【超短編小説】凹み

 駐車場に二台の車が並んでいた。一台は男の車であり、もう一台は隣人のものだった。トヨタのコンパクトカーで、色もグレードも全く同じだった。唯一の違いはホイールだけだった。隣人の車には、オプションのアルミホイールが付いていた。
 隣人は最近引っ越してきたばかりだった。男の車はまだ納車して一か月であり、ガラスもタイヤもぴかぴかだった。隣人の車は、雨に打たれた斑模様の汚れが車体を覆い、せっかくのアルミホイールも煤けていた。交互に見比べていると、自分の新車まで古びて見えた。
 男は何故か馬鹿にされているような気がして、惨めな気持ちになった。世の中には星の数ほどの車があるというのに、どうして隣同士で同じ車種、同じグレード、同じ色の車に乗らなければならないのだろう。
 二台並んでいると、まるで双子のようだった。男は隣人のことを良く知らなかった。それはきっとお互い様だった。チャイルドシートは、男の方は一つ、隣人の車は二つ後部座席にセットされていた。
 休日の朝早く、一度だけ作業着を着て外出する隣人の姿を見たことがあった。ぱっとしない出で立ちで生への精彩を欠いていた。男までそれが伝わってくる程だった。エンジンを始動させてから随分長い間アイドリングをしていた。サイドブレーキを解除する間もなく、タイヤが鳴くほどの急発進でアパートの駐車場から飛び出していった。帰宅するのは夜遅い時間だった。男の部屋から駐車場は良く見えた。部屋に籠っていると、車を出し入れする音が良く聞こえた。
「そんなに気になるかな」と妻は言った。
「気にならない?」と男は聞き返した。
「全然」
 妻は心からそう思っているように答えた。
「よりによって、お隣同士で同じ車ってさ」
「偶然なんだから、しょうがないじゃない」
「確かに売れてる車かもしれないけど、他にもいくらだって車あるじゃない」
「だからそれはたまたまなんだから。お隣さんだって同じこと思ってるかもしれないわよ」
「それはどうか知らないけど、こんな小さいアパートの駐車場に全く同じ車が並ぶってね、何か」
「何か、何よ」
「嫌なもんだね」
「気にし過ぎよ」
 妻は赤ん坊を抱えながら、それ以上男の車話には関心なさそうに言った。
近所の人と全く同じ車に乗ることに何の抵抗感も持たない妻が信じられなかった。全く知らない他人なのに嗜好が一緒というのが、男にとっては理屈ではなく嫌だった。かといって、そんな理由で車を買い替える訳にはいかなかった。ほとんどローンで購入した。何より、妻が許す筈はなかった。
 生活は二人目の予定を考えると、ぎりぎりだった。それこそ、覚悟を決めて買った一台だった。本音を言えば、もう一クラス上の車を買いたかった。しかしそれを妻には言えなかった。妻は今の車で十分満足しており、それ以上の返済は現実的に無理だった。給料が増えない中で、これから二人の子供を養っていくのは厳しいことだった。だからこそ、今回はその車で妥協した。いや、妥協したとは思いたくなかった。妥協は後悔と同じだった。今の車が身の丈なのだ、と男は何度も言い聞かせた。一番最高の選択をし、最高の買い物をしたと思い込ませた。その筈だった。
 駐車場に並ぶ同じ車を眺めていると、複雑な気持ちになった。妻のようには割り切れない何かが残った。あの冴えない男と同じ車に乗っている自分が情けなかった。何故そこまで、と自分でも不思議に思った。妻の言う通り、それは自分ではどうしようもないことであり、たまたま同じだった、と思えばそれでいいというのは至極もっともな話だった。
 けれども男はどうしても妻のようには割り切れなかった。アルミホイールは予算オーバーで付けられなかった。隣のぱっとしない男は、ノーマルタイヤよりもずっと複雑でファッショナブルなアルミホイールのタイヤを履いていた。今は煤けているが汚れを落とせばぎらぎら輝いている筈だった。
 トヨタの売れ筋を選択した時点で、こうなることは予測しておかなければならなかった。男はもう少し大きい車にしたかったが、妻からの猛反対に合い断念した。日常的に乗るのは妻だった。妻の意見は絶対だった。予算の中では、一番経済的で値引きも大きかった。
