「あの絵を見ると頭が痛くなるの」と、女は言った。
眩暈を覚え、立っていられなくなることもあった。頭にこびりついた映像をそぎ落とすまでに、一日布団から出られず、また夢にうなされ、その度に何度も汗びっしょりになって布団から跳ね起きた。
あの絵とは、JRの電子マネーを推進するキャラクターのことである。まん丸な黒い輪郭に黒い目、心持ち両端の持ち上がった白抜きの口。男にはそれ程酷いキャラクターには見えなかったが、女の怯え方は日常生活に支障をきたすほど、尋常ではなかった。
「一刻も早く止めさせて」と女。「無茶言うなよ」と男はたしなめた。しかしそれでは女を納得させることはできなかった。仕方なく女のいる側でJR本社に電話をしてみたが、そんな個別の事情で不採用にすることはありえない、と一方的に電話を切られた。クレーマー扱いだったが、至極当然だった。
そのうち、女は「ペンギンがじっと家の中を覗いている」「今日スーパーでレジに並んでいるのを見た」「役場の住民票交付担当のデスクで仕事をしていた」など、妄想は更にエスカレートした。
「病院へ行こう」と男は言った。何らかの心因性トラブルを抱えているのは間違いない、と思った。外出恐怖になりかけていた女をどうにか説得して、近所の心療内科を訪れてみたが駄目だった。受付の二人の女性が、二人とも白眼を剥いた「ペンギン」だ、と女は言った。病院を出るなり、女は植え込みに向かって嘔吐した。そのまま三十分は、立ち上がることができなかった。さすがにそれ以上強硬することはできず、男は弱る女を抱えて自宅に戻った。「Suicaのペンギン」は、夫婦生活始まって以来の難敵となった。
妄想肥大は日々悪化していた。「黒くて白くて丸いもの」であればどんなものでも「ペンギン」を連想させた。料理もボールやフライパンは使用できず、四角い卵焼き用のフライパンを使わざるを得なかった。茶碗やお椀はもちろん、丸テーブルや時計、洗面器のようなものにまで反応するようになった。「オセロ」などは論外だった。
当然、電車は乗れず、ハンドルも握れず、次第に女は外に全く出られなくなった。梱包工場でのパートも辞めざるを得なくなり、家に籠る時間が多くなった。
しらすの目までもがペンギンの目を連想させる、と言われたことが男にはショックだった。食欲はなくなり、元々痩せていた女は更に衰弱していった。女がそんな状態だったので、男も会社を休みがちになった。側にいないと不安だった。嘔吐物を喉に詰まらせて窒息してしまうのではないか、火を使っている時に卒倒してしまったらなど、良からぬことばかり考えるようになった。
女が毎晩うなされるのと合わせて、男もほとんど眠れなくなった。会社に出ていても仕事にならなかった。居眠りをしている、と上司に何度も咎められた。女への様子伺いのメールに返事がないことばかりが気になってそれどころではなかった。
やがて、男も会社にいることができなくなった。当面は失業保険で暮らすしかなかった。
男は、女の見えないところで、あの忌々しい「Suica」を鋏で切った。こいつのお蔭でそれまで順調だった我々の生活がおかしくなったのだ。男の体重も激減した。何を食べても腹を壊すようになった。大好きだったビールが、全く美味くなくなった。どうしてこんなに不味いものを飲み続けていたのかが不思議なくらいだった。「動物」が出てくるテレビ番組に遭遇すると直ぐに消した。いつ何時「ペンギン」が出てくるかもしれないから。
次第に、男自身も「Suicaのペンギン」を彷彿させるものが駄目になった。女が洗面台、男はトイレに駆け込んだ。このまま資力も体力も尽き、やがて誰も知らぬ間に夫婦共々孤独死を迎えるのではないか、と本気で心配した。「Suicaのペンギン恐怖症」など、誰にも相談できることではなかった。結婚生活二十年の結末が、まさかこんなつまらない、しかし死ぬほど辛い形で訪れようとは夢にも思わなかった。
布団の中で手を握り合いながら、おいおい泣いた。三日後には涙も枯れ果てた。痩せこけたお互いの体をくっつけ合いながら、お互いの熱を感じた。女の臭いは、何十年も変わっていなかった。実に久しぶりの感触だった。二人はそのまま眠りに落ちた。翌日、二人は日が暮れるまでぐっすりと眠っていた。これほど熟睡できたのはいつ以来だろう。どちらともなく目覚め、重ね合わせた掌の汗を共有した。
「結婚して初めて」と女は虚ろな瞳で呟いた。「苦しみを共有できてる」
男は言葉を継げなかった。これまで自分が女にしてきた数々の仕打ち。自身と結婚なんてしなければ、こんな苦しみを味わわなくて済んだのではないか。そう思うと情けなかった。申し訳なく思った。彼女の苦しみを自身の苦しみとして真剣に考えてあげられなかったこれまでの結婚生活を、家政婦のように都合よく扱ってきた妻への態度を、悔いた。
天井に、無表情な「Suicaのペンギン」が、直立不動でじっと二人の様子を見つめていた。口は笑っているものの、目は少しも笑ってはいなかった。
「目、開けてる?」と男は言った。
「ううん」と女は言った。
「開けちゃ駄目だよ」
「分かった」
岩間から水が染み出すように、女の目尻から涙がこぼれていた。男はそれには気付かず、天井のペンギンだけに神経を集中した。勝負。どちらが先に降参するかの根比べ。
男はペンギンのようにまん丸に目を見開いて、目の前の「Suicaのペンギン」を凝視し続けた。
*
JR東日本では、ICカード乗車券「Suica」で使用しているペンギンのキャラクターを見直す作業に入っていることが、昨日当局の取材で明らかになった。
その理由についてJR東日本の広報担当者は「導入後十年を経過し、新たに普及啓発活動を活性化させるための話題作りにしたい」としているが、現在のペンギンのキャラクターを見た人が、何らかのショック症状を訴えるケースが全国的に増えてきているという報告もあり、JR側はこれに配慮したためではないか、という見方が強まっている。(了)