【超短編小説】ずぶずぶ

 気のせいであって欲しかった。しかし間違いなく、その「ずぶずぶ」な感覚を、男は足の裏に感じていた。まだこの年で、と思ったが、自分よりもっと若くしてそうなってしまった人の情報に触れると、少なくとも五十になった今まで大過なく生きてこられたことを幸せに思った。そう思うしかなかった。
 子育ても一段落し、これから残りの人生、妻とどう過ごそうかとライフプランを真剣に考え始めた矢先のことだった。自分が「ずぶずぶ」になることは想像もしていなかったし、仮にそうなるにしても、もっと先の話だと思っていた。これから新しい仕事にもチャレンジしなければならないし、住宅ローンも半分残っていた。「ずぶずぶ」になったことを妻に伝えた際の反応が怖くて中々切り出せないうちに、一週間が経過した。その間にも、着実に「ずぶずぶ」は進行していた。
「本当のことなんだ」と男は弱々しく言った。
 妻の顔は一瞬でこわばった。言葉はなかった。改善の見込みがない分、癌の告知より残酷だった。
「見てごらん」
 男はフローリングのキッチンに直立して、足元を見るよう妻に促した。五本指の爪の部分が辛うじて地上に顔を出していた。踵や足の裏の皮膚の一部は板の中に埋もれていた。
「ちょっと前からおかしいとは思っていたんだ。でもこんなに早く進むなんて」
「これから先どうなるの?」
 声を絞り出すように、妻は言った。
「分からない。進行には個人差あるみたいだから」
 男は片足を上げた。そこには見慣れた足そのものが露出した。足を下ろすと、足の下半分が床に沈み込んだ。もっと進んでいけば、やがて足の全て、胴体、腕、顔と頭が地中に埋まり息絶える、それが「ずぶずぶ」の怖さだった。
「なってしまった以上、行けるところまで行くしかない」
 男は怖くて仕方なかった。「行けるところまで」と言うのは簡単だが、本当に行ってしまったら、そんな強がりを言える状況ではないのだろう。
「ずぶずぶ」で絶命する人の中には、道端や公園で最後を迎える人もいた。胸まで「ずぶずぶ」になると、最早どのような手段を用いても路面から脱出することは出来なかった。それは行政にお願いしても無駄だった。たまたまそれが人目に触れるところだと困ることになった。その場合に行政が出来ることと言えば、亡骸を巨大な三角コーンで目隠しすることくらいだった。巷ではそれを「墓標」と呼んだ。最近では、市街地でも墓標を見かけることがあった。大半の人々は墓標を邪魔に思った。酔っぱらいの中には蹴飛ばす者さえいた。墓標など、完全に他人事だった。
 しかし、今その「ずぶずぶ」が自分の身に降りかかってきたとなると、やるせない気持ちで一杯になった。あんな晒し者のような死に方だけはしたくないと思った。それ以前に、「死に様」を意識するにはまだ早過ぎた。
 男は何度も足を上げたり下げたりした。やればやるほど、沈み込む足の深さが増していくような気がした。
「治療法はないの?」
 妻は明らかに混乱していた。平穏な家庭に突然降りかかった事態を、どう整理していいのか分からなかった。
「病気ではないんだ。体のどこかが悪いとかそういうことではないからね。どうして身体が地面に埋まっていくのか誰にも分かってない。だから解決のしようもない。『ずぶずぶ』は『ずぶずぶ』としか言いようがないんだよ」
 遅かれ早かれ地面に埋まって死んでいくだけ、と言おうとして止めた。それを口にしたら本当に絶望的な気がした。どうにか進行を遅らせることが出来れば、その間にどこかの誰かが研究して、新しい解決法を見つけてくれるかもしれない、それに期待するしかなかったが、しかしそれがいつになるのかは全く分からなかった。「ずぶずぶ」はこの数年で登場した新しい現象であり、まだようやく物好きな学者が研究の途についたばかりだった。
「寝てる間どれだけ沈んでいくものなんだろうね」と男は言った。起きたら全部沈んでたということはないのだろうか。全部沈むとは、即ち、そういうことだ。
「あなた、怖い」
「俺も怖いよ」
「私、どうすればいい?」
「どうしようもない」
「これはうつるの?」
「ネットで調べてみたら、かなりの確率で家族もそうなるって」