 路上を走っていても、その車はしょっちゅう目にした。色の違い、グレードの違いはあるにせよ、擦れ違う度に幾度もドライバー同士目が合った。ドライバーの目は、男には常にくたびれて見えた。あるいは何かを諦め、何かに悲観していた。楽しそうに運転している者など誰もいなかった。トヨタの売れ筋に乗っている人間なんて誰だってそうなのだと男は決めつけた。車のサイズ以上に、人は大きくなれないのだ。
「もし今の車を売って、別の車にしたいって言ったら?」と男は聞いた。
「本気で言ってる?」
「冗談だよ」
 妻の目に怒りの兆しを感じた男は、直ぐに取り消した。これ以上車のことで妻を刺激するのはまずかった。ただでさえ妻は育児で苛立っているのだ、男はテレビのチャンネルをニュースに変えた。
「ねえ、これからドラマ見るんだから、勝手に変えないでよ」と妻は男を睨んだ。子供は少しぐずり始めていた。これ以上酒を飲むのはよそう、男は赤ん坊を妻の手から奪い取るように抱えて、いつものようにあやした。
「もっと優しくしてよ。危ないじゃない」
「ごめん。ちょっと夜風に当たってくるよ。気分転換。瑠衣もぐずってるし。ゆっくりテレビ見てて」
「あなたは家計のこと全然分かってない」
「うん、ごめん、もう車のことは言わないよ。ちょっと外行ってくるね」
 男はアパートの階段を下りて、自分の車の隣に立った。赤ん坊は外に出た途端に大人しくなって、男の手の中でぼんやり宙を見つめていた。この小ささで、どこまで視力があるのだろう、と男は思った。東京の空には星は殆ど見えなかった。月もどこにもいなかった。晴れているのか曇っているのかさえ判別できなかった。
 同じ車は相変わらず、双子のように並んでいた。隣人の子供は双子じゃあるまいなと男は思ったが、もし双子だったとしたらどうだというのだろうと突き詰めると、別に大した興味もないくせにとそれ以上詮索するのを止めた。隣人の家庭環境がどうであろうと、男には何の関係もないことだった。隣人の人生がどうなろうと、男の人生に影響を与えることなど考えられないことだった。だからこそ「同じ車に乗っている」というそのただ一つの共通項が、どうしても納得いかなかった。理不尽な苛立ちであることは十分承知していた。気にするな、という妻の意見はもっともだった。いくら気にしたって、どうにもならないことだった。どうしてここまでこだわるのか、自分でも分からなかった。どうにもならないことにこだわり続けることがいかに無駄な労力か理屈では理解できるものの、実際に並んだ車を眺めていると、理屈では理解できないやるせなさを感じるのも事実だった。
 赤ん坊は、知らない間に腕の中で眠りに落ちていた。良くこんなごつごつした骨の中で眠れるものだ、と男は感心した。
 運転席側の扉に、小さな光の歪みがあるのが見えた。街灯に照らされ、視力の悪い男の目にもはっきり見えた。歪みは窪んでいて、色の違う線傷がついていた。指でこすると、その線は少しだけ薄くなったように感じた。
 経験則から、いわゆるドアの開閉時にぶつけられた時に出来る傷だった。男は隣の車の助手席の扉を見た。閉まっているので、その縁の部分は確認出来なかった。可能性ありだな、と思った。しかし調査を進めるには、余りにも暗かった。
 明日にしよう、男はすやすや眠っている我が娘の顔をじっと見つめた。外に出ると直ぐにぐずるのを止めるのは何故なのだろうと思った。ぼんやりした黄色い領域が空に現れたかと思うと、再び周囲の暗黒に同化した。
 一瞬赤ん坊は起きかけたが、再び表情は固定した。ドアの傷は未だに残っていた。もうドラマは始まったのだろうか、男はにっちもさっちもいかない今の状況を全て受け入れた。目を閉じると、アルコールが頭の中をぐるぐる回っているのが分かった。倒れない程度に、男はそのまましばらく目を閉じていた。早く時間なんて過ぎてしまえばいいのにと思った。一時間とは言わず、一年でも十年でも。しかし一分でさえも目を閉じてじっと待つ忍耐力はなかった。仕方なく自宅に戻ることにした。
