無残な光景だった。内容物が露わに飛散している様は、男に何か陰惨な事件を連想させた。どう見ても一羽だけの仕業とは思えなかった。路上の中心まで引きずり出し、やりたい放題やり尽くしていた。少なくとも三世帯分の袋が饗宴に供され、初夏のビル風に晒されていた。
 このところ、可燃ごみの収集日はいつもだった。出勤前の貴重な時間を、ごみの後始末にとられるのは苦痛だった。見なかったふりをしてやり過ごしてもいいのだが、万が一誰かとすれ違い、「美化委員のくせに」と後ろ指を差されるのは嫌だった。
 ごみの中身は、紙屑や台所から出る食べ残しなどの生ごみがほとんどだ。ティッシュは、風が少しでもある日は方々に飛ばされるので、それを一枚残さず集めるという作業が格別難儀だった。アスファルトの溝に入り込んだ細かい野菜の切り屑や汁物は、デッキブラシまで動員して水で洗い流した。
 マンションの管理人でも清掃業者でもないのにどうしてここまで、と男には納得できない部分もあったが、自身に課せられた試練なのだと無理矢理思い込ませた。
 妻は寝ているか赤ん坊の世話もあって、とても手伝える状況にはなかった。妻をこんな非生産的労働に巻き込む訳にもいかなかった。生命を産み落とした者は神様なのだ。神に使える下僕として、家中のごみを取りまとめて収集日に捨てにいく責務は、男にあった。
 管理人を置ける程、大規模なマンションではなかった。管理会社はあるが、人手不足で全くあてにならなかった。古くから住んでいる住人を中心に作った任意の自治組織に、「美化委員」は男以外にも二名いたが、夜中に仕事している者や介護の必要な者が自宅にいるなどで、朝に手の空く者は男以外いなかった。
 清掃中、ごみ置き場で遭遇する住人は、ただ義務的な挨拶だけでごみを押し込み、逃げるようにその場から去っていった。同じマンションに住む運命共同体なのに、と世知辛くも思ったが、試練試練、と馬鹿の一つ覚えみたいに唱えて、男は溢れる感情を抑え、黙々と手足だけを動かした。
 白髪が最近増えたのは間違いなく烏のせいだった。収集日の前日には憂鬱になり、腹が痛くなることもあった。こうもしょっちゅう繰り返されると、見えざる敵への激しい殺意さえ湧いてくるのだった。


 その日、男はいつもより一時間早く目が覚めた。もはや恐怖症だった。奴らが好き放題に袋を突いている様子を想像すると居てもたってもいられず、胃袋を直接わし掴まれるような鋭い痛みに襲われ、とても寝続けられる状況ではなかった。
 男は髪を濡らして寝癖を直し、ジーパンと長袖シャツに着替え、車の鍵を持って家人を起こさぬよう静かに家を出た。
 ごみ置き場はまだ無傷だった。既にいくつかの袋が左右に分かれて置かれていた。外れていたネットの留め金を男はきちんと締め直した。これが徹底されていないから、奴らに潜り込む余地を与えてしまうのだ。
 駐車場に停められた男の車の中からだと、ごみ置き場は丁度いい具合に見通せる。男はシートを少しだけ倒し、目線が自然にごみ置き場にくるよう調整した。
 午前四時半。戸建て住宅のいくつかには既に明かりが灯っているが、世間の大半はまだ静寂の中だ。エントランスから一人のスーツ姿の男が現れ、ネットの縁に括りつけられた重り用の鎖を面倒臭そうに持ち上げて、放り投げるようにごみ袋を捨てていった。
 しばらくしてもう一人、今度はタイトなワンピースを着た若い女性が肩にかかるくらいの髪を小奇麗にまとめ、キャリアウーマンらしく颯爽とヒールを鳴らした。
 ごみ袋を置いて顔を上げた時、一瞬男は目が合ったような気がしたが、女性は何事もなかったようにショルダーバッグを掛け直した。
 いわゆる生活臭というものを少しも感じさせない女性だ。最近入居してきた人だろうか。男は目を閉じて目が合った瞬間の彼女の表情をもう一度思い浮かべた。胸の鼓動が速くなっているのが自分でも分かった。
 それからしばらく、人の動きはなかった。暗がりは徐々に濃度を弱め、オレンジ色の光の束がマンションの外壁を染めていった。

