またか、と老人は思った。今年に入って既に三人目だった。
この辺りの住人は、妻に先立たれたり離縁したりで身寄りのない年寄りばかりだった。大抵は認知症を患い、何人かは犬を飼っていた。人知れず横たわる亡骸に、餓死寸前の犬もまた、寄り添うように死期を待っていた。老人の元に預けられる犬は、孤独死で主を失い、辛うじて生き長らえた犬達だった。
「マルチーズ、雄、年齢不詳。引き取り可能ですか?」
老人が依頼を断ることはなかった。放っておけば、彼らが処分されるのは分かっていた。勿論、生きて見つかる犬ばかりではなかった。主を失った後、食う物に困った犬達は、新聞を剝き、段ボールを齧り、死肉にさえ手を付ける犬もいた。生き抜く為には彼らも必死だった。どうにか生き長らえた幸運な彼らには、神の思し召しが託されているとしか思えなかった。哀しみ、怨み、後悔、懺悔、ないまぜになった負の感情を代わりに貯め込み、浄化し続けてきた彼らを人の手で亡き者にするのは、余りにも身勝手だと老人は思った。
老人は犬に恩があった。心臓発作で側道脇に転倒していた老人を周りの人に気付かせてくれたのは、野良犬だった。正しくは、首輪を残したままの誰かの飼い犬だった。退院してから、老人は再びその犬と再会した。頭を撫でると、痛々しいくらいに尻尾を振って喜んだ。犬はそのまま老人の家までついてきた。舌を出して老人を見上げるその顔は、まるで自分が笑っている時の顔に見えた。犬種を調べたら秋田犬だった。飼い主が見つかるまでのつもりで、老人は恩人を家に置くことに決めたが、飼い主が見つかる気配はなかった。
老人は比較的裕福だった。居間も広く、庭も犬が走り回れるくらい広かった。コーギー。ダックスフンド。シーズー。プードル。様々な種類、年齢の犬達が共存していた。元の主が分かっている犬は一部だけだったが、じっと犬の顔を見ていると、どんな主だったのか、どんな風に飼われていたのか、どれだけ愛されどれだけ虐められてきたのか、老人には何となく分かった。どの犬も一度は死んだ筈の犬、誰にも看取られず孤独のまま亡くなった主の命が乗り移った犬という「生き神」のつもりで面倒を見ていた。
しかし既に二十頭まで膨れ上がった犬達の面倒を見るのは、肉体的にも辛くなっていた。いつ再び発作に襲われるかも知れず、また年と共に足腰も弱っていた。いつか自分が死んだ後のことを考えると、とても辛く悲しくなった。
家族からも親類からも孤立した独居老人の末路は余りに空しい。死に際すら気付かぬまま死んで腐敗していくのは想像したくもなかった。誰でもいいから看取られたい、生きた証を最期くらい認めて欲しいと、老人は思った。一番辛いのは、この犬達だった。死後を考えると絶望的になった。自身の身に何か起これば、この二十頭の神々を処分場へ送ることになるのだ。そんなことなら、飼い主と共に死んた方が良かったのではないかとさえ思った。彼らを二度殺すことは、老人にはいたたまれなかった。
胸が締め付けられる度に、老人は死期が近い事を感じていた。後十年自分の寿命が長ければ、と老人は思った。まだおちおち死ねる状況ではなかった。足元に纏わりつくパピヨン。主はきっと心の優しい品のある男だったに違いない。彼は一番の老犬だった。誰か里親になってはいただけないだろうか。この犬達の最期を看取ってはもらえないだろうか。
時代の要請は、飼い主に先立たれた犬の引き取りだけで済む問題ではないことを、老人は朧気に感じていた。問題解決の解の本丸として、その電話が鳴るのも最早時間の問題と思われていた。
「大木幸子、女性、七三歳。引き取り可能ですか?」(了)