楽しい「アイロン」

「アイロンがけ」は、私の週末の楽しみだった。折り皺、畳み皺、洗濯皺、変形した繊維分子を、高熱を加えて「あるべき正しい組成」に復元する「アイロンがけ」。正にこの「皺が伸ばされていく過程」こそ至福の愉悦だった。衣装ケースに積み上がった一週間分の衣類の皺を、たっぷり時間をかけて一つずつ丹念に伸ばしていく。
 今や、週末の「アイロンがけ」の満足度を極力高める為に、私は日々社畜に徹し、平日の我を抹殺した。対象物が少ない時や全くない日は、私は羽をもがれた渡り鳥のようにレゾンデートルを失い、自室に籠り思考停止に陥った。「アイロンがけ」は、既に私の人生に取り込まれ、私の自我の一部を形成していた。
 ある週末の夜、妻はアイロンばかりに気が向く私を責め立て、ワインボトルを一人で空にした後、ベッドに落ちた。非難は当然だった。余りにも私は妻をないがしろにしていた。心底申し訳なく思った。
 何とか妻に報いたいと寝顔を眺めていたら、ある妙案を思い付いた。
 鼾をかく妻の寝顔にスキンクリームと乳液を塗った。それからハンカチをあて布にして顔に被せ、アイロンの電源を入れた。もちろん温度は「低」だ。ぷしゅん、というスチームの小気味良い音が度々寝室に響いた。私は妻を起こさぬよう、これ以上ないくらい丁寧に優しくプレスした。手の平に伝わる妻の骨格の感触は新鮮だった。私は何年振りかの愛撫のつもりで、妻の顔にアイロンを滑らせた。
 翌朝、妻は何事もなかったように、普段通り出勤前のメイクを始めた。まだいささか怒っている様子だった。三面鏡をじっと眺めている私に、妻は「何よ」と昨夜以来の口をきいた。
「いや、今日はやけに若々しいなと思って」
「いつもは老けてるってこと?」
 しかし妻は満更でもないように少しにやけながら、顔にクリームを塗った。
「そういう意味じゃなくて」
「でもね、確かに今日はいつもより肌のハリがいい気がする。何となく」
 そりゃそうさ、と私は心で呟いた。「アイロンがけ」を極めた人間は、どんな皺でも伸ばせるのだ。次はあの皺を伸ばそう、私の妄想は既に飛躍していた。(了)

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