超短編小説

気の毒な老人

老夫婦
『気の毒な老人』

 朝起きると、老人の右脚は腐っていた。
 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。いつかそういう日が来ることは分かっていた。しかし心の準備が出来ていないうちに突然そうなってみると、それはそれで悲しく辛いことだった。老人は妻に、今朝方右脚が腐っている事実を告げると、それから一昼夜泣き続けた。妻も老人の傍らに寄り添いながら、一緒に泣いた。泣き続けている間にも、甲から足首、ふくらはぎへと壊死の範囲は拡大していった。
 至急切断しないと全てが腐りますよ、と医者は言った。老人は仕方なく同意した。手術は簡単に終わった。切り落とした右脚はどうしましょうか、と医者は聞いた。これまでお世話になったので、火葬したいと老人は答えた。それから一週間後、老人は右脚を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前のお蔭で、私は自由にどこにでも歩いていくことができたし、車を運転することもできたし、中学校のスポーツ大会のサッカーで決勝ゴールを決めることができた。左脚と一緒に、この重い頭と胴体を支え、妻をお姫様抱っこすることさえできたのに。そんなことももう出来なくなってしまった。何と愛しい我が右脚よ」と老人は松葉杖にもたれかかり、右脚の遺影に向かって泣きながら手を合わせた。
「本当に。感謝しなくちゃねえ」と妻は言った。「失ってみないと、本当のありがたみって分からないからねえ」
 老人、そして妻の順に焼香を済ませると、この七十年間の気持ちを込めて、右脚の遺影に向かって、最後の別れの頭を垂れた。

 しばらくして、今度は左脚が腐っていた。
 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。右脚がそうだったように、いつかそういう日が来ることは分かっていた。しかし心の準備が出来ていないうちに突然そうなってみると、それはそれで悲しく辛いことだった。まだ右脚の四九日も済んでいないのに。老人は妻に、今朝方左脚が腐っている事実を告げると、それから一昼夜泣き続けた。妻も老人の傍らに寄り添いながら、一緒に泣いた。泣き続けている間にも、甲から足首、ふくらはぎへと壊死の範囲は拡大していった。
 至急切断しないと全てが腐りますよ、と医者は言った。老人は仕方なく同意した。一度経験を積んでいるので、手術に対する恐怖心はなかった。手術は簡単に終わった。切り落とした左脚はどうしましょうか、と医者は聞いた。これまでお世話になったので、火葬したいと老人は答えた。それから一週間後、老人は左脚を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前のお蔭で、私は今まで自由に歩くことができたし、タップを踏むこともできたし、フィンをつけて海底深くまで潜ることができた。今は亡き右脚と一緒に、この重い頭と胴体を支え、妻をお姫様抱っこすることさえできたのに。そんなことももう出来なくなってしまった。何と愛しい我が左脚よ」と老人は妻に抱きかかえられながら、左脚の遺影に向かって泣きながら手を合わせた。
「本当に。感謝しなくちゃねえ」と妻は言った。「失ってみないと、本当のありがたみって分からないからねえ」
 老人、そして妻の順に焼香を済ませると、この七十年間の気持ちを込めて、左脚の遺影に向かって、最後の別れの頭を垂れた。

 案の定、今度は両腕が腐っていた。
 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。次はきっと手指だろうなと、いつかそういう日が来ることは分かっていた。心の準備が出来ているとはいえ突然そうなってみると、それはそれで悲しく辛いことだった。老人は妻に、今朝方両腕が腐っている事実を告げると、それから一昼夜泣き続けた。妻も老人の傍らに寄り添いながら、一緒に泣いた。泣き続けている間にも、指先から手首、二の腕まで壊死の範囲は拡大していった。
 至急切断しないと全てが腐りますよ、と医者は言った。老人は仕方なく同意した。手術は簡単に終わった。切り落とした両腕はどうしましょうか、と医者は聞いた。これまでお世話になったので、火葬したいと老人は答えた。それから一週間後、老人は両腕を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前たちのお蔭で、私はプラモデルを作ることもできたしゲームをすることもできた。キーボードを叩き、ギターを弾くこともできた。様々な食べ物を食べることができたし、動植物を愛でることもできた。これからは妻の体に触れることも、自分自身の体に触れることさえもう出来なくなってしまった。何と愛しい我が両腕よ」と老人は車椅子の上で、両腕の遺影に向かって泣きながら瞳を閉じた。
「本当に。感謝しなくちゃねえ」と妻は言った。「失ってみないと、本当のありがたみって分からないからねえ」
 老人の替わりに妻が、そして妻の順に焼香を済ませると、この七十年間の気持ちを込めて、両腕の遺影に向かって、最後の別れの頭を垂れた。

