謝罪

 馴染みのマンションに到着した時、女とやりとりする為だけに開設したラインは正に佳境だった。階下から見上げると、南東を向いた最上階のリビングの窓明かりの中で、スマホをこちらに向けて小刻みに振る女の様子がぼんやりと見えた。
 二人が関係を持ってから、ちょうど三年が経過しようとしていた。男には月一のペースで充分だったが、女は少し不満のようだった。同じ職場で関係を持つとなると、これ以上会う頻度を上げるのは危険だった。お互い相手のいる身、不審感を持たれず無理なく付き合えるのは、これが限界だと男は判断した。
「今、階段を昇ってる」
「どきどきしてる……」
「今日はどんな格好?」
「直接確認して」
 五階建て。四十世帯程の小さなマンション。最上階の一番端で、女は今正に男の到着を待っている。そのぎりぎりまで、二人はラインを使って実況しながら気分を盛り上げる。周囲に人の気配がないことを確認すると、男は階段の一段一段、じらすように歩を進める。視線はスマホの液晶に釘付けだ。発信。既読。返信、既読。ビジネスバッグを握り締める手には少し汗をかいている。
 玄関に到着すると、息を整えるために一度大きく深呼吸をする。この程度の階段で息が切れるようでは、自分も年を取ったと、男はしみじみ思う。
 低層マンションとはいえ、ここは街の高台にあるので、二人が働く会社のビルはもちろん、中心市街地の夜景が程良く見渡せる。つい今しがたまで、あの建物の中でお互い仕事していたのだ。男女の関係になっていることは誰にも知られずに。
「着いたよ」
 その言葉に「既読」が付いたことを確認してから、男はインターホンのボタンを押す。黒く小さなカメラモニターのレンズに、自分の顔が湾曲して映っている。カメラのレンズは女の目そのものだ。男の格好はあまりに日常的な、いつものスーツにいつものネクタイ。女の方はさっきまでは会社の制服。しかし今は。
「はい」
 玄関に立っていたのは、職場の女ではなかった。全く面識のない、別の女性だった。
 男は咄嗟に返事にもならない声を上げて、表札を確認した。
 四〇八、木下。
 階を一つ間違えている。
「すいません、間違えました」
 女は酷く痩せこけている。ドアの取っ手を握る腕には細かい皺と血管が浮き出し、梳かれた形跡のない髪は無秩序に混線している。目の下の隈といい、ワンピースなのかスリップなのか分からない薄手で光沢のある着衣といい、ある種頽廃的孤独のようなものを男に感じさせた。
 直ぐにその場を立ち去りたかったが、女の目は男を射竦めた。女にとっては、この時間に部屋を間違える男など不審極まりなかったが、直ぐ追い出す訳でもなく、じっと男の顔ばかりを窺っている。
「失礼しました」
 男はもう一度謝った。女は瞬きもせず、黙って男を見続けた。隈だけではなく瞼も腫れ、瞳一杯に光と潤いを溜め込んでいた。
「間違えたって、どちらと?」と女は言った。喉の奥からようやく絞り出したようなか細い声で。
 不意打ちのような質問に、男は答えに窮した。まさか浮気相手となんて答えられるはずはない。体がたちまち熱くなり、思考は彼方に飛んだ。
「フロアを間違えました」
 諦めて、男は正直に答えた。
「何号室をお尋ね?」
「一つ上の階でした」
「北村さん、ね。失礼ですが、どういうご関係?」
「どういう関係って」
 正直に話したことを、男は後悔した。浮気相手のマンションの住人など、後々のことを考えたら顔見知りにはなりたくなかったが、振り切る一歩が踏み出せない。女の目はどこか虚ろだ。視線が合っているのかいないのか良く分からず、しかしそれを確かめるために凝視するのも憚られる。
「恋人?」
 そう言って、女は顔を少しだけ傾げた。男の心臓は相手に聞こえるのではないかと思うくらい激しく打った。
「すいません、待たせてしまっているので」
 振り返ろうとする男のバッグを掴んで、女は言った。
「お願い、少しだけ。きっと直ぐに落ち着くと思いますから。お願いします」
