「そんなに遅くならないうちに、帰るようにするから」と、妻のマリは言った。夫の武史には、それが随分離れた場所から聞こえたような気がした。
「折りたたみは持ったの? いつまた降り始めるか分からないから」
「うん、大丈夫」
ワイパーを止め、ハンドルに凭れながら、武史は西日を柔らかく跳ね返す雑居ビルの看板を見つめていた。
働きに出したことが本当に良かったのかどうか、武史には未だに分からなかった。しかし武史の給料だけでは今の生活レベルを維持できないことは明白だった。マリに申し訳なく思うと同時に、自身の不甲斐なさに辟易した。 外に出るようになれば、当然新たな出会いがあり、付き合いも増える。分かってはいたものの、いざ家を空ける時間が多くなってくると、武史の胸中は穏やかではなかった。「箱入り」状態の結婚生活だったマリにとって、若い男が多い職場や夜の街は、あまりにも刺激と誘惑が多過ぎた。
ばたん、とドアが閉まり、水滴の残る窓ガラスの向こうで、マリは武史に小さく手を振った。武史は目配せをして、軽い会釈でそれに答えた。
「帰りはまた迎えにくるから」という一言を言い忘れたことに気付き、後でメールを入れることにした。
人混みの中、繁華街に颯爽と向かうマリの後ろ姿を、武史は路肩に車をつけたまましばらく眺めていた。マリは一度だけ振り返ったものの、特に後ろ髪を引かれる感じでもなく、歩行速度を落とすことはなかった。
少し丈が短か過ぎないか、締まったヒップをわざと強調して歩いているように武史には見えた。茶色に染め上げたセミロングの滑らかな髪が、歩く動作に応じて僅かに膨らみ、揺れた。 車を降りる時からじっとこちらの様子を見ていた黒いリュックの男が、武史と同じようにマリの後ろ姿をいつまでも目で追っていた。
こんな不潔で下司な男に目をつけられる妻が不憫でならなかった。男が妻を見て何を考えているのかを考えてしまうことが、疎ましく、苛立たしく、そして馬鹿馬鹿しく思えた。
再びマリに目を向けると、もうほとんど米粒のようになっていたマリの白いワンピースに近づく男の姿があった。マリは脚を止め、どうやらそのグレーのジャケットの男と話をし始めていた。
最初はティッシュ配りかと思ったが、立ち止り、会話を交わしている二人の様子から、そうでもなさそうだった。憎しみにも似た強い感情が、武史の意識に宿った。それはマリの停留が長引けば長引く程、じわじわ増殖した。
お互いの表情が掴めないのが武史にはもどかしかった。知り合いなのだろうか。それとも職場の男?
しかし職場の「歓送迎会」にくる格好としてはあまりに気取り過ぎている。
ナンパ。ポン引き。キャバクラのスカウト。次々と出てくる言葉のどれも、マリには相応しくなかった。リュックの男は知らぬ間にどこかに消えていた。ドアを全開にして、武史は街の汚い空気を中に取り込んだ。
男は未だマリに取りついていた。上に広げた男の手が、一瞬マリの肩を抱きしめたようにも見えた。武史の頭に血液が逆流し満ち満ちた。ドアポケットの脱出用ハンマーを手に握りしめてエンジンを点けたまま車を降りた。視線は前方のある一点に固定されていた。何度となく、すれ違う人の肩にぶつかったが、武史は悉く無視した。一刻も早く二人を引き離すことで頭が一杯だった。早歩きから少しずつ小走りになっていた。
あと数メートルというところで、ふっと二人の輪が解けた。名残惜しむ訳でもなく、手を振る訳でもなく、マリは再び目的地に向けて歩き始めた。ジャケットの男は離れていく女にはもう関心がないといった感じに、次の獲物を物色し始めた。
ハンマーをジーンズの後ろポケットに差し込んで、武史は男を睨んだ。しかし男は武史の存在など全く気に留めず、マリよりずっと年の若い女の子に既に声を掛けていた。
直前までの激しい怒りの炎が、まるで空気の漏れた風船のようにみるみる萎んでいった。萎み切った後では、怒りがなぜこんなろくでもない男に向けられていたのか分からなくなっていた。煤だらけのカーブミラーに寄りかかりながら、武史はハンマーで叩き潰す価値もない男にハンマーを持ちだした自身を恥じた。
マリは信号は渡らず、その手前のビルの中に吸い込まれていった。細部まで会話を振り返ってみても、店の名前を思い出すことができなかった。記憶に値する程のインパクトのある名前でもなかった。胸ポケットに手を入れようとしたが見事に空振りした。煙草は半年前から、既に止めていたのだった。
車に戻ろうとした時、ドアが半分ほど空いているのに気が付いた。屋根が少し揺れていた。静かに近づくと、大きな黒い塊が、ダッシュボードを開けて何かを漁っているのが見えた。
「てめえ!」
武史はリュックをわし掴んでその巨体を車から引きずり出すと、後頭部を力一杯左拳で殴った。普段聞いたこともない鈍い音が周りに響いた。さっき、じっとマリを目で追っていたあの男だった。
男は地面に大きくもんどり打ち、両手で頭を抱え込んで、「うう」と呻いた。体をくの字に曲げてぶるぶると脚を震わせた。武史はもう一発、今度は蹴りをおみまいしてやろうかと力んだが、既に抵抗する気配のない無様な男の姿を見て止めた。
次の瞬間、リュックの男は跳ねるように立ち上がると、突然車道の反対側に駈け出した。それは頭を負傷している者とは思えない素早さだった。リュックはそのままガードレールを飛び越え、夜闇に消えていった。
どいつもこいつも、舐めやがって。 しかし武史にはもう追い駆ける気力は残されていなかった。やはり、もう一撃加えておくべきだった、と後悔した。
