スカート

 女は気付いていた。並走気味に走っているトラックの運転手が、助手席に座っている自分の脚にちらちらと目を向けていることを。
 男は無精ひげを生やし、白いタオルを頭巾替わりに頭に巻いていた。時々女の方を見ては、ハンカチに巻いた缶のようなものを口に当てて、ごくりと飲み込んだ。男の視線は短い時間で何度も女の脚と顔を見比べた。朽ちた流木のようなその視線が、女にはとても不気味で、気持ち悪く思えた。
「ねえ、あなた、隣のトラック、何だかおかしいわ」
「ん、おかしいって?」
 夫は笠雲がかかる富士山頂の珍しい光景にみとれていて、妻の言っている意味がうまく掴めなかった。
「ちょっと離れてくれる?」
「どうしたの」
「いいから。スピードあげて」
 言われるままに、夫はアクセルを踏み込んだ。スピードメーターの針はみるみる右に触れていった。休日の早朝ということもあり二車線の国道は空いていた。しかし、目前の信号に引っ掛かり、二人の車が急停止をすると、トラックも同じように停止した。
 女は脚をすぼめた。小旅行とはいえ、短めなスカートを履いてきたことを後悔した。
 トラックの男は赤信号の間中、じっと女の方ばかりを見ていた。今度ばかりは女もさすがにうんざりして、勇気を出して男を睨みつけたが、男は全く動じることなく、これ見よがしに飲み物を口に含んだ。
 女には、男がにやりと笑いかけているように見えたが、信じたくなかった。視線を切り、前方の信号が早く青になることを祈った。信号がこれほど長く感じられたことはなかった。今見たばかりの、男の血走った目と白い頭巾が、ぼんやりとフロントガラスの向こうに浮かんでいた。
「隣の人、ずっと私を見てるの」
「隣?」
 夫は助手席越しに、少し見上げるようにトラックを見た。しかし運転手の姿は見えず、ドアに書かれた「三橋造園」というマーキングしか見ることが出来なかった。
「どんな奴?」
「きっと、お酒飲んで運転してるんだわ。どうして缶にハンカチなんて巻く?」
 信号が青になると、再び夫は加速を始めた。トラックもほとんど同じスピードで付いてくる。意図的だな、と夫はようやくその運転に違和感を覚えた。時に減速してみたり、再び急加速したりを繰り返したが、トラックの男は、二人をからかうように同じ動きを繰り返した。
 夫はスピードを落とし、車線変更してトラックの前に出た。すると、相手の男は車間距離をほとんど取らず、ぴったりと二人の乗用車に張り付いた。それは余りにも接近していて、ほんの少しだけブレーキを踏んだら、間違いなく追突するだろうと思う程だった。
「何だこいつ」
「あなた、怖い。相手にしない方がいいわよ」
「頭おかしいんだよ。こうも暑いと、変な奴が多くなって困るよ。オーケー、コンビニに寄ろう」
 夫は踏み込める限界までアクセルを踏んだ。一気に百キロ近くまでスピードを上げた。トラックはさすがについてくることはできず、みるみる引き離されていった。男が驚き、苛立つ顔が目に浮かんだ。
 それから二人の車は減速し、コンビニの駐車場に頭を突っ込んだ。バックミラー越しに、トラックがそのまま轟音を引きずって通過していくのが見えた。
「コンビニまでつけられたらどうしようかと思った」と女は言った。
「ごめん、全然気がつかなかった」
「ずっと私のこと見てたの」
「そんなスカート履いてくるからじゃない?」
 そう夫に指摘され、女は少しショックだった。結婚前まで、短いスカートが好きだ、と言っていたのは夫の方だった。
「気分転換しよう。飲み物買ってくるよ。何がいい?」
「冷たいお茶」
「オーケー」
 夫は財布を手に車のドアを開けた。これから二人だけの楽しい旅行に行くのだ、トラックの男のことは一刻も早く忘れてしまおう、女は袋からおにぎりを二つ出した。気分転換なら、ここで朝食をとってしまおうと女は思った。
 隣に一台、大きな車の影が見えた。女は一瞬どきっとして顔を向けたが、それはトラックではなくワンボックスだった。停止すると同時に、若い茶髪の男ばかりが、スライドドアを開けてぞろぞろと中から降りてきた。心臓がどきどきしているのが分かった。夫に早く戻ってきてもらいたかった。運転席のドアの鍵を改めて締め直した。