「瑠衣、寝た?」
 妻はテレビ画面に目を向けながら、男を見ずに言った。「うん」と男は答えた。「そのまま寝かしちゃってくれる?」
「うん。それよりさ」
 妻の反応はなかった。今はそれどころではないという感じだった。男は話を止め、すっかり寝入っている赤ん坊を寝室の布団に横たえた。男もそのままごろんと自分の布団に横になって目を閉じた。
 凹んだドアの触感が指先に残っていた。現行犯じゃないとしたら、どうやって証明すれば良いのだろう、男はほぼ百%、隣人を怪しんだ。少なくとも昨日の昼間まではなかった筈だ。それは自分で運転していたので分かっていた。その後は男も妻も車を使っていなかった。
明日、もう一度確認しよう。
 これ以上考えても仕方なかった。今日は十分疲れていた。居間のテレビの音量がかすかに漏れていた。しかしそれは男が寝入るのを妨害するほどのものではなかった。
 
 次の日、目が覚めると、男は髪も整えず部屋着のまま駐車場に向かった。朝の六時、既に日は昇り、世界は明るさを取り戻していた。夜中に何度も目が覚めた。一度目覚めたら中々眠れなかった。知らぬ間に再び眠り込み、解除し忘れのスマホのアラームで平日通り起こされた。妻子は抱き合うように眠っていた。気になることは一刻も早く片付け、記憶から消し去りたかった。
 太陽の光の元で、ドアの傷は一層目立っていた。昨夜見た感じよりずっと深く、きっちりとした傷だった。無視して乗るには、相当腹を括る必要があった。修理にはどの程度の費用がかかるのか見当もつかなかった。
 隣人の車のドアを確認した。ドアの縁に沿って注視したが、証拠と断定しうるものは発見できなかった。しかし今の駐車位置からして、円弧を描きながらドアを開いた先に傷があるのは明らかだと思った。隣人にぶつけられたと考えるのが時系列的、論理的に考えてやはり間違いないと思った。男はスマホで自分の車の写真を取った。それから念の為、隣の車の写真も撮っておいた。
 家に戻ると、妻は起きていた。トイレから出て来て、手を洗っていた。
「どうしたの、こんな早く」
妻は半分眠っているように言った。
「車のドア、ぶつけられたみたいなんだ」と男は率直に言った。
「ドア? どこの?」
「運転席。多分、隣の車だね」
「どんな傷なの? そんな酷いの?」
「結構、目立つと思う」
 妻はただならぬ気配を察し、急いでタオルで手を拭いた。
「隣の車って、証拠あるの?」
「証拠なんてないよ。ないけど、それしかないよ」
「それしかないなんて決めつけられないじゃない」
「いや、絶対に隣だよ。ちょうど助手席のドア開ければ、その辺りなんだ」
「決めつけは良くないわ」
「だって、昨日俺が乗ってから、その後乗ってないよね?」
「乗ってない」
「昨日乗るときにはなかったからさ」
「そんなこと言い切れる? もっと前からあったかもしれないじゃない」
「いやなかったよ絶対。あんな傷あれば誰だって気が付くよ」
「じゃあさ、もし隣の人だとして、どうするのよ」
「話をするよ」
「話って、ぶつけましたかって聞くの?」
「もちろん」
「証拠もないのに?」
「いや、聞くだけだよ」
「ぶつけてないって言われたらどうするのよ」
 相変わらず妻はくどいな、と男は思った。そして最後の妻の質問に、男はどう回答しようか迷っていた。確かにそう言われたらどうしようもなかった。証拠はないのだから、相手が否認した段階でそれ以上進展が期待出来ないことはその通りだった。しかしだからといってこのまま泣き寝入りするのは納得出来なかった。ドライブレコーダーを付けておけば良かったと一瞬後悔したが、エンジンが停止している時は映像は撮れないことに気が付ついた。
「それでも、聞くだけ聞いてみるよ」
「止めてよ。証拠もないのに。変な言いがかりつけて、相手怒らせちゃったらどうするのよ。お隣さんなのよ? 私はずっと家にいるの。あなたは会社行くからいいけど、顔を合わせるのは私なのよ」
