ミステリーサークル

 会社は倒産寸前だった。もはや時間の問題だった。しかしまだそれを妻に話すわけにはいかなかった。上の子は来年から小学校に上がり、二人目がお腹にいるという状況の中で、四十目前の何の資格も取り柄もない男が次の職に切れ目なく就くということは、今のこの経済環境では奇跡に等しかった。これ以上、妻に心配を掛けさせたくはなかった。ただでさえ日頃から苦労ばかりさせてるわけだから。
 
 その日は午後からの出勤で良かった。しかし俺はいつも通り家を出た。いつも通りにしておかないと、敏感な妻に悟られてしまうと思ったからだ。
 普段であれば最短コースで駅まで向かう通勤経路を大きく迂回して、隣の住宅地を突き抜けるルートをとった。午前中をどこで過ごそうかということで頭が一杯だった。ふらふら鞄を引きずるように町内を徘徊する俺の姿は、きっとよそから見たら、仕事に疲れ死に場所を求めている過重労働者にしか見えないだろう。
 空はどこまでも抜けていた。昼間なのに白い月が煌々と浮かんでいた。ある邸宅の庭木には、見慣れない白黒斑模様の野鳥が羽を休めていた。その後で、金木犀の匂いがどこからか漂ってきた。普段の通勤ルートでは気が付かないことばかりだった。仕事に埋没することで多くの損をしてるんだな、と俺は思った。
 住宅地と住宅地の繋ぎ目に、ちょっとした公園があった。公園と言っても遊具はほとんどなく、ゲートボールのコートを二つぎりぎり作れるくらいの小さな砂地だった。
 ちょうどその敷地の真ん中あたりで、真っ黒に日焼けしたTシャツ姿の男の子が、空を見上げながら直立不動で立っていた。地面には大きな円が描かれていて、彼はその中心で空に向かって何かを呟いていた。ランドセルがベンチに放り出されていたが、学校はもうとっくに始まっているはずだった。

「何してるの?」と俺は聞いた。彼への興味というより、地域に住む大人としての老婆心から。
「宇宙人と交信してる」
 男の子はトイレで用を足すのと同じくらい当たり前な事のように答えた。
「宇宙人?」
「うん。もうすぐね、偵察にやってくるよ」
 俺も彼と一緒になって空を見上げてみた。更に深みを増した空の青が広がるばかりで、彼の話の裏付けになるようなものは何一つ見つけることはできなかった。
「学校はどうしたの? もう始まってるんじゃないの?」
「行きたくない」
「行きたくないって、お母さんは知ってるの?」
「知らない」
「さぼったらいけないよ。学校からお母さんに連絡」
「知らないもん! 交信中なんだから黙っててよ」
「そう、ごめん」
 きっとこういうことは日常的なのだ。脳の発達障害や何か。両親や担任の先生はさぞ苦労してるんだろうなと人ごとのように思いながら、俺はベンチに腰掛けて煙草を吸った。
 こちらには全く頓着なく、男の子はただ背筋を伸ばして天を仰ぎ、呪文のようなものをもごもごと唱えながら「宇宙人との交信」とやらを続けていた。俺は彼のその奇妙な儀式を眺めながら、煙草の灰を携帯用灰皿に落とした。
 ちんけな公園に、不登校の子供と失業寸前の中年男。全くいい絵だ。俺は自分が益々卑しく、小さな人間である気がした。深い深い溜め息を一つ吐いた。溜め息で幸せが逃げていくとすれば、俺はもうどれほどの幸せを逃がしてきたことだろう。いや、溜め息を吐けるだけ、まだ幸せは残っているのだ、と考えるべきなのかもしれないが。