 腹ごしらえが終了し、二人はコンビニを後にした。予定外の休憩だったが、お陰で朝食を何処で食べるか考えずに済んでかえって良かったと思うことにした。
 ナビを再度確認してから、再び国道に戻った。おにぎりを頬張ったら、トラックのことはもう二人とも忘れていた。旅館に到着するまでの今日の行程を、夫は頭の中で復習した。
 コンビニを出発してから十分程経った辺りで、車の量が増え、ブレーキランプがいたるところで点滅していた。信号は青にも関わらず、進み方が極端に遅くなっていた。
「何だろう」
 まだ渋滞するには早すぎる。しかも市街地からはずっと離れたところであり、車の詰まる理由はどう考えても思い浮かばなかった。
 そうこうしているうち、サイレンを鳴らした救急車が二人の車の脇を猛スピードで通過した。
「事故かな」と夫は助手席に向かって言った。
「早朝から嫌ね」と女は言った。
 まだまだ道程は長いのだ。こんなところで時間を喰うのはうんざりだった。夫は迂回路を探してみたが、狭い農道のような道ばかりで、それらはどんどん目的地から遠ざかっていく方向に向いていた。
「田舎だなあ」
 夫は女に聞こえるか聞こえないかほどの声量で言った。
「仕方ないわ。のんびり行きましょう」
 少しずつでも車は進んでいた。夫はアクセルとブレーキを交互に踏みながら、それほど遠くはない前方で音もなく明滅する赤色灯を眺めていた。
「ねえ、車が横転してる」
「本当?」
 車は一車線になりつつあった。夫の位置から事故の様子は見えなかったが、妻の口調から、大きな事故であることは窺えた。
 赤色灯は更に大きくなっていた。車列は、パトカーと救急車に塞がれた左車線を避けるように、のろのろと、しかし確実に進んでいた。
 パトカーの後ろで警官が交通整理をしていた。もっと右へ寄れ、という合図だった。その先に横転しているトラックが見えた。荷台の後部に「三橋造園」という文字があるのが見えた。
「あ」
 夫の口から自然と声が漏れ、もう一度トラックを見た。それは確かにさっき付きまとわれていた暴走トラックに間違いなかった。
「あいつだ」
 夫は女に言った。女は黙って一度頷いたまま、しばらく言葉に詰まっているようだった。
「完全に横になってるわ。酷い」
 二人の車はようやく事故車の隣に差し掛かった。フロントガラスがめちゃくちゃに壊れて路上に散乱していた。前輪が少し内側に折れ曲がり、側壁のガードレールには、黒く引きずったような傷がかなり長くついていた。
 その前方の路肩で、男が横たわっているのが見えた。ヘルメットを被った数名の救急隊員が、その周りを取り囲んでいた。一人の隊員が横になっている男に馬乗りになって、心臓マッサージを施しているのが見えた。強い力で何度か押した後、口元の呼吸を他の隊員が確認していた。
「死んじゃったのかな」
 現場を通り過ぎ、再び順調に流れ出した車列に姿勢を正しながら、夫は言った。
「だったね、さっきの人、事故」
 女が動揺していることは、言葉の繋ぎ方の不自然さからも夫には分かった。夫も動揺していないわけではなかった。ついさっきまで一緒に走っていた車が、目の前で横転するほどの事故を起こして、今、その運転手が心臓マッサージを受けているのだから。 
 しかし、これから夫婦水入らずの楽しい旅行に行くのだ。何の落ち度もないのに水を差されてしまうのは惜しい。
「やっぱり酒飲んでたのかな。事故起こすような場所じゃないよ。何かおかしかったもんね、動きが」
 女はそれについては何も言わなかった。目を丸く開いたまま、バックミラーに映る事故現場をいつまでも見つめていた。
「まあ、でももう忘れようよ。せっかくの旅行なんだし。それより、昼はどのあたりで食べる?」
「あの人、死んじゃったのかな」
 女の顔の血の気が引いているのが、夫にも分かった。
「死んだっていいじゃん。俺達にあんな酷いことしたんだよ? 天罰だよ、天罰」
「ねえ、それは言い過ぎじゃない? あの人にだって家族がいるかも知れないのよ?」
 女は語気を少しだけ荒げて言った。
「あんな危ない運転されたんだよ? こっちが事故に遭ってたかもしれないっていうのに」
「そうだけど、でもさっきまで真横を走っていた人が事故で、もしかしたら亡くなったかもしれないなんて……ねえ、何故そんなに冷静でいられるの? 気にならないの?」
「酷い事故だったと思うよ。ガラスも割れてたしタイヤも曲がっていたし。でも自業自得だよ。酒飲んで、あんな運転してたら、いつか事故になるよ。そんな奴の家族のことなんて、普通考える?」
 夫にそう言われ、それから女はしばらく口を閉ざし、思いつめたように車窓から見える遠くの山々を見つめていた。
 その気配から、夫は何か自分が酷いことを言ってしまったのかと、もう一度言ったことを反芻してみたが、どの言葉が気に障ったのか分からなかった。反対に、何故そんな男に同情するのか、理解に苦しんだ。
「このスカートを履いてきたことが、全てもの失敗」
 沈黙を破ったのは、項垂れたまま、呟くように口に出た女の一言だった。
「ごめん、戻って」
「え? 何だって?」
「スカートを履き替える」
 夫は女の真意を測りかねた。
「ねえ、どうした? おかしいよ」
「おかしいわよ、私。うん、確かにそう。でもこのスカートを履いたままとても旅行する気分じゃなくなったの。ごめんなさい」
 女はそれ以上、何も言わなかった。仕方なく、夫は信号でUターンした。とてもこのまま強硬できる雰囲気ではなかった。帰って着替えたら、一度きちんと話し合う必要がある気がした。それは今回の事故や旅行に関することではないもっと違う何か、例えば自分との結婚そのこと自体について。
 女はスカートの裾をぎゅっと握りしめたまま、車窓ばかりを眺めていた。女が何を考えているのか、夫は想像していた。
 反対車線の赤色灯はまだ光っていた。中央分離帯の植栽越しに、未だ心臓マッサージを繰り返している隊員のヘルメットらしきものがちらりと見えた。
 女は運転席の方を見ようともしなかった。おにぎりの袋が脚元に落ちていたが、どちらも気がついてはいなかった。夫は少しだけあの男の家族について考えてみたが、彼に妻がいて、子供がいるという姿を全く想像することができなかった。

 道は空いていた。当然だった。まだ時間は六時半だった。ようやく、朝日が国道のアスファルト全体を照らし始めたところだった。
 出直しを余儀なくされた若い夫婦の車は、抱えきれないほどの思惑と一泊分の荷物を車内に詰め込んだまま、待ち人のいないマイホームにとって返した。もう一度この場所に戻って来るまでに、ゆうに一時間は見なくてはいけなかった。それまでには間違いなく、事故の処理は終わっているんだろうな、と夫は思った。
 夫は静かにアクセルを踏んだ。どれほど空いている道であっても、頑なに法定速度を順守したまま。(了)

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