満月の夜

例えば、満月の夜の奇妙な行為、妻の変容と世界

「あなた、ちょっと起きてよ」 寝入りばなを妻に起こされ、私の意識はしばらく混濁していた。「こんな時間に、何の音?」 枕元の時計は午前一時を少し回っていた。大きく伸びをした後で、私は妻の注意する方向に聞き耳を立てた。ぱん、...

肝焼き

 これで4度目の手術だった。手術の度に、大柄な母の体は細く小さくなっていった。これが最後の手術となるのは明らかだった。日増しに会話が少なくなる父と母の様子から、当時中学生だった僕は、いよいよ「覚悟」しなければならない時が...

ムカデ

 男は晩酌をしていた。いつもの時間。いつもの食卓。 妻と娘も同じように座り、もくもくと箸を動かしていた。 特にこれといった会話はなく、テレビから流れてくるアイドル歌手の黄色い声だけが小さな音量で鳴っていた。「あ」と娘は目...

生臭さ

「何の臭いかしら」と妻が言った。私はひと風呂浴びてちょうど食卓についたところだった。「臭わない?」皺の寄った眉間の塹壕を更に深めて、妻は鼻から小さく息を吸った。「そう?」 慢性的な蓄膿体質もあり、鼻の利く方ではなかったの...

指輪

1 髪を濯いで顔をあげると、グレーチングを流れる泡にまみれて何かきらりと光るものが見えた。丸くて硬いそれは美鈴の結婚指輪だった。波のような捻りが加えられたイエローゴールドの指輪は、床材の模様の一部に同化していた。 どうし...

白髪2

白髪をめぐる小品2

 日曜午後の「白髪抜き」は、我が家ではもう習慣になっていた。ソファに寝そべってテレビを見ている俺の髪の中から、まるで「宝物」でも探し当てるように白髪を見つけては、千枝は途中で切れないよう細心の注意を払って根元から静かに引...

白髪1

白髪をめぐる小品1

 日曜午後の「白髪抜き」は、我が家ではもう習慣になっていた。ソファに寝そべってテレビを見ている父の髪の中から、まるで「宝物」でも探し当てるように白髪を見つけては、途中で切れないよう細心の注意を払って根元から静かに引き抜く...

ボンレスの疾走

 彼女は同級生の子と比べて、人一倍太っていた。小学生にして、いわゆる肥満体質だった。色白な上に細かい血管がひび割れのように顔中に広がっていた。また着ているものが体の小さな姉からのお下がりだったので常に一サイズ小さめであり...

スカート

 女は気付いていた。並走気味に走っているトラックの運転手が、助手席に座っている自分の脚にちらちらと目を向けていることを。 男は無精ひげを生やし、白いタオルを頭巾替わりに頭に巻いていた。時々女の方を見ては、ハンカチに巻いた...

嘘つき

「そんなに遅くならないうちに、帰るようにするから」と、妻のマリは言った。夫の武史には、それが随分離れた場所から聞こえたような気がした。「折りたたみは持ったの? いつまた降り始めるか分からないから」 「うん、大丈夫」 ワイ...

Suicaのペンギン

「あの絵を見ると頭が痛くなるの」と、女は言った。 眩暈を覚え、立っていられなくなることもあった。頭にこびりついた映像をそぎ落とすまでに、一日布団から出られず、また夢にうなされ、その度に何度も汗びっしょりになって布団から跳...

渋滞

「ねえ、どうなってるのよ」 妻が苛立っているのは、ルームミラーを覗かなくても気配で分かった。幸いなことに二歳になる息子はチャイルドシートでぐっすり眠っていた。もし彼が起きていたら、きっとベルトが苦しいだの椅子から下ろせだ...

夜道

 気力、体力共に参っていた。このところ、睡眠時間もほとんどとれていなかった。残業が恒常化しているにも関わらず業績は一向に良くなる気配もなく、従って、給料が増えることもなかった。 自宅までの帰途、私は住宅地の中を亡霊のよう...

蜘蛛

 浴室の壁に、一匹の蜘蛛がいた。それは足も胴体も綿毛のように華奢な、赤くて小さな蜘蛛だった。 俺はシャワーの栓をひねり、蜘蛛にかけた。蜘蛛は水流に乗るように壁を伝い、床を伝い、そのままの姿勢で排水口に吸い込まれていった。...

潜る妻

潜る妻。

 妻が潜り始めたのは、一週間程前からでした。いや、それは私が初めて目にしたというだけで、本当はもっと以前から、妻は潜っていたのかも知れません。 その日、私は夜に予定されていた接待がキャンセルとなり、急遽帰宅することになっ...

ランドの夜

 園内に留まってから、三日目の夜を迎えていた。 家の状況がどうなっているのかなんて私には知りたくもなかった。携帯の電源はずっと切っていた。どうせ私なんていなくてもあの家は回っていく。旦那と息子。何不自由なく。 「トムソー...

ミステリーサークル

 会社は倒産寸前だった。もはや時間の問題だった。しかしまだそれを妻に話すわけにはいかなかった。上の子は来年から小学校に上がり、二人目がお腹にいるという状況の中で、四十目前の何の資格も取り柄もない男が次の職に切れ目なく就く...

どこか遠い場所

 少年は自棄になっていた。酒に酔ったのは単なるきっかけに過ぎなかった。職を探しても、今時中卒では採用してもらえるところなど皆無だった。家にいたところで、男女の醜い諍いを聞くだけだった。これまでの人生丸ごと寄ってたかって、...

氷下魚

氷下魚(こまい)

 名所の割には随分人が少ないな、というのが率直な印象だった。 私は産業用機械の商談のために、とある観光地に来ていた。十年程前にも一度来たことがあるが、当時はもっと大勢の人で賑わい活気があったと記憶していた。 土曜早朝の市...

樹海パトロール

 舗装された県道から一歩山の際に分け入ると、背丈ほどもある植物の群生と小枝の間隙に、ぽっかり穴のように開いている道が見える。「自殺志願者」によって繰り返し踏みしだかれ形成された樹海の奥深くに通じる道は、狂おしい真夏の喧騒...