 冗談のような失態だった。目の前には、いつもと同じごみの海が広がっていた。ありえないことに、車で眠ってしまったのだ。時間を見ると、最後に女性を見てから三十分が経過していた。
 男は車から降りて、ゆっくり現場に近付いた。烏の姿は既になかった。たった三十分の間に、こちらが寝込むのを知っていたかのような彼らの知恵と行動力ときたら。などと感心している暇もなく、箒と塵取りを取りに家に戻った。今朝の掃除は、いつも以上に重く感じられた。
 ふと、あるものが目に留まった。一番端、五リットルサイズのごみ袋が打ち破られていた中から覗いていたのは、女性用のストッキングだった。
 男は一旦塵取りで集めたものを袋に入れ、まだ他のごみにまみれていない、その丸まったものを手に取って広げてみた。柔らかくて繊細な触り心地。片方に腕を入れてみるとチェックの柄が編み込まれていて、細かい銀色のラメが満遍なく施されている。裏返すと、ふくらはぎのあたりが伝線している。太陽が完全に姿を現し、街全体が明るくなった今でも、良く見ないと見逃してしまいそうな程だ。
 向かいの戸建ての隣人が、新聞を取りに門扉を開けた。男は慌てて箒と塵取りを手に作業を再開した。隣人は男には目もくれず、憮然とした顔で新聞を取り出すと、再び家の中に入っていった。
 それから男は手を休めず、全てのごみを拾い集めて、今日のノルマを終えた。ストッキングも仕方なく他のごみと一緒にした。袋の位置からして、恐らくあのキャリア女性のものに違いない。あんなに注意深く、丹念にストッキングに触れたのは男にとって初めての経験だった。そのまま他のごみと一緒くたにして捨ててしまったことを、後になって後悔した。

 その日以来しばらくの間、ごみ置き場は平穏だった。一月近く続いていた男の朝のお勤めも必要なかった。あれ程苦痛だったごみ掃除でも、習慣になっていたものが突然無くなると、どこか拍子抜けして気持ち悪かった。もっと美味い残飯が食べられる穴場でも見つけたのだろうか。
 男はフックを外して、自分のごみを一番奥に放り投げた。電線に黒っぽい鳥が止まって羽を休めていたが、大きさや形からして烏ではないようだった。
 どこからか味噌汁のいい香りがした。そして、赤ん坊の泣き声も。やっとまとまって眠るようにはなったが、人工の乳首には一切口を付けないので、男が代わってやることはできなかった。妻よりずっと睡眠はとっているはずなのに、熟睡できている感覚はなかった。仕事中も、ずっと身体がふわふわとうわついた感じで、仕事が少しでも捗らないと苛々した。
 