 女はもう一方の手で男の手首を掴み、強引に玄関に引っ張り込んで、扉を閉めた。知り合いの可能性がある以上逃げる訳にもいかず、男は抵抗することなく、女の言う通りにした。手首にすがる女の手は、線の細い割に痛い程の握力だった。乱れた前髪の奥に覗く形相から、男はただならぬ気配を感じた。
 それから女はそのまま玄関にしゃがみ込み、両手を顔に当てて啜り泣いた。ごめんなさい、ごめんなさい、と注意して聞かないと分からないくらいの小さな声を上げながら。 
 ラインが矢鱈に気になった。着いたよ、と言ってからずっと彼女を待たせてしまっている。何故チャイムを鳴らせずにいるのか、この状況を早く伝える必要があると思ったが、そのタイミングを計りかねていた。伝えるにしても、まさかフロアを間違えて下の階の住人のチャイムを鳴らしてしまった、なんて言えるだろうか。
 顔を押さえていた手を、今度は後頭部を抱えるように後ろに組んだ。それでもまだ涙は止まらず、玄関にいくつもの染みを作った。
「あの、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい、大丈夫。少しずつ、落ち着いてきましたから。いい迷惑ですよね」
「いや、そもそも間違えたのは自分ですから」
「間違えてもらって良かったんです。そうじゃなければ、私」
 女の言葉は一度そこで途切れた。男は次の言葉を待った。言葉の代わりに、女はゆっくり立ち上がり、男の腕にしがみついて額を押しつけた。
 靴箱の棚には、薔薇の芳香剤が置かれている。しかし匂っているのは花の香りではなく、もっときつい香水の臭い、あるいはすえた体臭のような、独特な香りが鼻を突く。台所には洗い物が積まれ、奥の居間にはバスタオルやペットボトル、紙袋などが無造作に散乱している。壁に掛けられた家族写真には、小学校に上がりたてくらいの黄色い帽子とランドセルを背負った男の子が、両親に両手を繋がれて恥ずかしそうに体をくねらせている。
 突然、女は痙攣を起こしたように震え出した。
「ちょっと」
 男はどうしていいのか分からず、ただしがみついている女の腕を抱えてやるしかなかった。痙攣はしばらくすると何事もなかったかのようにぴたりと止んだ。女はしばらくその場にへたり込んでぐったりしていたが、やがて四つん這いで這うように居間に戻ると、薬を何錠か口に放り込んで、台所の水をごくごく飲んだ。
「これが日常なんです。ごめんなさい。毎日怖くて怖くて」
 女は喘息持ちのように、息が上がっている。男は諦めていた。今この状況で、この女の元を離れるのは無理だった。彼女には申し訳ないが、少し落ち着くまでは。
「ちょっとメール入れてもいいですか?」と男は言った。
「誰に? 北村さん?」
 女はやっとという感じに、白く無力な顔を男に向けた。
「はい」
「彼女とはどんなご関係なの? ごめんなさい、何度も聞いて」
 男はその質問に答える義務があるのかどうか考えたが、どうもそれに答えないとこの状況を切り抜けられそうもない気がしたので、少し考えてから、「ただの親戚です」とだけ答えた。
 親戚。どう突っ込まれようと、いくらでも交わしようのある答え方だ。しかし後で「ただの」は余計だったかな、と思った。
「そうですか、ご親戚の方なんですね。親戚の方にこんなことお話していいのか分かりませんけど、最近、旦那さん以外の男性が時々出入りしているみたいだったので、つい気になって」
「そうですか」
 旦那と上手くいっていない話はもちろん知っている。海外出張が多く、一年の三分の一は日本にいないことを。だからこうして堂々相手の家で会えることを。
 しかし時々出入りしている、という言葉が、男の頭の中に棘のように突き刺さる。時々、というのが一月に一度の自分との逢瀬をさしているだけなら問題ないが。いやそれ自体も、感付かれているとすれば。
「まさか浮気しているなんて思いたくはないけれど」
 女の体が一度びくんと震えたような気がした。その当事者が、今目の前にいる。