 二人は沈黙した。男はそう言って後悔した。これ以上妻を心配させることは言うまいと思った。
 それまで見ていたテレビのサッカー中継を男は消した。今日の勝敗はワールドカップに向けての大事な一戦だったが、「ずぶずぶ」となった今ではもうどうでも良かった。一年後のワールドカップまでもつかどうか分からなかった。向かいの住人が車で帰宅する音が聞こえた。エンジンが停止し、ばたんとドアが閉まった。それからまた静寂が訪れた。黙っていても仕方なかった。日常生活を過ごすに不便はない。足の裏が一部埋まっているだけだ。まだ普通に歩けるし、強引に走ることだって出来る。最後の最後で、少し足の裏が地中に沈むだけだ。
「大丈夫、どうにかなるよ」
「どうしてそんな呑気にいられるのよ」
「呑気じゃないよ。前向きに、いいことばかりを考えていくしかないから。嘆いていたって何も始まらない。共存していくしかない。ごめん、シャワー浴びてくる」
 妻の顔を見ているのが辛かった。妻は妻なりにこれからの老後を考えていた筈だった。まさか夫からこんな告白を受けるとは想像もしていなかったことだろう。
 男は服を脱ぎ、風呂場の鏡の前に全身を映した。どう贔屓目に見ても、足の指は見えなかった。再び、男の中に激しい恐怖が芽生えた。ぶるぶる体が震えた。猛烈な寒気だった。シャワーの栓をひねり、いつもより高い温度に設定した。バスタブの縁に足を掛けて立ってみた。やはり、足の半分がバスタブに沈んだ。どこに身を置いても同じだった。
 余りのお湯の熱さに、男は声を上げて驚き、咄嗟に止めた。湯船に漬かっても温かさを感じなかった。浴槽で、男はずっと震えていた。明日会社に行けるだろうか、と思った。しかし行かない訳にはいかなかった。給料を得ないことには、住宅ローンも返済出来なかった。

 駅に行く途中、男は諦めて引き返した。
 これ以上、歩き続けるのは無理だった。「ずぶずぶ」は膝頭まで進行していた。たった数日でこれほど程度が進むとは。
 足を抜くのが重かった。泥の沼を歩いているようだった。会社に電話を入れ、今週一杯休む旨を伝えた。引き継ぐ必要のある業務は直接部下にお願いをした。
 管理職が一週間休むというのは多くの部下に迷惑をかけることだった。しかしこの状況では仕方なかった。「ずぶずぶになった」とは伝えられなかった。「ずぶずぶ」に関する共通認識はまだ社会的にも出来ていなかった。「墓標」という呼び名が示す通り、ネガティブな印象しかなかった。「ずぶずぶになった」という情報が変に伝わってしまっては、管理職であってももう会社に居られなくなるかもしれないと思った。あと十年どうにか勤め上げて、悠々自適なセカンドライフを妻と過ごす計画が全て駄目になる。今会社を辞める訳にはいかなかった。今辞めて他に勤められるところなどないということは分かっていた。「ずぶずぶ」になった人間を雇うところなどある筈なかった。
 男はへとへとで自宅に戻ると妻を呼んだ。この状況をまずは妻に伝えなければならないと思った。玄関で見送りをしてからわずか数分の間に、ここまで進捗してしまった現状を。
 自宅も全くの泥沼だった。一歩踏み出すのに、恐ろしい程の体力を使った。早晩、身動きが取れなくなることは間違いなかった。大腿部まで埋まったら、足を引き抜くことは不可能だった。
 妻はベランダにいた。洗濯物が辺りに散乱していた。地表に出ているのは、胸から上だけだった。目がおかしくなったのかと思った。目を何度も擦り、開けたり閉じたりした。妻の胸から下が何処にあるのか分からなかった。胴体が失われるマジックでも見ているようだった。
「和美」
 妻は泣いていた。男の顔を見るなり、わっと悲鳴にも似た叫び声と共に両手を男に伸ばした。男は妻の手を取り、手元にぐいと引き寄せた。
「どうしてこんなことに」
 妻は首を横に振って、何か言葉を発しようと男の目を見たが、しばらく言葉が出せなかった。彼女が今危機的な状況にあることは、直ぐに理解できた。
「ずぶずぶ」と妻は言った。「私も」
「和美」
「ベランダに出たら、あっという間に」
