春人は台所にいた。妻を愛した後の気だるさが全身を取り巻いていた。喉がこれほど渇くのは、ハイボールを飲み過ぎただけではなく、暖房が効き過ぎて無駄に発汗したせいもあった。真夜中の静寂の中、柔らかなペットボトルを握り潰すように、春人はミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
南国のような寝室以外は、まるで犬のいない犬小屋のように凍りついていた。台所と寝室の温度差はさすがに全裸の体には応えた。部屋に戻る途中、トイレに寄った。壁のカレンダーには、二月十日に生理の始まりを示す星印、排卵予想の二十五日にはハートマークが記されていた。二十五日は職場を去る上司の送迎会が組み込まれている筈だった。
春人は一度大きな身震いをし、もし自分に女の子が生まれたとしたらどんな顔なのだろうと想像した。
「寒い寒い」
逃げ込むようにドアを閉めて、春人はベッドサイドに腰掛けた。
「雪が降らないのが不思議なくらいね。ねえ、海斗、大丈夫かな」
彩香は掛け布団で胸元を隠しながら心配そうに呟いた。
「もうとっくに眠ってるよ」
「迷惑じゃなかったのかしら」
「迷惑なんてことある訳ないよ。孫を可愛がることしか楽しみがないんだから」
「そんな言い方。初めてのお泊まりだからね」
「遊び疲れてぐったりだよ」
「気を使って連絡してこないだけかもしれないでしょ?」
「そんな遠慮するような親じゃないって」
「海斗のこと、気にならないの?」
「もちろん気になってるよ」
「本当に?」
「うん」
家族への愛情は十分足りていると思うか、と問われて「十分足りている」と胸を張って答えられる男がどのくらいいるだろう。彩香から度々振り向けられるこうした愛情確認を、春人は鬱陶しく感じる時もあった。
「初めてのことだから心配なのよ。海斗がいない夜を送るの」
「前から泊まりたがってたし、そろそろそういう経験もいいかなと思ったからさ」
妻子どちらに先立たれる方が辛いかを考えると、それは春人にとっては妻だった。大学時代、アルバイト先で出会ってからこれまでに共有してきた時間を考えると、海斗との時間はまだ圧倒的に短かった。
「ばあばは大好きだけど、いくら本人が泊まりたいって言ってもその時だけなのよ。眠る時は私がいないと駄目なんだから」
「たまには彩香とゆっくりしたいと思ったし、彩香もそれを望んでいるのかと思ってたよ」
「もちろんそうよ? 夜泣きの一番酷い時なんて、この子さえいなかったら、と思ったこともあった。でも今までずっと一緒だったから。海斗のいない夜が、こんなに静かで寂しいものだなんて思わなかった」
近所で赤ん坊が泣いている。子供の泣き声には二人とも敏感に反応してしまう。
「でも私たち、恵まれてるよね。実家は近いし、春人も早く帰ってきてくれるし。あと欲を言ったら、お給料がもう少し良かったらとは思うけど」
給料の話は、春人にとって冬の寒さ以上に身に応えた。
「給料が安い替わりに、こうして育児にも参加できるし、休みも多くとれる。沢山お金を稼ぐには、それだけ時間と家庭を犠牲にしなきゃいけないと思うよ」と、春人は負け惜しみを言ってみる。
「ごめん、余計なことだった。ねえ、布団入ったら?」
裸のままで話していたことを、春人はすっかり忘れていた。
「パンツをどこに脱いだかなと思って」
「この足元の、そうかな」
掛け布団の端から手を忍ばせて、春人は彩香の足元をまさぐる。
「やめてよ、くすぐったい」
「楽しいね」
「馬鹿」
そう言いながら、彩香の顔は大きく弛んでいる。
「あのさ」と春人。「彩香は今、幸せ?」
「何よ、いきなり」
彩香は春人の質問の真意を探るように目を見ながら、もちろん幸せよ、と答えた。(→続きはAmazon(Kindle版)で)