渋滞

「ねえ、どうなってるのよ」
 妻が苛立っているのは、ルームミラーを覗かなくても気配で分かった。幸いなことに二歳になる息子はチャイルドシートでぐっすり眠っていた。もし彼が起きていたら、きっとベルトが苦しいだの椅子から下ろせだの、妻の神経を更に逆撫ですることは必至だった。
「ちょっと酷いね」
 三車線の高速道は、寸分の隙間もなく、遊び帰りの車でびっしり埋め尽くされていた。
「今日は普通の日曜日よね?」
「普通なはずだけど」
 渋滞になることは覚悟してきたが、それにしても進行が遅い。二メートルくらい進んでは止まり、また二メートル進んでは止まり、やがてぴたりと動かなくなった。
「もう十分以上は停まってるよね。事故でもあったのかなあ」
「こんなところから渋滞してたら、一体いつ家に着くのよ」と言って、妻は足を組んで貧乏揺すりをしながらシートベルトを外した。貧乏揺すりを車でやると思ったより車体が揺れるんだな、と男は思ったが、それには気が付かない振りをした。
 妻はうんざりしたように窓に肩肘を付けて車窓を睨んだ。男はルームミラーにちらっと目をやり、そして前方を見た。
 明るいブレーキランプの数は圧倒的に少なくなっていた。皆、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキをひいているのだ。何せ、全く動く気配がない。
「あなたがもっと早く起きていればこんなことにはならなかったのよ」
 いよいよ来たか、と男は観念した。妻は苛立つと、何でも男のせいにした。政治が酷いことも、物価が高いことも、育児がうまくいかないことも、包丁で指を切ったり、ベランダから洗濯物を落としたり、部屋の中にハエを招き入れてしまったことも、そしてこの目の前の渋滞も、自分の思い通りにいかないことがあると、その原因は全て男にある、と指弾した。
 その理屈はどう考えても理不尽で納得できるものではなかったが、生活を楽にしてやることのできない負い目から、男が反論することはできなかった。
「だよね。ごめん」
「大体、何本ビール空いていたか知ってる? あなた、いつ寝たかも覚えてないんでしょう?」
「うん、全然」
「起きられるわけないじゃない、あんなに飲んだら。実家であってももっと気を使いなさいよ。朝すんなり出ていれば、こんな渋滞なんて巻き込まれずに済んだのに」
 妻の言う通りだった。今日ばかりは、男も自分の否を認めざるを得なかった。実家にいくとどうしても油断して飲み過ぎてしまう。いつものことだが、今日だけは、やはりもっと早く帰路につくべきだった。数分前、恐ろしいほどの睡魔に襲われしばらく目を閉じていた事実は、妻には内緒にした。
「ねえ、次で下りてよ。こんな動かない高速道路じゃお金の無駄よ」
「次ってまだここからじゃかなりあるよ。それこそ何時になるか分からない」
「少なくても高速よりはましでしょ?」
「それは何とも言えないよ。こういう時は一般道も混んでるだろうし」
 知らない一般道を走ることが、男は嫌だった。高速道路の何十倍も疲弊することを知っていた。
「じゃあ、どうすればいいのよ。明日は早く起きてやらなければならないことがたくさんある。内野さんと田川さんとランチ行く約束してるの。その前に掃除や洗濯も済ましておかなければならないし、銀行も行ってこなくちゃいけないし、消防点検も立ち会わなければいけないし、とにかくいろいろ。あなただって早く家を出るって言ってたんじゃなかった?」
「うん、直接お客さんのところに行かなくちゃ」
「なら、次で下りて」
「だから下りるっていっても、こんなに動かないんじゃどうにもならないって。それに一般道でもまだまだ一〇〇キロ以上は走るようだよ」
「空飛べないの? この車」
「無茶言うなよ」
「役立たずな車。燃費も悪いし。どうして家族三人しかいないのにこんなに大きな車が必要なのよ。あなたのわがままなんて聞くべきじゃなかったわ。大失敗」
 これにはさすがに温和な男もかちんときたが、ただでさえ渋滞でいらいらしてるところへきて更にこれ以上苛立つことはまだ先の長い道中、何のプラスもないことを知っていたので、ぐっと堪えて聞き流すことにした。
「じゃあ、路肩走って」
「まずいって」
「いい加減にしてよ。全く、どうして皆出掛けるのかしら。不景気なんでしょ? 家でじっとしていればいいのよ。のこのこ出て行くから、こんな目に合うんじゃない。でも、こんなことなら、実家なんて来週で良かった、最初の予定通り。あなたが仕事入るなんていうから」
 男はそれについては特にコメントしなかった。彼女の言っていることはどこか文脈がおかしかった。
 ガソリンの残量は残り四分の一を切っていた。しかしこの外の暑さでは、エアコンを切ってしまうわけにはいかなかった。それは一家三人、車中で熱中症心中しよう、というようなものだった。

