ぼんやりした夫婦

 帰宅すると、妻はそのまま私をリビングに招き入れ、【ぼんやりとした不安】を見せた。ここまではっきり分かる程巨大化してるとなると、もう随分前から存在していた筈だった。その見た目からして何らかの形で処分しないと、いずれ我々のような若い夫婦の手に負えなくなるということは直感的に理解できた。
「テレビの裏にあったの。信じられないでしょう」と妻は菜箸を手にしたまま、私に言った。「こりゃ酷いね」
 私達は、最早疫病神を見るような目で、その一物を眺めた。【ぼんやりとした不安】は、既に絶滅した動物の亡骸のように生気なく横たわっていた。良く妻の力だけで、ここまで引っ張り出せたものだと感心した。
「頑張ったね」
「誉めてくれる?」
「もちろん」
 青白かった妻の顔に、少しだけ赤味が差した。薬が効いているのか、最近の妻は落ち着いていた。回復途上にある妻を刺激したくはなかった。こんなものを抱え込んだお陰で、またいつ発作を起こすとも限らなかった。妻が壊れる姿を目の当たりにするのは、もううんざりだった。
「どうしようか」と私は言った。
「市役所では引き取ってくれないらしいの。実体のないものは可燃ゴミでも不燃ゴミでも駄目なんですって」
 実体はあるのにな、と私は思った。市役所はただ面倒臭いだけなのだ。一市民の【ぼんやりとした不安】など、一々相手にしてられないのだ。
「何とかするよ」
「何とかってどうするの?」
「大丈夫だから。これ以上心配しなくていいから」
 ひとまず私はスーツを着替えた。今日は体も神経も酷く疲れていた。早く風呂に浸かって、酒でも飲んで眠りたかったが、どうやら酒を飲むわけにはいかないようだった。もし自分が人を殺めたら遺体を捨てるのはここ、と決めていた場所があった。人の手の入れようがない、谷の奥底。
 妻が寝入ったのを確認すると、私はダウンジャケットを羽織り、【ぼんやりとした不安】を抱えて家の鍵を締めた。今日は睡眠薬を飲んで寝たので、そう簡単には起きないだろうと踏んだ。
 市内の川の上流、日中でも交通量の少ない県道のとある橋の入口に車を停め、私は【ぼんやりとした不安】をトランクから出して、一旦歩道に置いた。谷の下がどうなっているのか、この暗がりでは全く見えなかった。どこまで深いのかも。
「不法投棄監視中」の看板が目に入ったが今更気にしなかった。引き取りを拒否したお前達がいけないのだ、私は両腕で持ち上げた【ぼんやりとした不安】を、そのまま欄干から谷に突き落とした。若干木々に触れる音が聞こえたきり、どさりともどすんともいわなかった。
 私は直ちに車に乗り込み、サイドブレーキを解除した。一件落着。緊張から解放されると、今度は猛烈な眠気に襲われた。早く布団に入って眠りにつきたかった。ほとんど対向車と行き違うことのない県道を、私はライトをアッパーにしたまま、法定速度の倍のスピードで走った。

 家の電気が点いていた。嫌な予感がした。妻はソファでお茶を飲んでいた。妻の足元には、今捨てたばかりの【ぼんやりとした不安】があった。もう勘弁してほしかった。
「どこ行ってたの?」と妻は聞いた。
「コンビニだよ。たばこを買いに」
「こんな時間に? たばこ止めたんじゃなかったの?」
「これが本当に最後」
 たばこは二年前に止めていた。私の湯呑にもお茶を注いだ。ほとんど出がらしで冷めていた。今、我々二人にとって極めて大事な局面にあることを、私は察した。
「一週間休みが取れそうなんだ」と私は言った。「旅行行かない?」
「旅行」という言葉に、妻の体が条件反射のようにびくんと反応したのが分かった。
「どこに?」
「前から行きたいって言ってたじゃん、四国とか」
「四国」と妻は復唱し、湯呑を両手で支えながら嬉しそうに目を閉じた。それ以上、妻は口を噤んだ。
 妻の足元にあった筈の【ぼんやりとした不安】は、みるみる小さくなり、飴玉くらいの大きさになっていた。
 今だ。私は床を這ってテーブルに潜り、【ぼんやりとした不安】をむんずとつかんで口に押し込み丸飲みした。異物が喉の粘膜を伝って胃に落ちていくのがありありと分かった。実体はあるのだ。一件落着。今日、二回目。
 妻は寝息を立てて眠っていた。私は起こさぬように、毛布を静かに掛けた。私もリビングで眠ることにした。今だけは妻の側を離れない方がいいと思った。
 胃がきりきりと痛んだ。新聞配達のバイクの音が聞こえた。ちょっとの辛抱。ひとまず、部屋のどこにも【ぼんやりとした不安】がないことを確認して、私はソファに丸まった。それから、妻が行きたいという「四国」について想像してみたが、私には何のイメージも湧かなかった。
 そもそも、一週間なんて休めるのだろうか。
 口元に苦い物が込み上げてくる気配を、私は感じていた。(了)

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