その傘は、学生時代の彼女から貰った物だった。千鳥格子のサテン生地、重みのある精巧な骨組み、手に馴染む木製の持ち手など、どれをとっても上質だった。銀座三越で買ったの、と彼女は言った。銀座三越ならいい物に決まってる、と男は思った。
「一生使い続けるからね。だから死ぬまで側に居て」
 そう言って、男は彼女の身体をきつく抱き寄せた。

 それから間もなく、二人は別れた。理由は、後で振り返れば些細な事であったが、お互いの若さは、意地を張り合う以外の解決策を見い出すことはできなかった。
 男の手元に、傘だけが残った。どれだけの風雨にも、その傘は耐えた。使い捨てのビニール傘や折り畳み傘とは、そもそもの作りが全く違っていた。さすが銀座三越だ、と男は感心した。
 あれから二十年。
 男には既に妻も子供もいた。傘は未だに現役だったが、その間には様々な厄災に見舞われた。
 傘の生地と骨を固定する紐が何か所も切れた。男はその都度、自分で縫った。生地の穴から雨漏りもしたが、裏から同系色のテープを切り貼りして凌いだ。「つゆ先」も二、三個無くなったが、似た形状の物をネットで買って補修した。持ち手が柄から抜け落ちた時は、いよいよ諦めかけたが、金属と木材を接着する業務用ボンドを試したら、奇跡的にくっついた。
 また、出先や飲み屋にも度々忘れてきたが、何故か無くなることはなかった。高級な傘はかえって盗みづらいのだろう、と男は高を括った。
 ある日、泥酔して電車に忘れてきた時は、いよいよ覚悟を決めた。紛失に気付いたのは、一週間後だった。
 JRに問い合わせると、男の伝えた特徴を持つ傘が、某駅の遺失物センターにあるとのことだった。仕事帰りに向かうと、何本か束ねられた傘の中に、特徴的な傷のある持ち手の傘があった。直ぐに自分の傘だと分かった。嘘のようだった。離れ離れの肉親と再会した気分だった。この傘とはもう一生縁が切れないのだ、と男は確信した。

 結婚生活は、想像以上にタフだった。景気も給料も一向に上がらず、常時生活は苦しかった。逆に仕事の責任は増え、人間関係にも行き詰まった。心は、徐々にすさみ弱っていった。現実の毎日が、現実とは思えなくなっていた。全てが一連の夢の続きのようだった。「いっそ全て夢であれ」と願った。現実と夢の境目が良く分からなくなる程、男は参っていた。
 雨の日は特に酷かった。仕事に行きたくなかったが、妻と子の為には行かざるを得なかった。激しく地表を刺す雨は機銃掃射のようだったが、傘は確実に男の身を守った。傘だけはいつまでも頑丈だった。もう雨漏りすることも、つゆ先がなくなることも無かった。その気丈さが、男にはかえって疎ましく思えた。
 傘の贈り主は今どうしているのだろう、ふと男は思った。自分より良い生活、良い人生を送っている気がしてならなかった。何故彼女と別れたのか、己の若さを呪った。
 男は酷く酔っていた。
 雨上がりの帰途、誰もいない深夜の公園で、野球のバットを振るように傘を街灯に打ちつけた。持ち手が外れ、骨組みの支柱がぐにゃりと曲がった。
 じゃあな、男は持ち手を植え込みに捨て、ブランコを漕いだ。昼間のどしゃぶりの雨が嘘のように上がり、星が満天に輝いていた。家に帰りたくなかった。しかし帰る場所は家しかなかった。若い男女が談笑しながら公園に近付いてきた。男は諦めて、家に向かうことにした。よく辿り着けたなと思うくらい、何度も道を間違えた。
 翌日は快晴だった。目覚めは最悪だった。仕事は休みをとっていたが妻には内緒だった。遅番なんだ、と男は妻に言った。給料はいつになったら増えるのか、という妻からの質問には、そんなこと分からない、と男は答えた。
 何気なくベランダに出ると、昨晩壊して捨てたはずの傘が干されていた。持ち手も骨組みも全く元通りだった。
 男は疼く頭を働かせ記憶を辿ったが、街灯の支柱に叩きつけた傘の感触は、手の平にありありと残っていた。過去に補修したつゆ先や傷だらけの持ち手から、それが間違いなく自分の傘であることを確認した。
 お前はどこまで不死身なのか、と男は呟いた。そんなおんぼろ傘捨てちゃえばいいのに、と背中越しに妻は言った。全く妻の言う通りだと、男は何も言えなかった。
 それから何度も雨が降り、台風が駆け抜け、電車や店に置き去りにしてきても、傘が無くなったり壊れたりすることはなく、最後には必ず男の側にあった。「不燃ごみ」の日に出しても、何故か傘だけが取り残された。むしゃくしゃして生地をナイフで切り刻んでも、翌日には、元通り生地が張られ傘立てに収まっていた。日毎重圧に押し潰されそうな男とは裏腹な傘の不変さは、一層男を追い詰めた。傘が羨ましく、そして死ぬ程憎らしかった。

 男は遂に窮地に立った。妻子も仕事も失う瀬戸際にいた。どちらを残すも地獄だった。全ては自分が招いたことなのだ、酔った勢いで侵入したマンションの最上階の踊り場で、男は傘を広げた。信頼できるのは、もう傘しかなかった。あの日以来、傘は数々の試練を乗り越えてきた。不死身で最強の傘なのだ。男は最後の賭けに出た。傘を広げ、飛び降りるタイミングを見計らった。
 これが夢であるならば、お前は俺を救う、否、現実であっても。男は夢想した。傘に揺られ、のどかに浮遊する己の姿を。子供の頃、良くそうしたように。

 次の瞬間宙に浮いた男の身体は、何の抵抗もなく、そのままどすんと地上に落ちた。持ち手の取れた傘がゆらゆら揺れながら、植え込みに横たわる男の身体をすっぽり隠すように、時間を空けて着地した。
 それから三日間、傘と男は誰にも見つけられることはなかった。一生側にいるという約束を、傘は忠実に全うしたのだった。(了)

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