共生

「またあのことを考えているのね」
 食事を中断して、ぼんやり宙を見つめている娘に母は言った。娘ははっとして再び口を動かしたが、今食べている物の味覚がまるで分からなかった。
「あたし達は何も悪くない。悪いのはいつだって」
 母は少し苛々したように言った。「もしあの時と思ったら、ぞっとする」と付け足して、露骨に嫌な顔をした。
 それは長い下りのワインディングロードを抜け、視界が扇状に広がる直線道路での事故だった。横断歩道や信号はなかったが、注意を喚起する黄色の標識は手前からいくつもあった。母と娘は単に反対側に渡りたいだけだった。日常的に横断している道だった。遠くに小さな赤い点が見えた。最初に母が渡って娘を待った。今朝降った雨で、まだ路面は濡れていたが、まさか道の真ん中で足を取られるとは娘も思っていなかった。気付くと、赤い点は爆音と共にあっという間に大きくなっていた。娘は咄嗟に目を瞑り、覚悟した。次の瞬間、耳に爪を立てるような金属音と共に、鉄の塊とヘルメットを被った人間が二つに分離して、氷上を滑るように前方に転がっていった。娘はそっと目を開けた。人間の方はぴくりとも動かなかった。ヘルメットもいつの間にか外れていた。山裾まで突っ込んだバイクからは煙が上がっていた。母は娘の元に取って返し、ぎゅっと抱き締めた。娘の身体は今もがくがく震えていた。救急車を呼ぼうにも術がなかった。いや、そもそも救急車を呼ぶ義務も義理もなかった。野鳥の呟きが聞こえるくらい、辺りは静寂だった。新緑の匂いは一部排気ガスの残り香にかき消された。母は立ちすくむ娘を背負って改めて左右を確認し、今度は無事反対側に渡った。
 その事故は、夕方の地域ニュースで報道された。亡くなったのは、娘と同じ年頃の隣町の女の子だった。濡れた路面でスリップしたことによる単独事故、という扱いだった。その次の祭りのニュースでは、既にアナウンサーは笑顔で原稿を読んでいた。
 違う、と娘は思った。彼女は私を避けようとして亡くなったのだ。もしあのタイミングで飛び出していなければ死なずに済んだのだと思うと、娘の胸は締め付けられるように痛んだ。
 三日後、隣町の葬儀場で通夜が営まれた。父親も母親も亡くなった子同様若かった。喪服や制服を着た参列者の殆どが、焼香する前から啜り泣いていた。娘は遠目でその様子を眺めていた。眺めているしか出来なかった。まさか自分が彼女の事故に立ち会っていたとは、その原因を作った当事者であるとは誰も思わないだろうな、雨が降り始めたのを潮に、娘はもし自分が死んだらどれ程の人が悲しんでくれるのだろうと思いながら、踵を返した。
 それから何度も、あの事故の光景はフラッシュバックされた。眠っていても跳ね起きる程だった。夢では、フルフェイスの中の女の子の表情が良く見えた。その顔はとても優しい顔をしていた。次の瞬間には、横倒しのバイク。地面に転がる少女の姿。
「いい気味さ。勝手に山切り開いて、勝手に道を作った奴らが悪い」
 母の口調はいつもこんな感じだった。その乱暴な言い回しはあまり好きではなかった。
「もっと仲良くやれないの?」
「鉄に殺され、食われたりする相手と上手くやれって? お前の父さんだって何も悪いことしてないのに。お前は人が良過ぎる」
「その話はもう何度も」
 娘の父は、物心ついた頃にはもういなかった。銃で撃たれて死んだり車やバイクに撥ねられて死ぬことは、もちろん悲しいことだった。しかし人間が自分たちを避ける為に事故することも、娘にとっては同じくらい悲しかった。どちらが上でどちらが下、ということではなく、お互い悲劇がなくなり、うまく共存できる方法はないだろうかと娘はずっと考えていた。
 母は「何故我々が人間の決めたルールに従うのか」と反対だったが、「信号を点けてもらう」というのは一つの解決策である気がした。事故のあった場所で、警察や自治体に要請すれば比較的設置してもらえることは知っていた。それが事故をなくす一番現実的なやり方なのではないかと。「食われる」ことについては、まだ娘にはいいアイデアは浮かばなかった。

「バンビ、ご飯よ」と母は向こうから呼んだ。同時に、ぱん、ぱん、と乾いた音が、何度も山に響いた。音は間もなく鳴り止んだ。野鳥の呟きが聞こえるくらい、辺りは静寂だった。バンビと呼ばれた鹿の子は、猛烈なスピードで、隣町に続く道路を駆け抜けていった。(了)

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