 玄関の見送りからまだ一時間も経っていない。その間に、自分は膝まで「ずぶずぶ」が進み、妻はあっと言う間に身体が埋まっている。自分だけではなく妻にまで「ずぶずぶ」の災難が降りかかっているという現実を、男は理解出来なかった。夢であって欲しいと本気で願った。こんなふざけたことが、科学技術の進んだ現代の世の中にあってはならないと思った。
「怖いわ、怖い」
「怖いよね、分かるよ。俺も怖い。一体どうしちゃったんだろうね。ついこの間までうまくやっていたのに。ちょっと待って、助けを呼ぶから。もう自分達だけで収めることは無理だよ。誰かの助けを貰おう。こういう時くらい甘えよう。今までずっと自分達だけでやってきたんだから。いいよね? ばちは当たらないよ。冷静になろう。俺がいるから、大丈夫だから」
 胸ポケットから慌てて取り出したスマホは手からはじかれ、コンクリートの床に落ちて、そのままずぶずぶ地中に消えた。
「まじかよ」
 強烈な力が喉の筋肉をこわばらせた。大きな声が出せなかった。男も既に腰の辺りまで「ずぶずぶ」が沈んでいた。妻は首から上だけになっていた。男はどうにか妻の体を地上に引っ張り出そうと腰を持って持ち上げようとしたが、やればやるほど、今度は自分の身体が下へ下へとめり込んだ。踏ん張れば踏ん張る程、抵抗がなくなっていく。
「私が完全に埋まったら土台が出来る。あなたは私の上に乗っていれば、それ以上沈むことはないから」
「どういうこと?」
「ネットで見たのよ。このままじゃあなたも沈んでいくだけだから。あなただけは助かって」
「やだよ。和美がいなくちゃ駄目だよ。和美も一緒に助かる方法を」
「それは無理。力が入らない。ねえ、あなた、麻友のことお願い」
「そんなこと言うなよ。なあ和美、諦めちゃ駄目だって」
 妻の口は床の平面と同化し始めていた。男は妻の手をしっかり握っていた。しかし力が徐々に落ちてきているのが分かった。妻に握り返す力はなくなっていた。男だけが手を握っていた。妻の鼻がいよいよ埋まった。
「和美!」
 大きな声が住宅地に響いた。しかし、ベランダで「ずぶずぶ」と格闘している二人に気付く者は誰もいなかった。目を閉じた妻は最期を覚悟した。男は泣き叫んだ。最愛の妻の頭を撫でた。それが最後の温もりだった。抱き締めるように、両足で地中に沈んだ妻の顔を挟んだ。内腿に、しっかりとした妻の感触が残された。ベランダのつっかえ棒を支えにしながら肩車をするように体制を整えた。
 妻の言う通り、沈んだ妻を土台にすると、確かにそれ以上沈み込んでいく感覚はなくなった。試しに、妻の肩に足を乗せて体重を寄せ、つっかえ棒を両手で引き上げた。男の体は何もなかったかのように地上に飛び出した。男の体を妻が支えていた。たった今、地中に沈んだばかりの妻が。
 ベランダに墓標が建てられるのは本望ではなかった。そもそも賃貸住宅に墓標を立てられるものなのだろうかと考えている自分は既に狂っていることを、男は自覚した。麻友をお願いと言われても、何をどうすれば良いのか分からなかった。娘には娘の人生があり、そもそももう結婚して家を出ていた。
 妻に口は無かった。もっと沢山話をしておけば良かったと思った。ついこの間自分が「ずぶずぶ」になったということを伝えたばかりで、何故妻までもが「ずぶずぶ」になり、たった一日でこんな目に合うのか納得いかなかった。もし本当にこれが夢ではなく現実なのだとしたら、最初から自分の人生など存在しなくても良かったとさえ思った。ベランダに沈んだ妻の上で、あと残り何年になるのかも分からない人生を送るなどということは精神的にも不可能だった。
 「ずぶずぶ」は酷く馬鹿げていた。今まで生きてきた五十年を、こんなことで半強制的に終わらせられるのは不本意だった。それは妻も同じだった筈だ。しかしそれは真実であり、現実だった。理不尽極まりなかった。理不尽の前では、何の理屈も通用しなかった。理不尽のまま身を委ねる他なかった。
 男は来月の妻の誕生日にお願いしていたケーキの予約を取り消さなくちゃ、と思った。そして何故自分が「ずぶずぶ」になったのか、その理由が何となく分かった気がした。(了)

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