「会ったことある? 隣の人」
「ううん、ないけど、だから嫌じゃない何か」
 男は隣の家のインターホンを鳴らして、玄関が開く瞬間を想像した。作業着を着た顔のない男が「はい、何か」と低い声で返した。自宅にいるのに作業着はおかしいか、男の妄想は間もなく途切れた。顔がないのも奇妙だった。
 全く妻の言う通りだった。ただの言いがかりかもしれず、ひょっとしたら、もっと以前から傷は付いていたのかもしれなかった。週末には必ず車は乗っていた。ロードサイドのファーストフードや赤ちゃん用品の量販店は常連だった。休日のほとんど全てを赤ん坊の為に費やした。男は妻のように、愉しみにしているドラマなどなかった。運動もしないし趣味もなかった。妻は平日の育児で中々出来ないことを週末男に頼んだ。男は妻の言う事を何でも聞いた。赤ん坊がまだ小さいうちは仕方ないと割り切った。人使いが荒いと思う時もあったが、日々赤ん坊に振り回されている妻を見ていると、それはそれで気の毒だった。授乳だけは変わることは出来なかった。お互い我慢しているのだ、そしてその我慢は未来永劫続く訳じゃないのだ、男は何度となく言い聞かせた。
 しかしそれと車のドアの傷は別だった。納得がいかなかった。妻はどう思おうが、男の中ではやはり聞くだけ聞くべきだ、という結論に達した。いつその機会を設けるかということを考えた。
「ごめん、もう少し寝てもいい?」と妻は疲れたように言った。
「もちろん、今日は何もないんだから休んで」
「姫が寝てる間だけ」
 妻は寝室に向かった。妻も参っている感じだった。ドラマを見るくらいの楽しみがあってもいいじゃないかと男は思った。
 男の目は最高に冴えていた。色々な考え事や妻と話をしたせいだった。もう寝るつもりはなかった。隣人にどのタイミングで言うか一人で作戦を立てることにした。
 朝刊の一面には、来週の選挙の各党の政策が一覧で乗っていた。「子育て支援」の欄を一通り追ったが、これといって目を引く施策はなかった。経済支援といっても、おむつを二回くらい買えば終わってしまう程度のものだった。これじゃ子供なんて増えないよな、と男は思った。
 リアシートに並んだチャイルドシートの絵が浮かんだ。双子というのは単純に今の赤ん坊の世話が倍になるということなのだろうか、あるいはもっと複雑で手間のかかることがあるのだろうか、男にとって、二人目というのは現状では到底考えられなかった。この労力が倍必要になるなど想像を絶していた。妻は今精一杯なのだろうかと思った。そうであって欲しいとさえ思った。

 その時はふいに訪れた。男はいつものように、妻がドラマを見ている間赤ん坊を駐車場であやしていた。妻がドラマを見ている時に姫がぐずったら外、という行動様式は二人の中でかなり定着していた。
 一台の車が、男の車の隣にバックから停車した。男の車と全く同じだった。街灯と月明りのせいで、汚れている車でも輝いて見えた。いや、洗車をしたのかもしれなかったが。
 運転席から降りてきた作業着の男は、後部座席から子供を一人だけ下ろして、自動車をロックした。
 まるで誰も存在しないかのように、作業着の男は振舞っているように見えた。男の存在には間違いなく気付いている筈だった。
「今晩は」
 ボンネット越しに、家に戻ろうとする作業着を男は呼び止めた。
「ああ、今晩は」
 作業着は足を止めて、今初めて男に気付いたように答えた。抱いていた子供は地上に下ろし、手を繋いた。もう随分大きい子供だった。親指を加えながら、じっと男を見ていた。作業着の男の顔をちゃんと見たのは初めてだった。顔つきは、男よりずっと貧相だった。汚れたつなぎのタフな印象からは程遠かった。
 男は「今晩は」に続く言葉を模索していた。話し掛けた以上、何かを言わなければならなかったが、いきなり本題に入るのもどうかと躊躇していた。冷静に相手に話を聞いてもらう為には、もう一つ二つ、言葉を繋ぐ必要があった。
「いつも外で、お子さんあやされてますよね」と先に作業着が言った。