「ねえ、おじさん」
 声を掛けられなければ、男の子が側に立っていることにいつまでも気が付かなかった。
「僕、明日引っ越しなんだ」
 唐突に、男の子は言った。瞳は真剣だった。表情だけを見ると、それほど知恵遅れということでもないように思えた。
「引っ越しって、どこに?」
「僕の知らないところだよ。どこか遠いところ。だから、明日から僕の代わりをお願いしてもいい?」
「俺が?」
「うん」
「無理だよ」
「おじさんならできるよ。せっかく今こっちに向かってきているのに、場所が分からなくなっちゃうと悪いから。あと少しなんだ。この公園が目印になってる。本当だよ。信じて? おじさんは、宇宙人なんて信じない?」
「どうかなあ」
 朴訥に聞いてくる彼の瞳を見ていて、どういう答えがベストなのかを俺は考えていた。
「広い宇宙なんだし、どこかにいてもおかしくはないとは思うよ」
「もう、すぐそこまで来てるんだよ。僕がそんなこと言っても誰も信じてくれないけど」
「信じてあげるよ、おじさんは」
「本当? 僕の代わり、やってくれる?」
「わかった。いいよ」
「ありがとう」
 男の子はこちらに飛びついてくるでもなく、握手するでもなく、ただその場で恥ずかしそうに満足げな顔で笑った。迂闊に「いいよ」なんて安請け合いしたことを俺は言ったそばから後悔していたが、それ以外の答えがどうしても思い浮かばなかった。
 やがて男の子はランドセルを背負い、学校のある方向とは反対の方向に向けて歩き出した。途中、一度だけ振り向いたが、特に何を言うでもなく、再びそのまま歩いていった。
 地面には、誰もいなくなったサークルだけが残されていた。俺は煙草を地面に擦りつけて消した。まだ会社に行くには少し早かったが、これ以上ここにいると致命的なまでに切なくなりそうだったので駅に向かうことにした。
 彼がこれまでどこに居て、どこに移っていくのかは知らないが、きっともう何度となく引っ越しを繰り返しているのだろうなと思った。
 次の仕事のことを俺は考えた。しかし考えてみたところで何も始まらなかった。引っ越しをするにも金が要る。とてもそんな余裕はない。仕事を自ら興すなんて勇気もないし能力もない。少なくとも、今の子供二人が五体満足、心も脳も健康であることに、俺は感謝することにした。

 次の日も、俺はいつもの時間に朝食をとり、いつも通りに妻と娘にキスをして家を出た。俺は何も考えてはいなかった。頭の中はリアルに空っぽだった。ふと気が付くと、昨日と全く同じルートを歩いていて、ちょうど例の公園の入り口に立っていた。男の子が残していったサークルは全くそのままの形で地面に残されていた。
 今頃引っ越し作業で取り込み中なのだろう。ひとまず、いい天気で良かったと思った。それから、昨日男の子とした約束を思い出した。
 俺はサークルの中心に立ち、煙草の先に火を付け空を仰ぎ見た。仰ぎ見た所で何が見えてくる訳でもない。少なくとも今は昼間だ。
 煙を深く吸い込んで、ゆっくり吐き出した。もし、男の子の言うことが本当のことだとしたら、この視線の先に、「宇宙人」が猛烈な勢いでこちらに向かってきている、という訳だ。
 俺はまだ見ぬ「宇宙人」に思いを馳せた。どんな姿形をしていて、どんな言葉を喋るのだろうか。家族はいるのだろうか。争いごとはあるのだろうか。何を食べて生きていて、いつになったら死ぬのだろう。
 いずれにしても、惑星間戦争でも起こしてもらって、地球まるごと乗っ取ってもらえるのなら、それはそれで諦めもつくというものだ。
 交信。
 俺は気をある空の一点に集中させ、静かに目を閉じた。そして、来訪者からのメッセージを受け取る受容体としての俺の存在を、強く心で意識した。男の子が昨日していたように、俺は一人公園の中心に立って両手を天にかざし、「宇宙人」の気配を全身で感じるよう試みた。
 馬鹿馬鹿しい。
 マウンドを足で均すピッチャーのように、俺はサークルの痕跡を消した。革靴に地面の砂が被り白っぽく変色したが一向に気にしなかった。どうせ間もなく、スーツも革靴も必要なくなるのだ。
 子供を見送った数人の主婦が、路上で立ち話をしながら、俺の方をちらちらと見ていた。朝から人気のない公園でスーツを着たいい大人が足で砂遊びをしていればそれは誰が見ても「不審者」だった。
 最近、この地域でも通学途中の女の子が声を掛けられたり、露出狂が出没しているようだった。巡回中の警察官に職務質問をされて「宇宙人と交信していました」なんて答えたら、一体どういう処遇を受けるだろう。もうすぐ倒産するとはいえ、現段階では俺はまだ上場企業の関連会社に雇われた給与所得者なのである。
 俺は主婦とは目線を合わせぬよう、何事もなかったように公園の反対の出入り口から出て駅に向かった。少し進んだところで一度後ろを振り返り、誰もいないことを確認してから、ポケットに入れっぱなしのくしゃくしゃのハンカチで革靴の砂を拭い、つま先を磨いた。
 駅に着く間に、引っ越し業者のマークの入ったトラックを何台も見かけた。意外に引っ越しをする人って多いんだな、と俺は改めて思った。

