誰なのだ。
やがて男は、何度も扉を殴打し始めた。最早、ここ以外に自宅はありえないと確信した。吐き気が何度も男を襲ったが、気にしなかった。どうせ吐くものなど何一つ残されていない。
おい開けろ、と男は怒鳴った。やけくそだった。ありったけの力で固めた拳を打ち付け続けた。あの女こそ、人の家に勝手に上がり込んでいる不届き者なのだ。
やがて、サイレンもなくパトカーが到着し、二人の警察官が下りてきて、有無を言わせず男の体を背後からうつ伏せに倒し、腕を後ろに締め上げて制止した。その余りの力強さに、男は釈明どころか呻くことさえ出来なかった。
扉の覗き窓から、女は事の顛末を見つめていた。本当に馬鹿な人、と女は呟いたが、現場ではもちろん誰も知る由はなかった。
男は、酩酊していた。以降、二度と酩酊から覚めることはなかった。(了)