 後ろの車列も更に伸びているようだった。いくつかの車から、ドライバーが窓から身を乗り出して、前方を確認していた。男も一度だけそうしてみたが、ここからでは全く見えないことと、三五度を超える外気にせっかく冷やした車内の冷気をたちどころに持っていかれるのが悔しくて、慌てて締めた。
 そうこうしているうち、息子が目覚めた。目覚めると同時に、背中にびっしりかいた汗の不快を妻に泣きながら訴えた。
 妻は「お願いだから泣かないで」と自らが泣きそうな声で怒鳴りつけながら、用意しておいたシャツに着替えさせた。着替えた後でも息子は泣いていた。どうやら、飲み物が欲しいようだった。
「もう水筒のお茶が終わっちゃったのよ」
 風船のように膨らんだ息子の真っ赤な顔に比べると、妻の顔色は蒼白のように男には見えた。しかしそれは光の具合のせいかもしれなかった。
「もうちょっと行けばサービスエリアはあるんだけど」
 カーナビに「SA」のマークが点滅していて、残り五八〇メートルと出ていた。
「私もトイレに行きたい」
 妻は声を震わせながら言った。さっきまでの威勢の良さが、息子が目覚めたのを境に失われていた。事態が切迫しつつあることに、男は気付いていた。
「これじゃ車線変更もできやしない」
 貧乏揺すりはいよいよ男の方にまで飛び火していた。こんな時、煙草を吸えたらどんなにすっきりするだろう、と男は思った。煙草は、息子の誕生をきっかけに止めていた。
「そのくらいの距離なら、歩いていけるわ」
 妻はがさごそとハンドバックにハンカチを詰めて支度を始めた。
「歩くなんてダメだよ。危ないって」
「皆止まってるんだから大丈夫よ」
「いや、バイクとか」
「路肩を歩いていくから。あなた、もし進んだら、次のサービスエリアで待ってて。とにかくもう駄目。我慢できない」
「ちょっと待ってよ」
 妻はドアを開け、息子を抱えながら、勢いよく閉めた。車両と車両の隙間をジグザグに進む妻と子。やがて二人は完全に男の視界から消えた。こういう突発的な行動にも、男はこれまで何度となく悩まされ続けていた。
 五八〇メートル。
 子供を抱えて歩くには結構ある。しかし運転手である以上、車を離れるわけにも行かず、男は黙って留まった。何人か、妻の後を追うように、一人、二人と女性や子供が車から出てきて路肩へ向かうのが見えた。皆、次のサービスエリアを目指しているのだ。この暑さとこの停滞に、いよいよ我慢ならなくなっている。
 それより、男はガソリン残量が気になっていた。走行もせず、がんがんにエアコンつけているせいか、見る度にメーターの針が落ちていた。次のサービスエリアで入れないことには、家まで持たないのは明白だった。
 突然、前方の車のブレーキランプがまぶしく点灯すると、少しだけ前に動き始めた。待たせやがって、と心の中で呟きながら、サイドブレーキを下ろす。一気に加速するほどではないが、今度は二メートル進んでも止まることはなく、じりじりと流れ始めた。
 車は五メートル、一〇メートルと進んだ。男は車線を一番左に変更したかった。タイミングを計るものの、なかなかそこまでの車間距離は開かなかった。ウインカーを点けてみても、隣の車は譲る気配がないばかりか、意地悪でもするかのように、余計に車間距離を狭めていた。
「こいつ」
 男は前を詰めたり、逆に少し止まってみたりして左車線の様子を窺うが、いいタイミングが中々見つけられずにいた。
 やがて、サービスエリアの看板が見えてきた。妻子の姿はここにきても見つけることはできなかった。意外に歩くのって早いんだな、男はウインカーを出しっぱなしにして、少し強引な感じで車を寄せたが、ぴかぴかのメルセデスベンツから激しくパッシングとクラクションを鳴らされ、直ぐにめげた。スモークガラスが貼られたフロントガラスの奥から、若い運転手のサングラスに鋭い夏の陽射しが反射するのが見えた。
「まずい」
 サービスエリアが近づいてくる。何度も左ハンドルを切るがその度にベンツは車間を寄せる。
 男は諦めた。この狭い隙間に車を埋めるのは、その後のトラブルを考えるとすべきではない、と判断した。ひとまず、ベンツをスルーできたら、寄せられるところに寄せて、後で歩いて迎えに行こう、と。
 男は携帯から、妻を呼び出し事情を説明しようと短縮ボタンを押した。車の流れはさらにスムーズに流れ始めていて、サービスエリアを通過したあたりから、それぞれの車間距離も少しずつ大きくなってきていた。
 後部座席から、賑やかなレディー・ガガの曲が流れた。妻は携帯を置いて行っていた。
「まじかよ」
 携帯がない中で、どうやって妻に連絡を取るべきか。何もいいアイデアが浮かばないまま、車はそのまま更に進んで行った。気が付くと、ベンツの姿が消えていた。
 しかしまた少しずつ車間距離が詰まってきて、一斉にランプが点灯し、たちまちどん詰まりになった。どのくらいオーバーしたのだろう、男は振り返ってみるものの、やはり後ろの様子は見えなかった。一キロとまではいかないまでも、それに近いくらいはオーバーしているはずだった。