「ええ、まあ」
「この子も寝つきが悪くて、ついこないだまで私もそうやって外であやしてましたよ」
 男から話そうと思っていたので、想定外の展開に少し面食らった。
「おいくつですか? お子さん」と男は聞いた。
「三歳になりました」
 どうでもいい質問だな、と男は思った。子供には全く興味なかった。三歳になってもなお指しゃぶりは止められないんだ、と思った。
「もう一人いましてね、そっちはここで二歳になりました。うち、お互い連れ子なんですよ」
 連れ子。男は連れ子という言葉の意味について考え、そして作業着の妻の顔、次に二歳くらいの男の子の顔を思い浮かべたが、イメージが全く湧かなかった。隣人のプライベートに興味はなかった。
「ここは良いところですよね。公園多いし、静かだし。何しろ住んでいる人の質が高い。品がいい。そういうところを探していたんです。子供は良い環境に置かないと駄目ですから」
 作業着は饒舌だった。やけに嬉しそうに見えた。いつ本題を切り出すか、男は様子を窺っていた。少なくとも、会話が弾んでしまっては言い辛くなってしまう。別に会話をしたくて挨拶したと思われたくなかった。
「すいません、ちょっといいですか?」
 男は作業着の言葉を遮るように、一番の懸案事項を切り出した。
「ちょっと、見ていただいてもいいですか?」
「はい?」
 回り込む作業着に、男はドアの凹んだ部分を注目するよう訴えた。
「ドアをぶつけられたような跡がありましてね」
「ああ、ドアパンチですね」
 しゃがんで傷を確認しながら作業着は言った。そんな言葉があることを、男は知らなかった。
「ドアパンチ」と男は繰り返した。
「ええ。お気の毒ですね、せっかくの新車なのに。早めに板金修理出した方がいいですよ。ちなみに、うちなら三万円でやりますよ。多分、この辺のエリアでは一番安いです。私、自動車修理工場で働いているんです」
 なるほど、と男は思った。いつ見ても作業着であることの合点がいった。しかし、作業着は自分がぶつけたことについては一切触れなかった。
「ああ、そうなんですか。いや、つい最近気が付いて。どこでやられたのかはちょっと」
「もしかして」と作業着は男を見上げて言った。「私を疑ってます?」
「いや、そうじゃないのですが、一応確認と思いまして」
「私の車じゃありえませんね。ちょっといいですか?」
 作業着は助手席のドアをゆっくり開けた。ドアの縁を男の車の扉にゆっくり近付け、最後は自分の手でカバーしながら、男の車の運転席に軽く触れた。
「ほらね。車止めまで下げてますよね。その状態で開けるとこの位置になります。傷からは大分離れてます」
 作業着は疑われていることに対して、別に怒っている雰囲気ではなかった。ただ淡々と、専門業者の口ぶりで男に説明した。
「いや、疑っているわけではなくて」
「別に構いませんよ。ドアパンチは普段止めてる駐車場が一番確率高いですから」
 作業着が話をしている間、その子供はずっと側で大人しく男の顔を見つめていた。指は相変わらずしゃぶったままだった。指しゃぶりをしている子供は泣いたり騒いだりしない分楽でいい、と男は思った。
 作業着の説明に男も納得せずにはいられなかったが、何か釈然としないものが残った。では他に誰がというより、作業着の車がその位置にぶつける可能性はないものかと考えた。どうしても作業着を犯人にしたかった。それが一番すっきりする解決方法だった。
「もしよければ、うちでやりますよ。本庄と言います。お隣同士ですからね、安くしますから。初沢町に工場があります」
 作業着はポケットから名刺を出して男に渡した。名刺は角が折れ曲がり、鮮度が悪かった。もう何年も、名刺入れに入っているような名刺だった。男は素直に受け取った。三万円という修理費が安いのかどうか、相場が分からなかった。
「ありがとうございます。またその節は改めてご連絡します」
「ええ、是非。遠慮なく。お隣同士、同じ車のよしみです」
