小説における「毒」とは?

「小説」には、ある種の「毒」のようなものが必要なのではないか、と思います。

「毒」と言っても様々なタイプのものがあるとは思いますが、僕の求めている毒とは、人を殺してしまうほど強烈な「猛毒」の類ではなく、疼く古傷の痛みを緩和してくれるような、弱いけれど継続的に必要とされる部類の「中毒性」を伴う毒、という意味です。

「小説」の役割の一つに、「真実を暴く」ということがあります。
社会秩序を保たせるために、国や政治から押し付けられた法や規制、価値観や思想の元で、便宜的に適応せざるをえない「人間」を縛りつけている束縛から解き放たれた、リアルな「人間」の姿。欲望の塊り。エゴ。人間そのものの、本来誰しもが持っている(持っていた)はずのもの。

そんなものを「小説」という物語の中で描き出す作業を通じて、また読み手はそれを読むことで、現実社会では到達できない「本来の自分」を疑似体験し、カタルシスを得る。

僕自身、若い頃読んだ好きな小説家の多くは、この毒によって僕を侵し、つまらない嘘だらけの世の中の「痛み」から、一時の逃避旅行を与えてくれました。
そうした作用を持つ小説こそ、僕が読みたい小説であり、僕自身、その「毒」を常に意識しています。

とはいえ毒といっても、強い弱いもあれば、ある人には毒になっても、ある人には耐性がついていて、薬にも毒にもならない、ということもあるわけで、どのレベルまで盛り込むか(盛り込めるか)は僕の裁量ということになるのでしょう。
そもそも、僕自身がどこまで毒を持っているのか、という根本的な問題もありますよね。

とまれ、ありきたりな現実をありきたりに書くだけではきっと「中毒性を伴う」小説とはなりません。一見ありきたりに見えているけれど、実は「ありきたりではない」事実を暴こうとしなくては、僕の理想の小説にはなりません。

僕が書きたいのは、

「きれいなもの」に隠された「汚いもの」。
「喧騒」にかき消された「静寂」。
「優しさ」に裏打ちされた激しい「憎悪」。
地獄を見たものしか到達できない、本当の「愛」の形。

そんなものを的確に表現できる書き手になれたら。
あまのじゃく、というなかれ。
僕はただ、自分が読みたいものを書いているだけなのです。

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