『青虫』

 妻の悲鳴が聞こえた時、私は浴槽を磨いていた。このところの残業続きで、体は酷く疲弊していた。しかし、今日はまだそんな泣き言を言っていられる状況ではなかった。これから一人息子の三度目の誕生日を、粛々と履行しなければならなかった。
「どうしたの?」
 濡れた足をバスマットにこすりつけ、私は台所に立ち尽くす妻の肩越しに声を掛けた。
「ひどい」
 流しには、大きなレタスの葉が何枚もむきっ放しの状態で散らばっていた。
「これ、見て」
 汚物にでも触れるように、妻はその中から一枚の葉を手に取り、私の目の前に置いた。そこには、糸くず程の小さな青虫が二匹、重なり合うように蠢いていた。うっかりしていたら見逃してしまうほど、青虫はレタスの色と葉脈に同化していた。
「気持ち悪い」
 ただでさえ色白の妻の顔色は、一層白味を増していた。青虫なんて見るのは久しぶりだった。思い出したように時々ぐいと頭を持ち上げるその様子は、小さくて細いが故に尚更不気味だった。
「これだけじゃないのよ」と言って、妻はまた別の葉を裏返した。
 黒いぶつぶつした塊が、繊維に沿って帯状に並んでいた。よく見ると、内側ではなく葉の外側に付着していた。妻はそれを「青虫の糞ではないか」と私に言った。また他の葉には、たくさんのアブラムシも付いていた。
「酷過ぎる。もうがっかり」
 妻は出しっぱなしの水を止めて肩を震わせた。私は妻を宥めるべき言葉を探したが、咄嗟には思い付けなかった。
 外見では分からないのだから仕方がない。農家だっていちいちむいて調べる訳にもいかない。時にはこういうことだってある。直ぐに取替えてもらおう。しかしそのどれも妻の失望を回復させるには弱い気がした。今日はいつもの夕食とは違う。息子の誕生日なのだ。しかし今の疲れた私の頭にはその程度の言葉を思い浮かべるのがやっとだった。
「有機野菜だっていうから、たまにはどうかと思ったの」と妻は言った。
「どこで買ったの?」
「八百屋のイシイ、商店街の。やっぱり普段買わない所で買うもんじゃないわね。スーパーの帰り道に買い忘れに気が付いて、引き返すの面倒だったから」
 レタスはシーザーサラダに使う筈のものだった。私はもう一度、その青虫の巣食う葉を眺めた。その形は、昔小学校から持って帰ってきた「蚕」を思い出させた。小さな体のくせに、桑の葉をがつがつ片っ端から平らげてゆくその様子は何とも奇怪だった。更に解せなかったのは、その蚕はいつまでも蚕ではなく、いずれ蛾となって空を飛んでいくという生態だった。
 このレタスの二匹の青虫も、やがて蛹になり蝶となり、この国のどこかに羽を広げて飛ぶ筈だったに違いない。今日の今日までは。
「有機は虫がつくって聞くよ。薬を使ってない何よりの証明だし、それだけ美味しいって事じゃない?」
 思いつきの慰めとしては上等だった。妻を否定する訳でもなく、咎める訳でもなく。
「格好つけた事言わないでよ。こんな虫だらけのレタス、あなた食べられる? 子供の口になんて入れさせられる?」
「それは」
 妻は苛立っていた。楽しいイベントや祝い事のある日の妻は、大抵ぴりぴりしていた。祝い事だからといって肩肘張らず気楽にすればいいのにと私は思うが、妻の考えは違った。一生に一度のイベントだからこそ失敗や手抜かりは許されなかった。大好きな最愛の息子の祝い事であれば尚のこと、妻だけが変に気負い過ぎて空回りをする。
 時には理不尽な八つ当たりを私に向けることさえあった。それが私には理解出来なかった。理解できないが故に激しい口論に発展することもしばしばあった。
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