 そう言って、作業着はにやりと笑った。男は笑いで返すことは出来ず、ただ少し頷くだけだった。
 みすぼらしい、と男は思った。もやもやしたわだかまりの原因は、作業着とその子供の容姿と雰囲気が、致命的なまでに未来への夢と希望を欠いているせいだった。どこまで行っても、この親子は幸福になれない、と思った。何がどうだからという合理的根拠はなく直感ともいうべきものだった。いずれにしても、隣の男に貸しを作るのだけは嫌だった。
 腕の赤ん坊の重みが、少しずつ効いてきていた。何度が起きそうになりながらも、寸前で堪えていた。作業着の男は、男の腕の中の赤ん坊に全く触れようとしなかった。不自然であり、意図的に思えた。そろそろうちに帰りたかった。
「戻りますね」と男は言った。
「連絡してくださいね、本当遠慮しないで。これからもよろしくお願いします。失礼ですが、お名前は」
「金子です」
「金子さん、よろしくお願いします。奥様にもよろしくお伝えください」
 男は会釈をして、先にアパートの階段を昇った。奥様によろしく、という最後の一言がどこか気に入らなかった。何故妻に宜しく伝えなければならないのか、社交辞令にさえなっていない気がした。
 作業着は男に会釈をすると、車のトランクを開けて荷物を取り出し始めた。指しゃぶりの子供はずっと男の方を見ていた。これ以上、隣人とは関わりたくなかった。彼らの人生のひと時をわずかでも共有するのは御免だった。ドアの凹みは諦めるしかなさそうだな、と男は観念した。大手の自動車用品店にでも行って相談してみようと思った。
 隣人と同じ車であることを、もっと言うと、向こうの方がアルミホイール付きの豪華仕様になっていることが益々嫌だった。出来ることなら、他の車に交換したいくらいだった。しかしそれは無理な相談だった。まだローンは始まったばかりだった。納車一か月だった。ドアパンチを修理して、今の車を当分乗り続けなければならなかった。隣人がやった可能性はもはや確信となっていた。相手は自動車修理工なのだ。
 男は赤ん坊を寝室に横たえた後、ドラマが一段落するのを待って、妻に今宵の隣人とのやりとりを仔細に伝えた。
「結局、分からないってことね。ぶつけた人がぶつけましたなんて言う筈ないもんね」
木で鼻を括るように妻は言った。
「何かぱっとしない親子だった」
「うちもそう思われてるかもしれないわよ」
「別に構いやしないよ」
 エンジンを掛ける音が外から聞こえた。そのままアイドリングを保っているようだった。同時に子供の喚き声のようなものも。その後、疾走するバイクのマフラー音、遠くで消防車のサイレン。窓を開けていると、様々な社会の音が聞こえてくる。
「でもね」と妻は言った。
「この間、奥様と擦れ違ったの。挨拶したんだけど、かえってこなかった。聞こえてなかったのかも知れないけど」
「どんな感じの人だった?」
「背が小さくて化粧っけもなくて、何か神経質そうな感じの人だった。お子さん二人いるから大変なのね、うちと違って」
 生活は確かに大変だろうなと、男は思った。作業着の妻は働いているのだろうか。同じ場所に住んでいるので、どの程度の生活費が必要かは分かっていた。そして同じ車。子供二人。自動車修理工の給料。奥さんも相当働かないと厳しい筈だった。
「その大変な家庭の人達と、同じ車なんだよね」
「またその話」と妻はうんざりした顔をした。
「ところで修理はどうするの? ディーラーに持っていくの?」
「いや、ディーラーは高いから他の修理屋探すよ」
「隣の人にお願いするの?」
「死んでも嫌だね」
「そんな言い方止めてよ」
「だって、そりゃやだよ。もしかしたらぶつけられたかもしれない板金屋なんて。相手の思うツボだよ」
「ねえ、お隣さんなのよ? そういうひねくれた考え方、本当止めた方がいい」
「ちょっと言い過ぎた」
 全く言い過ぎではなかった。正直に話したまでだった。外の車は発進したようだった。アイドリングがなくなると、外界は途端に静かになった。そろそろ十一時になる頃だった。夜は大分冷たい風が流れる季節になっていた。
