生臭さ

「何の臭いかしら」と妻が言った。私はひと風呂浴びてちょうど食卓についたところだった。
「臭わない?」皺の寄った眉間の塹壕を更に深めて、妻は鼻から小さく息を吸った。
「そう?」
 慢性的な蓄膿体質もあり、鼻の利く方ではなかったので、妻の言っている「臭い」がどんなものか自分には分からなかった。
「ガス漏れ?」
「ううん、違う。生臭いっていうか」
 懸命に理解しようとするけれど、やみくもに息を吸ってはただ鼓膜がつんとなるだけで、妻の言う「臭い」を識別することができずにいた。そんな私の鈍感さに、妻は少しずついらいらしているように見えた。
「魚とか卵の腐った臭い、ていうか、真夏のゴミ置き場の臭い」
「それは酷いね」
「あなたに分からないっていうなら、気のせいかもしれないわ。ちょっと疲れてるのかもしれない」
「冷めないうちに食べようよ」
「うん」
 妻はエプロンを脱いで椅子に座り、黙って手を合わせた。私もそれに倣った。何度も注意深く臭いを嗅いでみたが、パセリを散らしたクラムチャウダーの香ばしさを感じるだけだった。疲れている時は鼻の感覚がおかしくなることもある、と私は妻を労った。ずっと家にいるのに、どうしてそこまで疲れているのかには触れないでおいたが。

 その日の晩、妻は布団の中でも同じことを言った。
「やっぱり臭う。もう我慢できない」
 妻はむくりと起き上がり、私の布団を足元まで剥いだ。それから、頭から足の先まで、まるで麻薬捜査犬のように、ほとんど体に密着するくらい鼻頭を近づけて臭いを嗅いだ。
「腕の、この辺り」と妻は言って、私の右手首を強い力で掴み上げ、今度は慎重に、注意深く鼻を広げた。
「痛いよ」
 握られた手首の指先が何かの筋に触れたようで、ちょっとした電流が体に走った。明日の労働活力の充填時間が妻の妄想のために遮られるのは、何ともやる瀬なかった。疲労度はどう考えても自分の方が上なのだ。
「もういい加減にしてくれよ」
 少し強く言い過ぎた、と言った直後に後悔した。「ごめん、でも自分には全然臭いなんて分からないんだよ」
「あなた、私の妄想だと思ってるんでしょう? 本当に臭っているのよ、この腕から。いよいよ突き止めたわ。間違いなく、臭いの元はこの腕から発生してる」
 妻の目は異常に輝いていた。涙目ということではなく、瞳孔が一杯に開き切っている、という感じに。今にも寝つく寸前で腕を掴まれ半強制的に覚醒させられた私の体は微妙に震えていた。
「ねえ、腕ごと洗ってきて。もう一度しっかり」
 私は言われた通りにすることにした。妻が納得しないことには、今夜はどうやら眠りにつけそうにない。
風呂場に行き、私は上着を脱いでシャワーの栓をひねった。石鹸を腕中に塗り、麻のタオルで擦った。特に臭いの元が潜んでいそうな掌と脇の下は入念に、赤みがさすまでごしごししごいた。シャワーで流し終わった後で、再び臭いを嗅いだ。人からもらった高級石鹸の花の香りがするだけだった。掌からも二の腕からも、皆同じ香りがした。
 これで勘弁してほしい、という祈りに近い願いを込めて、妻に腕を差し出した。
「ううん、駄目。やっぱり臭う」
非情にも妻は言った。
「参ったね。これ以上どうしようもないよ」
 次の瞬間、突然妻は口元を両手で抑え、洗面所に掛け込んで顔を流しにつけた。内部から湧き上がってくる衝動を抑えることはできなかった。私は咄嗟に背中をさすった。それしかできることがなかった。妻は随分と長い間吐き続けた。もう吐く物はない、というところまで、痛ましい嗚咽にも似たうめき声と咳込むことを繰り返しながら、涙を流していた。
「ごめんなさい、離れて。堪らない、その臭い」
「ごめん」
 私は仕方なく居間の電気をつけてソファに座った。彼女は更にもうしばらく嘔吐を繰り返した後で、再び布団に横になった。「大丈夫?」という私の呼びかけには何も答えず、背中を丸めて布団を頭まで被った。いや、呼びかけには答えたのかもしれないが、ほとんど声を聞きとることは不可能だった。体温を測ると、三十九度五分あった。
 私はアイスノンを製氷機から取り出してタオルを巻き、妻の頭の下に差し込んだ。それからもう一枚、薄い毛布で足元を覆った。妻は何も言わず、一刻も早く眠りについて、今のこの最悪な状況を切り抜けようとしているようだった。私はそれに従った。私が側にいることは、彼女を不快にさせるだけだった。
私は自分の布団を抱え、ソファに横になった。それから、もう一度、意識を集中して、自身の腕の臭いを嗅いだ。しかし、妻の言う「生臭さ」というのはついぞ分からなかった。
 結局、その原因不明の熱は二晩続いた。三日目の朝にはまるで何事もなかったかのように平熱に戻った。熱が下がると、妻はこれまでと同じように、洗濯機を回し、三度の食事を作り、掃除機を引きずり、安いスーパーのチラシを比較する普通の主婦生活を再開した。
「インフルエンザにしてはおかしな感じだし、何だったんだろうね」
「本当に。お医者さんに行く気力もなかったから。でも今はこの通り」
 妻と私は食卓を挟んで、昔話をする老人のように、熱いお茶を飲んでいる。
 あの日以来、私の体からも、「真夏のゴミ置き場のような臭い」はなくなった。きっと、発熱に伴って、妻の嗅覚が一時的におかしくなったのだろう。腕から腐った臭いがするなんて、全く根拠のない馬鹿げた幻臭だ。
「もう、臭ってない、よね?」
「うん。大丈夫。ごめんなさい、あなたには酷い言い方を」
「いいよ。気にしないで」
 妻が悪かった訳ではない。妻も犠牲者なのだ。幻臭とはいえ、嘔吐を催すほど、私の体は忌々しい臭いを発していたのだから。私はぼんやりと、それほど酷い臭いって一体どんなものだったのか想像した。それから、もしそのまま私の体からその臭いが一生ついてまわっていたとしたら、どんな生涯を送っていたのだろう、と考えた。
 ファブリーズを肌身離さず自身に振り撒いて生きる人生。道ですれ違う人から、鼻をつまんで後ろ指を指されるような人生。それよりも何よりも、それが原因で、妻とはもう一緒に暮らすことができなくなったかもしれない人生。

 あの騒動から、間もなく五年が経過しようとしていた。我々の間には、未だに子供はいなかった。それもそのはず、我々の生活の中で、あの日を境に変化したことが二つあった。
 一つは、妻の夕食の献立の中で、「魚料理」が圧倒的に減ってしまったこと。
 それからもう一つ。
 夫婦生活が全くなくなってしまったことだ。
「もしかして、まだ生臭い?」
 私は布団の中で、真顔で妻に聞く。
「ううん、そんなことない。そんなことじゃないのよ。ただ」
「ただ?」
「ただ、ね」
 言い淀み、しばらく沈黙していると、妻はいつも次の日まで深い眠りに落ちてしまう。
 結局、私は妻の口から、その後に続く答えを未だに聞くことができずにいる。(了)

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