「一つ聞いてもいいですか? 男の人は何故浮気をするんですか? あなたは浮気したことありますか?」
 男は無関心を貫くつもりだった。関われば関わるほど面倒なことになる気がした。女の私生活の一部を引き受けさせられるような気がした。
「どうなんでしょうね」
「どうなんでしょうって?」
 女は少しむきになっている。
「いや、どこまでが浮気と言うのかなと」
 仕方なく、男は応じた。
「あなたはどう考えますか?」
「やっぱり肉体関係があるかどうかかな、と」
「じゃあ、二人だけで何度も食事するのは、浮気じゃない?」
「食事は、その方の置かれている状況によっては普通なことかと。仕事が同じとかで」
「毎回はおかしいくないですか? 毎回は、明らかに意識的ですよね。肉体関係だって、一度だけなら、なりゆきだとか魔がさしたと言えますが、二回目以降は確信犯です。明らかに、関係を持とうと思って持っている」
 女の感情が昂ぶっているのが、男にも分かる。旦那が浮気でもしているのだろうか。気の毒だけれど、だからと言って。
「どうやら会社の人みたい。目撃者がいるんです、相手のアパートに出入りするのを。私、こう見えても実は友達多くて。それに、隠れてメールしてたり、下着の嗜好が以前と変わってきたり」
「浮気したという証拠はあるんですか?」
「証拠なんてないですが、分かるんです。学生時代から一緒ですから。生涯私だけを愛してくれると誓ったはずなのに、何故? あれは嘘だったということ? 私は嘘をつかれたってことですよね?」
「いや、それは」
 まるで自分が責められているようだった。状況が余りに良く似ている。同じ会社。相手の家。学生時代からの付き合い。誓いの言葉。そして、嘘。
「嘘ではないと思います。その時は間違いなくそう思っていた。でも環境は変化していきますし、それに伴って心も関係も少しずつ」
「あなたも浮気容認派なんですね。男の人は皆そう。ねえ、どうして? じゃあ、奥様が浮気したら、どう思う? 今みたいな理由で納得できますか? 本当に浮気したことないですか? 自身の子供に誓っても、そう言い切れますか? いや、そもそも浮気したことはあるんですか?」
 女は堰を切ったように、旦那代わりの男に感情をぶつける。右手をきつく握り締めて、玄関マットの上に押し付けている。
厳しい詰問に男は返答に窮し、容赦なく緊迫した空気を作る女を複雑な気持ちで見下ろす。結婚して以来、妻が浮気をすることなど考えたこともない。妻が浮気をするなどありえないと勝手に決め込んでいる。
「許せない。浮気は許せない。誰が何と言おうと、浮気は絶対にいけない。家族を傷つけて、裏切って正当化されるはずない。それでもするというなら、しっかりと妻を、子供を、家族を愛し守って欲しい。傷つけないで欲しい。疑われるような仕草とか証拠を一つも残しちゃ駄目。それができない人は、浮気なんてしてはいけない。私、何かおかしいこと言ってますか?」
 男は男として何か言うべきだと思ったが、何か言おうとすると全てが嘘臭くなる気がして、おかしいことはないという相槌すらも、喉の奥で躊躇した。
 女は再び床に顔を付けて、おいおい泣き始めた。その時、奥のリビングからがたんと何かがぶつかる音がして、それから間もなく、Tシャツにパンツ姿の少年が、じっと男の顔を凝視しながら、玄関に向かって歩いて来た。髪は寝癖のように不自然な型が付いていて、膝小僧が擦り剥け、大小いくつかの青あざが痛々しい程点々としている。
 母の側までくると、ぴたりと寄り添い、背中を摩る。母はごめんね、ごめんねと声にもならない声で少年の足にすがる。それから少年は顔を上げて、無表情のままじっと男を見つめた。
 無表情。それは全くその通りだった。今の状況に対する疑問や懸念、あるいは喜びや悲しみを窺わせる象徴は何一つなく、真一文字に口を閉じて、半分しか開かない一重の両眼を男に向け続ける。それはまるで、本能的に生への執着を失った昆虫のようだった。
 おじさんも、ママを苛める人?
