「活字への集中力」と「短編小説」

高橋熱です。
寝苦しい夜が和らぎ、秋の気配を感じるようになりましたね。

秋と言えば「夜長に読書」は定例句ですが、自身、このところ全くと言っていい程「読書していない」というか、「出来ない」というか、「読書」という行為が、年を経る毎にとても苦手になっているのを実感します。

■「活字」に対する「集中力」

40歳を過ぎた辺りから、どうも活字に対する免疫力が急激に低下しているような気がします。具体的に言うと、長文を読みこなすことが酷く億劫になっている、というか、集中力や気力がついていけない、というか。

あらゆるジャンルの本を乱読しまくっていた学生時代~20代までとは、明らかに読解力も持続力もなくなっているのに気付きます。言葉が頭の中に定着していかない。読んでいても上滑りで、丁寧に読んでいる筈が、書かれている言葉がしっくり理解できない。すとんと腑に落ちてこない。挙句には、1ページももたず、たちまちうとうと睡魔に襲われてきたりと。

これはどういうことなんでしょうね。年代の近い方と話をしていると、時々そういう方に出会います。
推測ですが、この辺りの世代(30代半ば~40代)というのは、一般的に、仕事や組織の中では中堅からリーダークラスになり、部下を何人か持ち、更に上の上司との間で板挟みになっているような世代、あるいは、責任ある仕事やプロジェクトを任されたりと、それなりに企業では精神的負担と責任を求められる年代。

また、家に帰れば子供がいて、学校の問題やら受験やらで頭を痛め、家事をこなしたり、弁当を作ったり、はたまたお互いの親類縁者との付き合いや両親の介護の問題もあったり。友達付き合いももちろんあるし、町会や地域に参画したりと、とにかく「働き盛りの世代」ということで、世間や社会から「求められること」「役割」「義務」が沢山あって、目まぐるしく日々に追われている、というイメージがあります。

もちろん、ライフスタイルは人それぞれですが、とにかく、何だか分からないけれど、日々考えることが(考えなくてはならないことが)山ほどあり、あれほど大好きで夢中になれた「読書」を愉しむ時間もゆとりもない、というのが実態なのではないでしょうか。

「読解力」や「集中力」を持続させるためには、そうした心の雑念を取り去って(一時的にでもシャットアウトして)、「本」や「物語」の世界に集中して「埋没」できる心の環境整備が重要である気がします。読書する側の環境整備。これは物理的な読書環境も心的な環境も含めて。

子供の弁当のおかずをどうするかとか、週末嫌な姑に呼ばれて実家に行かなくてはならない懸念とか、使えない部下のモチベーションをいかにして上げていくか、なんていう「気掛かり」を抱えながらでは、中々読書に集中なんてできませんよね。そんなことを「考えながら」文字を眺めていても、新聞の大見出しを追うことで精一杯です。

「読書」の特徴

読書には、「言葉を読解する」という脳内での変換作業が必要となります。絵画や音楽は、五感で「感じる」ことができます。流れて来る音を無意識に心地良く聴くことができます。絵は見ただけで、快不快を感じることができます。

ところが、読書となると、「さあ、読むぞ」と脳味噌を「読書モード」に切り替えて、言葉の変換作業に備えなくてはならない、という環境整備がどうしても必要になります。「漫画」というジャンルは、もちろん「言葉」も同時進行していますが、どちらかというとビジュアルでストーリーを追うことができます。絵を見ているだけでも、充分コンテンツとして、感覚的に頭に入ってきます。しかし、「論文」や「小説」ともなると、そう簡単にはいきません。

なぜ「短編小説」なのか

僕の書く小説の内容の大半は、「家族」や「夫婦関係」を扱ったものです。登場人物も、おおよそ僕と同世代をイメージしています。つまり、そうした読書に集中できない、多忙な環境に置かれた同世代の方々に「自分の小説を読んでもらいたいな」と思った時に、どんな小説を書いていったらいいのか、ということをあくまでも「読み手の目線」で考えてみた時、行き着いた結果が「短編小説」というスタイルでした。