 遂に、胴体が腐った。
 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。まさかそういう日が来るとは思わず、心の準備も出来ていなかったので突然そうなってみると、それはそれでより一層悲しく辛いことだった。老人は妻に、今朝方胴体が腐っている事実を告げると、それから一昼夜泣き続けた。妻も老人の傍らに寄り添いながら、一緒に泣いた。泣き続けている間にも、腰から上に向かって、そして首から下に向かって、壊死の範囲は胴体全体に広がっていった。
 至急切断しないと全てが腐りますよ、と医者は言った。老人は仕方なく同意した。手術は案外簡単に終わった。切り落とした胴体はどうしましょうか、と医者は聞いた。これまでお世話になったので、火葬したいと老人は答えた。それから一週間後、老人は胴体を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前のお蔭で、私は今まで実に様々な食べ物や美味い酒を消化し、吸収し、排泄し、血肉を蓄えることができた。脳からの命令と手足を繋ぐ結節点として、四肢を自由に動かすことができたし、汚れた煙草や外気を濾過し、体の隅々まで浄化された血液を送り、身体を健全に保つことができた。これからは妻に身体を合わせることも、愛撫されることももう出来なくなってしまった。何と愛しい我が胴体よ」と老人は小さな車椅子に頭を乗せ、胴体の遺影に向かって泣きながら瞳を閉じた。
「本当に。感謝しなくちゃねえ」と妻は言った。「失ってみないと、本当のありがたみって分からないからねえ」
 老人の替わりに妻が、そして妻の順に焼香を済ませると、この七十年間の気持ちを込めて、胴体の遺影に向かって、最後の別れの黙祷をした。

 妻が腐っていた。
 誰が見ても、もう使い物にならないのは一目瞭然だった。まさかそういう日が来るとは思わず、心の準備も出来ていなかったので、突然そうなってみると、それはそれでより一層悲しく辛いことだった。老人は妻に、自身が腐っている事実を告げても、妻からは何の応答もなかった。それから一週間、老人は泣き続けた。妻の傍らに寄り添えるのは、もう老人しかいなかった。
 亡くなっています、残念ながら、と医者は言った。老人はその事実を受け入れざるを得なかった。従って、手術の必要はなかった。遺体をどうしましょうか、と医者は聞いた。これまでお世話になったので、火葬したいと老人は答えた。それから一週間後、老人は妻を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前のお蔭で、私は二人分の幸せを生きることができた。楽しいことも、悲しいことも、共に分かち合い、共有することができた。愛について語り、愛を確かめ合うこともできた。生活環境を清潔に保ち、食生活をはじめとする健康維持に気を配り、適度に煩悩、本能を抑制された。今の自分が七十まで生きてこられたのも、全てお前が私に尽くしてくれたからこそ。何と愛しい我が妻よ」と老人は葬儀場のスタッフに車椅子を押され、晩年の妻の遺影に向かって泣きながら瞳を閉じた。
「本当に。感謝しなくちゃねえ」と老人は言った。「失ってみたらなお一層、ありがたみが身に沁みる」
 老人に代わって葬儀場のスタッフが焼香を済ませると、この四十年間の気持ちを込めて、妻の遺影に向かって、最後の別れの黙祷をした。

さて、と老人は言った。
 身の回りのことをしてくれる妻も、頭以外全ての肉体を失った今、最早生きる喜びも理由もなかった。視力が落ち、物音が聞きとりにくく、口も思うように開かなくなっていた。記憶も途切れ途切れになり、物事を考えるのに酷く時間がかかるようになっていた。いよいよ頭も腐ってきているのだ。既に涙腺が腐っているせいか、もう涙さえ出なかった。
 手術の施しようがない、と医者は言った。老人は仕方なく、その事実を受け止めた。生前葬がしたいと老人は医者に伝えた。それから一週間後、老人は自身を供養する為に、葬式を上げる手筈を調えた。
「お前として生まれたお蔭で、私は沢山嫌な目に合ったし、沢山苦労をしてきた。人に騙され、馬鹿にされ、働けど働けど、大した地位も財産も築くことはできなかった。仕舞いにはご覧の通り、妻には先立たれ、身体が順番に腐っていく無様な最期を遂げることとなった。けれど、後悔はしていない。ささやかで、取るに足らないちっぽけな幸せでも沢山感じることができたし、人生の半分を共に生きる相棒とも出会う事が出来た。やり遂げられなかった幾多の事はあるが、やり遂げられた事も沢山あった。我が人生に悔いなし。今まで、私を私たらしめてくれた私よ、ありがとう。最後まで私でいられた事に感謝。何と愛しい我が人生」と老人は小さな車椅子に頭を乗せ、自分自身の遺影に向かって瞳を閉じた。
「本当に。感謝しなくちゃですねえ」と葬儀場のスタッフは言った。「失ってみないと、本当のありがたみって分からないですからねえ」
 老人の替わりに葬儀場のスタッフが焼香を済ませると、この七十年間の気持ちを込めて、自身の遺影に向かって最後の別れの黙祷をしたたま、老人は息を引き取った。
「ご臨終です」と医者は老人の最期を確認し、腕時計を見た。

「それにしても、気の毒な人でしたね」
 それ以上動かなくなった老人の頭部を棺桶に仕舞いながら、葬儀場のスタッフは独りごちた。
「そうかなあ。そんなに気の毒だったかなあ」
 自分の肉体や妻に感謝しながら死ねたのだから、焼香しながら医者は呟いた。
 遺言の通り、老人の葬儀は、葬儀場のスタッフと医者の二人だけで、わずか五分のうちに滞りなく執り行われた。(了) 


2016-07-30 | 超短編小説No Comments » 
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