歩道で何人かが、その顛末を眺めていた。ちらっと武史と目が合うと、少しがっかりしたように目を逸らして再び歩き始めた。もっと事が大きくなるのを期待していたかのようだった。
ポケットに財布とスマホがあることを確認した。そして開け放たれたダッシュボードの中と床に落ちている音楽のCDを一枚ずつ確認した。音楽はほとんどマリのチョイスだったので、元々何があって、何がないのかというのは武史では分からなかった。
それから車の外観をやられていないか、ぐるっと一通り見渡した。とうに日は暮れ、街灯がぽつぽつと滲み始めていた。
武史は車に乗り込み、強くドアを閉めた。それからシートを一番限界まで倒して両腕を伸ばし、全身の筋を伸ばした。ガラスルーフの端に、満月に近い月がぽっかり浮かんでいた。酒を飲みながら楽しそうに男と話すマリの横顔が月の光を遮った。何も考えないようにしようという考えが、何も考えたくない武史の思考を邪魔した。
メールの着信音で、武史は目覚めた。「一次会で帰るので迎えに来てほしい」というメッセージだった。すっかり眠り込んでしまったようだった。あれから三時間が経過していた。嘘だろ? シートを元通りに起こし、エンジンをかけた。顔全体が汗でべたついているのが分かった。体の節々の痛みに加え、左手の指の付け根がじんじん痛んだ。何となく紫がかっているようにも見えた。さっき降ろしたところで待っている旨のメールをマリに返した。返信をした後で、そんなに早く返すべきではなかったかな、と武史は思った。
「ずっと待ってたの?」
助手席のマリはハンドルを握る武史に聞いた。声の調子から、それほどお酒は入ってないように思えた。
「まさか」と武史は答えた。
「そろそろかなと思って、早めに家を出てた」
最初の信号でひっかかった時、武史はちらとマリを見た。マリは武史の視線に気付いているのかいないのか、じっと外を眺めているばかりだった。
「つまらなかったの?」と武史は聞いた。
「楽しかったわ」とマリは答えた。
「二次会は?」
「他の人は行ったけれど」
「行ってくれば良かったのに」
マリはその質問には答えなかった。これ以上ないくらいにゆっくりとした瞬きを一度して、これ以上ないくらい深い溜息を一つついた。
「どうした?」
どことなくマリの様子がおかしいことに武史は気付いた。駐車場に着くまで、それ以降二人の会話はなかった。どう切り出していいのか、きっかけを掴めずにいた。武史には、何故マリが不機嫌なのか理解できなかった。
「やっぱり、おかしいよ。何があったの? 嫌なこと言われたり、されたりした?」
この数時間の間、ビルの中に消えていった後のマリを想像することができない自分に、武史は苛立っていた。
「そんなことないわよ」と、マリも首を傾げながら溜息混じりに答えた。
「息苦しい」
「え?」
「何でもない。それより、どうしたの、その痣」
武史はマリの目線の先にある左手の痣を翳し、指を曲げたり伸ばしたりした。
「ああ、さっきちょっとドアにぶつけてしまって」
「ひどいわ。真っ青じゃない」
「後でシップでも貼っておくよ」
真実の顛末を話し始めると面倒臭くなりそうだったので、武史は言わないでおくことにした。マリは手に触れるでもなく、ぎゅっとハンドバックを握り込んだまま、シートベルトを外した。
それからスマホを取り出し、いくつかのアイコンをタップし、いくつかの画面をピンチしフリップした。携帯から乗り換えたばかりの自分と違ってこなれてる、と武史は思った。
いつもなら、そんなマリの日常的な仕草をいとおしく思えるのだが、しかし何故か今は、まるで全くの赤の他人が車に乗り合わせているかのようだった。マリの表情はさっきからずっと強張っているようにも見え、あるいは全ての事象に対して無関心であるように見えた。
「嘘つき」
唐突にマリが切り出した。
「どうして嘘をつく必要があるのか分からない。あなたとこれからずっと一緒にやっていく自信がない」
「どうしたの、急に。意味が分からない。ちゃんと説明してくれよ。嘘って何が?」
「あなたは私を送った後、ずっとあそこにいた。早めに家を出たなんて嘘」
武史は何も言えなかった。それは事実だった。何故マリがそれを知っているのかを突き詰めるよりもっと事態は切迫していた。
ドアを開け、マリは車から降りると、自宅とは反対方向に歩き始めた。
「どこ行くの?」と武史は叫んだ。
「コンビニ」とマリは振り返らずに答えた。 突然のマリの行動に、武史はそれ以上何を言えず、後を追うこともできずにいた。運転席と自身の背中がぴったり一体化してしまっているようだった。まるで自分自身も、自動車のパーツの一部のように。
車の中には、香水とアルコールの混じり合った匂いが僅かに残されていた。息苦しい、という言葉の断片が、ふっと助手席のシートの上に舞い降りた。マットの奥に一筋の光が見えた。さっきリュック男と格闘した際に拾い忘れていた松任谷由美のCDだった。
エンジンを切り、武史も車から降りた。マリの姿はとうになかった。どこからか、カレーのような強い香辛料の香りがした。カレーは大勢の家族じゃないと食べてはいけないものなのだろうか。子供がいないことは、そんなに罪なことなのだろうか。
精子検査では異常がなかったことを、武史はマリに伝えていた。しかし、それは嘘だった。元々検査すら受けていなかったのだ。子供が出来ない理由は自分自身にあることを、武史は薄々感じていた。 もう二度と、マリは戻ってこないように思えた。それは感覚というより、既に起こった事実に近かった。(了)