最近では、極めて短い「ポケットノベル」(勝手に命名していますが)という「1,500字完結の小説」を書き進めています。これだと話はあっという間に終わります。一般的なスマホや携帯だと、3スクロール程度、2分もあれば十分の読み切りサイズです。

「そんなもの小説と呼べるか」という議論はあるかと思いますが、しかし少なくとも、そうした多忙な同世代の方に何か「印象に残る文章を残したい」と思うと、コーヒー一杯飲んで一息つく間にスマホで簡単に読めるもの、集中力や読解力がそれほど持続しなくても、簡単に目で追えて(まるで絵画を眺めるように)、しかし読後には、「面白い話を読んだなあ」とささやかながら実感できるもの、最近は特にそんなことを意識しながら小説を書いています。

■「読み手」をイメージしながら小説を書くということ

僕の小説は「とても読み易かった」と言って頂けることが多いのですが、それは上述のような理由から、難解な言葉やメタファーを極力排除している、というのが一因であると考えています。あとはリズム。これはとても大事な要素です。とにかく、読んでいて、用語が分からなかったり、引っかかりを覚えたり、「待てよ」と立ち止って頭をひねったり、メタファーをうまくイメージできなかったり、ということがないようにすること。まるで音楽を聴いたり、絵を見たりするのと同じように、五感で感じてもらえるような小説を書くこと、それには特に注意を払っています。立ち止りや引っかかり、は思考することを強制します。

もちろん、長編小説を含めた一般論として、それがあってはいけない、ということを言っているのではなく、あくまでも短い話を疲れた頭で読む場合には、という限定した環境下での話です。

小説の「書き手」というのは、世の中には実に沢山います。プロはもちろん、ウェブで小説を書いている方、趣味で書いている方、文学賞に投稿している方、本当に沢山の方がいます。職業作家の方は別にして、皆それぞれ書きたい小説を、制約なく自由に書かれていると思います。もちろんそれが普通だし、仕事でもない限り、プロットを指定されたり、文字数を制限されたり、というのはそんなにない筈です。なので、皆書きたいことを書きたいように書く。それが精神修養にもなり、更に読んでいただいた方が喜んでくれて「お金」までもらえたら言うことないですよね?(キンドルや楽天で簡単に個人出版できる時代になりましたからね)。

ただ、自分が書く小説を読んでもらいたいなと想定している「読み手側」の生活環境やペルソナ(マーケティング用語で、提供する製品・サービスにとって、もっとも重要で象徴的なユーザーモデルを規定することです。例えば、40代の小中学生二人の子育てをしているサラリーマンで共働き家庭・・云々)までを意識して書かれる方は、それ程いないように思っています。

たまたま僕が学生時代に、そうした勉強をしていた、というせいもあるのかもしれませんし、今の仕事に関連しているせいもあるかもしれませんが、どうしても、「一方通行」のプロダクトアウト的な小説を好き勝手に書く、ということが僕自身、性格的にも自然に出来ないといいますか。ウェブやスマホで読んで頂いている読者の方の側に立って向き合う癖、といいますか。小売サービス業で言う「ユーザー目線」で物事を考える、というのが無意識的に染みついています。

格好つけたようなことを言っていますが、自身の小説だってまだまだ不完全ですし、もっともっと上手に書けるようになりたいし、そうした書き方が正しいことかどうかも良く分かりませんが、かれこれ20年以上「小説っぽいもの」を書き続けてきて、ホームページや電子書籍を通じて多くの方に見て頂くようなってから、僕としての経験則を踏まえ、今はそんなポリシーで小説執筆に当たっています。

「活字への集中力」が保てない方にも、負担なく、ストレスなく読める小説。
しかしそれなりに心に刺さる、印象深い小説。
これからもまだまだ試行錯誤しながら、書いていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)