 渋滞が再び始まると、また先程のように全く動かなくなった。男は、苛立つことにも疲れ始めていた。もう一度、携帯で妻あてに電話をしてみることにした。後部座席に置いてあることは分かっているので、それが何の意味があるのかと我ながら思ったが、そうでもしていないと、気がふれてしまいそうだった。
 しかし、今度は呼び出し音が鳴る前に、「現在通話が大変しにくくなっている」云々のメッセージが受話器から聞こえてきた。この状態は、ついこの間の大震災でも経験していたことだった。
 普通の休日でもこんなことになるんだな。それとも、また何か大きな災害とか事故が身の回りに起きているのだろうか。
 ラジオをつけてみても、そんなニュースはやっておらず、DJは暢気に今週の洋楽ヒットチャートを紹介していた。交通情報に切り替えてもノイズが聞こえるだけで、携帯が使えないということではどうにも手段がなかった。
 時間は淡々と過ぎて行った。いよいよガソリンの警告ランプが点灯した。男は覚悟を決めて、一度エンジンを切った。途端に、空気の流れが止み、ムスクの芳香剤が微かに香った。ムスクの香りも、妻には大不評を買ったものの一つだった。
 動き出す気配がないことを察すると、男は外に出て、一度大きく伸びをした。ほとんどの車のブレーキランプが消えていた。盛夏の直射日光が、瞬く間に頭頂部を焦がした。

 サービスエリアは全く見えなかった。どの車も、外に出ている者などいなかった。ドライバーはアイドリングを維持しながら、大人しく車内に留まっていた。我慢強い国民だな、と人ごとのように呟きながら、男は再び車に乗り込んだ。太陽と排気ガスで生み出された熱風をいつまでも浴び続けることはできなかった。しかしエンジンを停めた車の中の温度も瞬く間に上昇し、もはや冷気と言えるものは残されていなかった。
「勘弁」
 シートを倒し、ポロシャツのボタンを一つはずしたが、あまり意味がなかったので、思い切ってシャツを脱ぎ、アンダーシャツだけになった。首から汗の粒が滴り落ちているのが分かった。温度計は三八度を示していた。
 エンジンを点けてもたいして冷えないことは分かっていた。それより家までガソリンが持つかどうかの方が心配だった。高速道路でエンストなんて洒落にならない。
 しかし、窓を開けても風の一つも吹いてこない。妻は今頃、どんな気持ちでサービスエリアで待っているのだろう。携帯を忘れていっていることに気付いた時どうするのだろう。渋滞が長引けば長引く程、お互い不安が高まっていく。
 渋滞は、今度こそ致命的なまでに死んでいた。かれこれ三〇分は経過していた。ほとんどの車のエンジン音が聞こえなくなっていた。
 みんな熱中症だな、男はシートを更に倒し、朦朧としている意識でぼんやり車外を眺めた。静かだった。遠くでかすかに聞こえるパトカーのサイレンが余計暑苦しさに拍車をかけた。
 普段、幾度となく消えて欲しい、と願っている妻と息子だが、今ではとても懐かしく、恋しく感じた。妻子が後部座席にいないことが、男を尚更一人にさせた。このまま車を置き去りにして妻子の元に駈け出して行けたらどんなにいいだろう、と男は思った。
 お互い離れている時に大震災があったとしたら、どこで待ち合わせる約束したのか、男はうまく思いだすことが出来なかった。車も使えず、電話も使えず、きっと今のような状況になるわけだ。
 酷い眠気に襲われ始めた。頭に毛布でも被せられているかのように重苦しく、全身虚脱していた。男は耐えきれずエンジンを掛けた。しかし吹き出し口からはいつまでたっても温かい風しか送られてこなかった。燃料計のメモリは殆ど底をついていた。男は諦めてエンジンを停めた。

 携帯が鳴った。着信音から、メールを受信したようだった。みると、それは妻の携帯からだった。本文はなく、件名に「さようなら」とだけ書かれていた。妻の携帯は後ろのシートに置かれたままだった。
 思考能力は完膚なきまでに壊れていた。男は無意識に返信を打っていた。
「ごめんなさい」
 送信ボタンを押した。そこで男は深い眠りについた。
 後部座席からは、いくら待ってみても受信音は聞こえてこなかった。(了)

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