 それから二日後、何気なく朝刊を見ていると、「地域版」のページに今住んでいる町の名前と一緒に、「児童公園に巨大穴 ミステリーサークル?」と書かれた見出しが躍っているのを見つけた。
 そこには鮮明とは言い難いが、小さなモノクロ写真も添えられていた。側で人が立って眺めている様子からして、穴の径も深さも相当ありそうだった。
 俺が食い入るように新聞を睨んでいたせいで、妻も家事の手を止めて俺の背後から紙面を眺めた。
「ねえ、その公園、すぐ隣の6丁目にある公園じゃない?」と妻は言った。
「そう、なの?」と俺は少しとぼけて言った。最近毎日立ち寄っていた場所だなんて後々説明が面倒になるようなことは言わないでおいた。
「何、いたずら?」
「さあ。いたずらにしては随分大がかりじゃない?」
 冷静に会話しているふりをしていたが、内心胸騒ぎがしていて、何度も何度も記事と写真を目で追った。
「危ないわね、子供の遊び場なのに。誰がそんな馬鹿なことするのかしら」
 妻はそう言うと俺の側を離れて、再び台所に戻っていった。どうしても彼女は「いたずら」にしたかったようだ。俺は一刻も早く現場に行ってこの目で確認したかったが、そこはぐっと我慢して、妻と同調するように、箸置きに箸を並べた。
 直径十五メートル、深さ四メートルの穴なんて、とても誰かのいたずらには思えなかった。誰も目撃者のいない状態で、たった一日二日の間にこれほどの穴を掘るなんてことができるのだろうか。確かに一昨日の朝の段階では、穴など開いてなかった。しかも焦げ臭い匂いと共に、底の方の土は真っ黒に焼けているというのだ。

 ようやく家を出ることができると、俺は半分小走りに近い格好で公園に向かった。公園には既に何人かの大人や子供の人だかりが出来ていた。
 それ以上近づけないよう規制線が引かれ、数人の警察官が穴に被せられたブルーシートの周りを取り囲んで何やら話をしていた。間近で見ると、直径十五メートルというのは思ったより広い。場所はちょうど公園の中心部、あの男の子と俺が「宇宙人」と相対していた正にその場所であった。確かに、現場には少しだけ、何か物が焼けた後のような匂いが残っていた。
 謎の男の子。宇宙人との交信。そして、ミステリーサークル。
 これまでの経験則からいけば、妻が言ったように「誰かのいたずら」と考えるのが普通であろう。そしてその目的や方法についても、誰もが納得する説明を誰かがそのうち見つけ出すだろう。
 しかし待てよ、と俺は思った。
 少なくとも俺だけは、これは「宇宙人の仕業」ということにしておこう。誰が何と言おうと、これは宇宙人によって作られた紛れもない宇宙船着陸の跡なのだ、と。
 今はもうここにはいない男の子との交信の結果、彼らは間違うことなくこの場所に到達し、そして誰にも姿を見られぬまま、ミステリーサークル(宇宙船の跡であると断定したのだから、既に「ミステリー」ではないわけだが)を残して再び去って行った。宇宙人が一体何の目的でこの公園を選び、そして去って行ったのかは分からない。今となっては、もっとその意味について、あの男の子に聞いておくべきだった、と後悔した。
 時間が経つにつれて、次第に増えていく人の群れ。俺は知り合いに合うことを恐れて後ろ髪をひかれながらもその場を後にした。あの男の子にどうしてもこの事実を知らせてあげたかったが、それはもはや不可能だった。
 駅のホームで、俺は久しぶりに携帯から自社の株価をチェックした。どういう訳か、一週間前に比べて三割近くも急騰していた。
 そして車窓を流れる景色を眺めながら、あることに思いを馳せた。もしかしたら、あの子自身が宇宙人だったのではないかと。
 乗客のほとんどが居眠りをしたり携帯を睨みつけている中、俺一人だけ、静かに空を見つめながらほくそ笑んだ。(了)

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