 赤ん坊の世話のことで、男は妻と喧嘩した。自身では精一杯やっているつもりだったが、世間一般から見たらまだ足りない、知り合いの旦那は積極的に育児に参加している、あなたももっと手伝うべきだ、という主旨のことを延々まくしたてられた。男も仕事で疲れて帰宅した直後、頭ごなしにそう言われ、神の思し召しと言えども、さすがにうんざりだった。夕飯も食べず、風呂にも入らず、男は違う部屋で不貞寝をしたら、そのまま何時間も昏々と眠ってしまった。
 気付いたのは、既に早朝だった。カーテンの向こうはもう明らんでいた。妻と赤ん坊はぐっすり眠っていた。枕元に散乱するタオルやおむつから、昨夜も格闘した様子が窺えた。嫌な夢を見た訳でも風邪っぽい訳でもないのに、身体中にびっしり寝汗をかいていた。男は仕方なくシャツとパンツを取り替え、書棚の引き出しの奥に隠していた煙草とライターを手に外に出た。
 車のリアバンパー側の塀にもたれかかりながら、口に火を近付けた。煙草はとうに止めていたが、時々どうしても吸いたくなる時があった。一本だけ吸えばそれで満足で、またしばらく吸わなくても何ともなかった。ニコチンを味わうというより、吸い込んだ時、火種がちりちり音を立てて葉を浸食していく様が好きだった。半分程吸い終えたところで、男は塀に擦りつけて火を消し、隣のアパートの敷地に指で弾き飛ばした。
 先日のキャリア女性が、男には気付かないまま、ごみを置いて視界から消えた。今日はワンピースではなく、ジャケットとパンツ姿だ。身長があるので、何を着ても良く似合う。
 男はもう一本煙草を吸った。その間にもう一人、パジャマ姿でノーメイクらしい小太りの女性が、背中に赤ん坊を背負いながら、クロックスの先端でごみ袋をぐいぐい押し込んだ。
 颯爽とした独身のキャリアに、パジャマ姿の疲れた主婦。同じ世代の同じマンションに暮らす女性なのに、こうも違うものか。結婚して子供を産み育てるということが、果たして女性にとって本当に幸せなことなのだろうか、と男はぼんやり考えた。
 赤ん坊の泣き声が聞こえた。クロックスの赤ん坊ではなかった。間違いなく自分の家からだった。しかし今すぐに戻るのは嫌だった。こんな早朝から昨日の続きを再開させられるのは勘弁して欲しかった。
 男は煙草を足で揉み消すと、ごみ置き場に向かった。そして、周囲や市道に誰もいないことを確認すると、キャリアが置いた小さな袋を車のキーで切り裂いて路上に撒いた。ついでに、クロックスのごみとその周辺の袋にも次々にキーを突き刺し、ボーリングの球を転がすように滑らせた。
 男は一旦自宅の玄関まで戻り、箒と塵取りを手に持って、再び現場に戻った。キャリアの袋に詰まっていたものを、塵取りの角でほじくった。ストッキングは見当たらなかった。当然だ。そう毎日伝線されたら、たまったものではない。
 グレーの小袋が出てきたので開けてみると、それは使用済みの生理用ナプキンだった。ダイレクトメールは美容室からのもので、宛先には「宮坂遥」とあった。美容室は近所ではなく「渋谷区神宮前」だった。おしゃれな人は行動範囲が広い。 
 他にゼリーの容器、化粧品の箱、口紅、チョコレートの包み紙、生ごみ、ティッシュ、レシート。レシートには、いくつかの滋養強壮剤とビタミン剤、そしてコンドームとあった。
 コンドーム。
 あの颯爽としたスタイルのいい女性が選ぶコンドームというものが一体どのようなものなのか、男は想像を巡らせた。その名残がないか丹念に近辺を漁ったが、具体的な収穫物はなかった。男の出した結論は、「薄くて付け心地の良いもの」という実にシンプルな解に落ち着いた。
 一台の軽自動車が坂を下ってきた。運転手はごみの散乱を前に、申し訳なさそうにブレーキを踏んだ。男は踏みつけても構わない、と箒で合図をした。運転手は憐れむような目で軽く目礼しながら、極力ごみを避けるように迂回した。何枚かのティッシュと生ごみの一部がタイヤに巻き込まれたが、大勢に影響はなかった。
 中央付近のごみからは、大量のおむつの塊りが飛び出していた。これはきっとクロックスのものだろう、おむつは手で摘まんで端に避けた。男は気付いていた。先程のクロックスはブラジャーをしていなかったことを。それは厚手のパジャマの上からでも、はっきりと分かる程だった。 
 おむつの間からブラジャーが出てきたので、男は広げて排水口の蓋の上に置いた。それは男の妻のものよりずっと大きなサイズだった。生地はいかにもくたびれた感じで、レースの一部は糸が解けていた。
  男はスマホを撮影モードに切り替え、真上から写真を撮った。立った状態で一枚、座った状態で一枚。写真を撮ったところで何に使うのか男にも分からなかったが、気が付いたらそうしていた。男はもう一度、二人の女の顔を思い浮かべた。心拍数が猛烈に上昇しているのが自身でも分かった。
 反社会的なことをしているという意識よりも、久しく感じていなかった異性への衝動をコントロールすることで精一杯だった。俺は美化委員としての仕事を全うしているだけなのだ、と妄想を遮るように言い聞かせた。
 スマホを仕舞い、クロックスのブラジャーを一息に塵取りに履いた。まだ臭いを嗅ぐ勇気はなかったが、これがもしキャリアの下着だったらと思うと何とも言えなかった。もう一度、キャリアのごみの付近まで戻り、コンドームのレシートを含めて数枚のレシートとダイレクトメール、そしてまだ半分程芯が残されている口紅をポケットに突っ込んだ。
 犬を連れた短パン姿の初老の住人が、知らぬ間に男の側にいた。最近の天気やしばらく入院していた云々の社交辞令的な挨拶の後で、またやられましたか、と初老は眉間に皺を寄せた。
 全くね、と男も諦めたように答えた。手伝いますよ、と初老は足元のグレーの小袋に手を伸ばしかけたが、男は、いや手が汚れるから大丈夫、と体で初老を制した。ミニチュアダックスは、しっぽを振りながら初老の背後に隠れたままだった。いつも御苦労様、と初老は深く頭を下げ、リードを曳いて犬の散歩に出かけていった。
 掃除を手伝うなんて言われたことは、美化委員になって初めてのことだった。世の中もまだ捨てたもんじゃない、男は時間が切迫してきていることに気付き、作業スピードを早めた。自分がまいた種を収穫するだけなので、いつものような面倒臭さや苦しみは少しも感じなかった。ただ今の男の頭の中は、どういう顔をして、どういう言葉を妻に掛けてやれば穏便に事をやり過ごせるのかということで一杯だった。