 確かにそう聞こえた。既に閉じられた少年の口をもう一度頭の中で再生するには、あまりに動きが小さ過ぎた。しかし、男の耳には確かに届いた気がした。ママを苛める人。ママを苛める人。ママを苛める人。
「いや、ごめんね、そう、部屋を間違えてしまった。そのことでママを苛めてしまっているのだとしたら謝るよ。ごめんね」
「もうママを泣かさないでね、ママは何も悪くないよ? 何も悪いことしてないんだから。だから、泣かさないでね」
 今度は男にもはっきりと聞こえた。少年の眉間が一瞬ぴくんと強張った。母親の肩に添える腕は、骨と筋と皮ばかりで、筋肉はほとんどない。
「うん、分かったよ。もうしないからね。本当にごめんね」
 男は何故謝っているのか、何を謝っているのか分からなかったが、子供達を悲しませる全ての悪事を働いている元凶は、まるで自分自身にあるような気がした。少なくとも、今目の前の親子を現在進行形で悲しませている。苦しめている。
 そしてこれ以上ここにいることは、この親子を益々不幸にさせる。ここに留まり、正論をぶる資格などないのだ。
「そろそろ行きますね。お邪魔しました」
 男は鞄を握り直し、スーツの上着の襟を正す。少年は何も言わずに、母親の髪を撫でている。女も息子の足首を握り締めたまま、眠ってしまったのかと思う程の静けさでうずくまったまま。
 男は玄関の戸を開け、ゆっくり向きを変えてもう一度、ごめんなさい、と謝った。女は顔を上げずにいた。少年は目を切ることなく、扉が閉められる最後の最後まで男を見つめていた。
 かちゃり、と四〇八の扉は閉められた。直ぐに中からチェーンロックを掛ける音がした。一日の気力体力全てを消耗した気がした。男は階段に向かって歩き始めた。体に力が入らず、足を引きずるように。
 あの家族はこれから大丈夫なのだろうか。ちゃんと生きていけるのだろうか。そればかりが男の頭の中を何度も巡る。手癖のようにスマホをポケットから取り出しロックを解除する。ラインのアイコンが液晶画面の最上部で早く開けと主張している。
 男は一度だけ後ろを振り返る。マンション全体が息を飲み、世界の一挙手一投足を見守っている。まるで玄関先で号泣している女など世の中に誰一人存在していないかのように。駅前のオフィスにはいまだ煌々と明かりが灯り、仲間達が男の放り投げた仕事も含めて処理に追われている。
 スーツを着た人影がゆっくりとした足取りで、男の方に近付いてくる。革靴のこつこつという音と振動が渇いたコンクリートの床を伝う。万引き現場を押さえられたように男は反射的にスマホを仕舞い、目を合わせないようにすれ違いざまに会釈すると、スーツの男もそれに応える。煙草と香水の混じり合った匂い。ストライプのネクタイ。襟元の社章。まちのある黒いビジネスバッグ。
 階段の降り口でちらと振り返る。男は一番奥、つまり四〇八号室の部屋の前で玄関が開かないことを確かめると、財布から鍵を取り出して鍵を開け、勢い良く中に入る。再び辺りは静寂に包まれる。
 酷く胸騒ぎがする。あの家の中が、彼の帰宅によってどういう状況になっているのか。男はあまり好ましくない想像をする。たった今すれ違ったばかりの男の形相が豹変する様を。玄関でさめざめ泣くあの親子に追い打ちを掛けるように、足蹴にする様を。いやしかし、奇跡が起きて、玄関で土下座して、これまでの過ちを悔い改め、妻子に赦しを請う姿を。
 階段を降り、駐車場を横切り、男は改めてマンションを見上げる。まるでこのマンションに住んでいる者など誰もいないかのよう。南東向き最上階の部屋には明かりがうっすら灯っているもののレースのカーテンが引かれ、中の様子は分からない。直ぐ下の家には明かりが点いているかどうかすら分からない。肩の力が抜ける。抜けてみて初めて、これほどまでに肩に力が入っていたことに気付く。
 スマホにメールの着信音。妻からだった。長い間療養中だった親戚の叔母が亡くなった、との知らせ。葬儀に関する詳しい日取りは、また連絡があるとのこと。
 親戚に会う、という行為は、大抵冠婚葬祭か借金をする時であって、それほど日常的なことではないのだ。当たり障りのない言葉も、使う時と場合によっては、却って不自然になるのだ。

 幹線道路に向かう狭い私道は固く張り詰めている。通りまで出ると、タクシーは直ぐに見つかる。シートに掛けて行き先を告げ、そこで男はようやくラインを開く決意をする。未読のメッセージ、一七件。不在着信三回。男は女のメッセージを読むことなく、メッセージ欄に親戚が亡くなったので急に帰ることになった旨、詳細とお詫びはまた後日とだけ打ち込んで、鞄の中にスマホを仕舞った。
 もう二度とマンションに来ることはないだろうな、眠る直前のような思考の片隅で、男はそう直感した。(了)

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