 窓を閉める時、駐車場を覗いた。隣人の車はなかった。ドアパンチをもらった男の車だけ停まっていた。もうそのまま事故でも何でもして廃車になればいいのにと思った自分に、そこまで隣人を憎んでいることに、正直自身でも驚いた。でもそれはきっと本心だった。
 自動車修理工のぱっとしない家族と同等の生活をしている自分が情けなかった。さえないノーマルタイヤを履き、ドアに傷のある新車に乗っている自分が悔しかった。人の車を傷つけておいて、素知らぬ顔で商売をしようとする姑息な人間性が憎かった。
 頭の中で、さっきの作業着の声がこだましていた。作業着の子供がじっと男を見つめてた。だらしない口で親指をしゃぶりながら。二度と隣人とは関わりたくなかった。そもそも引っ越し祝いも持ってこないような隣人など、隣人ではなかった。

 隣人が引っ越したことを知ったのは、それから間もなくのことだった。
「今日、午前中引っ越し屋さんが来てた」と妻は言った。
「そうなんだ」と男は言った。同じ車が二つ駐車場に並ぶ景色を眺めながら出勤し帰宅することは、もう金輪際なくなるのだと思うと喜ばしかった。
「ドアノブに転居のお礼が引っ掛かってた」
「ドアノブ? いなかったの?」
「今日はずっと家にいたわ」
「インターホン鳴らなかった?」
「分からない。私が気が付かなかったのかもしれないわね」
「お礼って?」
「タオル」
「ふうん」
 最後の最後までつまらない家族だったな、と男は思った。これで永久的にドアパンチについては藪の中になったということだ。
「こんなに早く引っ越しなんて。何かあったのかしら」
 隣の家族がどうなろうと知ったことではなかった。男は言葉を飲み込んだ。隣の家族について語ることも詮索することも時間の無駄だった。
男は缶ビールをもう一本空けた。
「飲み過ぎ」と妻は言った。
「お祝いだよ」と男は言った。
「何の?」
「俺たちの未来に」
「何言ってんの」
 赤ん坊がぐずり始めたのをしおに、妻はダイニングの椅子を引いた。
「もう車のことでいらいらすることないから良かったじゃない」
 妻は含みをもたせるような言い方で男に言った。
「別に気にしてないよ」
「あなたって本当に嘘つきね」
 妻は赤ん坊を抱きかかえると、小刻みに膝を揺すった。男は缶ビールをグラスに空けて半分を一息に空けた。ビールはいくら飲んでも美味かったが、今日のビールは格別に美味かった。隣に同じ車がいなくなったことが最大の喜びかもしれなかった。修理代がなければもっと良かったが。
「ちょっと車行ってくるよ」
「どうしたの?」
「ミンティア忘れた」
 男は自分の車を改めて眺めた。いつも双子のように停まっていた車の姿はもうなかった。正面から眺め、側面から眺め、後ろから眺めた。もちろん、傷は未だそこに残されていた。今週末にはいかないとな、男はスマホのロックを解除して一番近くの自動車修理店を探すと、作業着を着た隣人の店が三番目くらいに出てきた。男はスマホを閉じた。別に今じゃなくてもいいじゃないか。
 自宅から、赤ん坊が大泣きする声が聞こえた。妻があやしているのに珍しいなと男は思った。男は傷を指で撫でた。前より大きくなっている気がした。大きくなっている、というのは凹みの深さがより深くなっているということだった。
「ん?」
 男はもう一つ、見慣れない変化を見つけた。ドアパンチの傷の直ぐ下から、波を描くような引っかき傷が、ドアの後ろに向かって流れていた。何か金属のようなもので引っ掻いたような感じだった。指を擦ってみたが、全く効果はなかった。
 頭と顔が急に熱くなり、寒さで震える時のような異常な力みが腹に籠った。
と同時に、車に対する愛着がみるみる失われていくのを感じた。もう二度と運転したくないと思った。車を見るのも嫌だった。
 その車は、納車されてからまだ数か月も経っていない、男とその家族が乗るトヨタの売れ筋の車だった。(了)

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