日曜午後の「白髪抜き」は、我が家ではもう習慣になっていた。ソファに寝そべってテレビを見ている俺の髪の中から、まるで「宝物」でも探し当てるように白髪を見つけては、千枝は途中で切れないよう細心の注意を払って根元から静かに引き抜き、丁寧にティッシュの上に並べていった。それはまるで精神療養の儀式のようだった。
五十に近付くにつれて、千枝は以前より短気になった。些細なことで怒りっぽくなった。ひとしきり俺の非をまくしたてた後は、魂が抜け落ちた木像のように無口になり、表情が失われた。
家事も手を抜くことが増えた。毎日だった掃除が一日置きになり、三日置きになり、週一になり、やがて押し入れから掃除機を出すことがほとんどなくなった。あれほど素材にこだわり、手を掛けることが大好きだった食事の支度も、レトルトの惣菜が増え、鍋を空炊きにしてひやりとすることもあった。
ついこの間までの千枝はそうじゃなかった。何でも首尾よく器用にこなす、働き者の妻だった。確かに体調が優れないのは大きな要因かもしれなかった。しつこい頭痛に悩まされており、いつも頭を叩いたり、頭蓋骨を両手で挟みこんだりしていた。不眠も酷く、朝5時に目覚めると、千枝もしっかり目を開けて布団にくるまっているので「早起きだね」と言うと「眠れてないの」と彼女は答えた。
俺は千枝を愛していた。眠れない千枝や怠け者になった千枝の姿を見るのは忍びなかった。辛いことや苦しんでいることがあるのならどんな手を使ってでも救ってやりたかった。結婚を決めた時も、そして結婚後彼女が子供を作れない体だと分かった時も、俺は死ぬまで千枝と一緒にいようと決めたのだから。
年を経ることによる女性特有の憂鬱、と俺は高を括っていた。少なくとも週末、俺の白髪を抜いている時の千枝の顔は普段とはうって変わって穏やかで優しい表情になるので、俺は日曜の昼下がりをいつも楽しみにしていた。
ところが、その日の千枝はどこか違っていた。膝に載せた俺を見降ろしたまま、いつもの儀式を中々始めようとはしなかった。黴臭い押し入れに忘れ去られたビスクドールのような目で俺をいつまでも見つめていた。
「どうしたの?抜かないの?」と俺は聞いた。
「抜くって何を? 何かするの? 私」
千枝はあっけにとられた顔で静かに答えた。俺の中で、最近の千枝の行動がぽつぽつと繋がり始めていた。おぼろげだった点は線となり、やがてそれは確信となった。これまでに経験したことのない途方もなく巨大な渦巻きの中に放り込まれた気がした。
「白髪抜きだよ」
俺は一瞬目を閉じて祈るように千枝に言った。目だけではなく耳も塞ぎたい心境だった。千枝の答えを聞くのが怖かった。
死ぬまで千枝を愛し続ける覚悟。言う程優しくない「本物の愛」の洗礼に、少しだけ触れた気がした。
掛け時計の振子の音が沈黙の幅を均等に刻んだ。しばらく千枝は何も言わずに、じっと俺の顔を見つめていたが、突然感電したようにびくんと全身を震わせて、こう言った。
「どうしてそんなことするのよ。薄くなっちゃうじゃない。それより、お腹空かない? 何か作るね」
俺の頭をそっと膝からどけて、千枝はリビングからキッチンに向かった。たった今二人でピザのケータリングを平らげたばかりであることは言わないでいた。
俺はいてもたってもいられなくなって、妻の三面鏡の明かりを付けてブラッシングをした。何か動いていなければ全身から力が抜け落ちて、身も心も溶けてなくなりそうだった。前髪の中に白髪を数本見つけたので俺はむしるように引き千切り、くず箱に捨てた。鼓動が高まり、額に嫌な汗をかいているのが分かった。
平均寿命と言われている年齢から千枝の年齢を引き算してみると、まだこれまで生きてきた年とほぼ同じくらいの歳月が残されていることが分かり途方に暮れた。俺の髪の毛から全ての色がなくなるのは、きっとそんなに先の話ではないのだろう。ひょっとしたら、今この瞬間にも、いくつかの毛根がぶつぶつと音を立てて破壊され、メラニン色素の生産活動を中止しているかもしれない。
鏡に映る自分の顔を見て、俺は愕然とした。ブラッシングをしただけで、頭の表面積のほとんどは白髪になった。(了)
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