 それから数日後、男が仕事から帰って来ると、マンションのごみ置き場に金属製の巨大な箱が置かれていた。重い金網の上蓋を開閉してごみを出し入れするタイプのものだった。金属は頑丈で分厚く、蓋自体も相当の重みがあった。高さもあるので、一旦ごみ袋を捨ててしまうと、取れなくはないがちょっと面倒だなという感じだった。
 男は、この金属の箱にごみが積み上がっていく様をイメージした。そして早朝、住人が次々にこの箱の中にごみを放り込んでいく様子を思い浮かべた。ごみを足で押し込む必要もなく、気にせず上から落とせばいい。留め具を掛けることも不要だ。
 ごみ置き場のシステムについては管理会社の判断であり、男がどうこう文句を言う筋合いのものではない。むしろ、手間が減ったのだ。本来は喜ぶべき設備投資である。しかし男は素直に喜べなかった。楽しみになりつつあった朝の習慣が、これですっかり失われてしまったのだ。
 ごみ袋は、既にいくつか転がっていた。これなら、いつ出しても全く問題ない。いくら知恵のある烏と言えども、これだけ重量のある蓋をこじ開けるのは不可能である。明日は収集日、もう清掃時間を考慮しなくてもよさそうだ。
 男はマンションの外灯の明かりの下で時計を眺め、何時にごみを捨てるか考えた。しかし考えても仕方なかった。男の生活リズムは、妻の行動に規定されていた。ごみ捨ては、おむつ替えのタイミングと朝食の支度の仕上がり次第だった。

 目覚ましの鳴る前に目が覚めた。妻はまだ眠っているようだが、赤ん坊は少しぐずり始めていた。つやつやした薄い瞼が時折びくんと動いた。まだしっかりと覚醒してはいなかったが、この感じだと間もなく腹が減ったと泣きわめくだろう。
 静かに用を足し、着替えて、玄関をロックした。外は既に明るく、湿度のない青空の広がる気持ちのいい朝だった。
 ごみの散乱は、これまでにない酷い有り様だった。これでもかというくらい、ほとんど全てのごみ袋が取り出され、ずたずたに破かれていた。金属の蓋はきちんと閉められていた。これには男も面食らった。それに、散乱しているごみは取るに足らない本物の屑ばかりで、男の心をときめかせるようなものはざっと見る限り皆無だった。
 目線の先に、人が歩いていた。背の低い短パン姿の男、そして小さな犬も一緒に。犬はリードで繋がり、男の歩調に合わせて、ぎこちなくくっついていた。片手にスーパーのビニール袋のようなものをぶら下げて。
 煙草を吸おうとポケットに手をやるが、忘れてきたことに気が付いた。取りに戻る代わりに、男は一つ浅めに息を吸い、そっと吐いた。息を吸った時、生ごみ特有の不快な臭いがつんと鼻を突いた。
 なるほど、ね。
 電線に数羽の鳥が行儀よく並んでとまっていた。体の形といい色といい、それは間違いなく烏だ、と確信した。烏は啼く訳でもなくごみを漁る訳でもなく、男の存在などまるで無視するように、朝日の昇る遥か彼方の方角を、一様したり顔で見つめていた。(了)

7件のコメント

  1. それぞれの登場人物のその後が気になるお話ですね。そしてまさかのゴミ荒らしの正体判明に驚きました。キャリアウーマンとくたびれた主婦の対比もすごくリアルです。 ゴミは気をつけて捨てないと、と肝に銘じました。
  2. ラムさん、読了&コメントありがとうございます。実害なきよう、お気をつけて!(*´-`)
  3. 人には言えない秘密ほど甘美に満ち溢れドキドキするものなんですね。 思いがけない人ほど、大胆、かつ計画的だったり。。。 些細な平凡な日常も、悪くないんね。 月夜の静寂さの中で読ませて頂きました。
  4. 月夜の静寂で読んで頂けると、更に身にしみることと思います。 人は表と裏を使い分ける動物ですから。どこまでいっても、真実はその人しか分かりません。その人すら、分かっていないのかも…。
  5. だから、面白いんね。。 いつまでたっても人のことも自分のこともよくわからんし難しいけど、ね。
  6. 人は何かしら異常な物を抱えて異常な世界とのバランスを取っているのかもしれないわね
  7. カウガールさん、コメントありがとうございます。元々異常なんだと思います。異常ではない世界で生きているのが、いつか窮屈になって、異常な世界とバランスを取りたがるのかも。何が正常で、何が異常かなんて、誰にも判別できません。

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