ポケットノベル

ティーグラウンドより愛をこめて

ティーグラウンド
『ティーグラウンドより愛をこめて

 砲台になったティーグラウンドの遥か彼方に、最終ゴールの旗が見える。下ろしたてのボールにドライバーヘッドを合わせ、肩幅よりやや広めに足を開く。雲の継ぎ目から陽は零れ、名も知らぬ野鳥の囀りが無駄な力みを解きほぐす。男の一挙手一投足を、五月の風は息を潜めて静かに見守る。
 鼻から空気を吸いながらクラブを極限まで持ち上げ、一息に振り下ろす。腹圧が高まりシャフトがしなる。鈍い打感を残し、ボールは目前のフェンスを超え、未開のブッシュに消える。何て酷いシャンク。珍しく舌打ちなどして、男は地面にティーを刺す。
 色分けされた二色の緑の絨毯は何処までも広がっている。同系色の男のポロシャツが絨毯と同化する。今度はクラブを短めに持ち、先程よりも粘り強く力を溜めてから、ゆっくり腰を捻る。ボールは左手前の崖めがけて噴き上がり、そのまま黒い林に吸い込まれる。
「もう一球、お願いします」とキャディーは言う。
「残ってないかね」
「OB杭、浅めなんです」
 キャップの庇に手を翳し眩しそうに目を細め、キャディーは林を見つめる。その横顔は五年前に亡くなった妻にどこか似ている。遠くの景色を眺める時、あるいは会話の真意を掴み損ねた時に、良くそんな表情をしたものだった。
 久しぶりに妻に会ってみたい、と男は思った。妻と一緒にラウンドするのが男の老後の夢だったのだ。
「新人さん?」
「ええ。一昨日から」
「もう一人で」
「出戻りなんです。主人はここの会員でした」
「さぞ上手なんだろうね」
「地元では有名でした。でも死んでしまったら何も残りません」
「それはお気の毒だね。まだ若そうに見えるけど、あなた」
「六十五を過ぎた高齢者ですよ」
「うちのが生きていたら、同じくらいだよ」

 時間は空間に遮られていた。前にも後にも誰もいなかった。昔懐かしい草むらの匂いが一瞬鼻先を突いた。ボールありますか、とキャディーは聞いた。まだ大丈夫、と男は答えて、今度はティーマーカーの一番右端にセットした。
 ゴルフは自然との闘いだ、と誰かが言った。ゴルフは自然と調和することだ、と他の誰かが言った。結局ゴルフの真髄など誰も分かっちゃいないのだ、と男は思った。

「次は何打目だったかな」
「五打目です」
「まだ一歩も前に進んでないのにね」
「焦ることはありません。鹿も応援してるみたい」
 フェアウェイの中間点に鹿が二頭、こちらに顔を向けて草を食む。
「鹿がいるのかね」
「良く出ますよ」
 どれ程当たっても鹿のいる所までなんて届かないよ、男は心で呟きながらグリップを握り、顎を引き、右脇をしっかり締めて、ゆっくり振り上げる。レッスンで教わった通り、忠実に。何も考えてはいけない。言葉を思い浮かべそうになったら直ぐに白いペンキで塗り潰す。邪念を捨て、無になる。空気になる。
 乾いた金属音を纏いながら、白球は鹿のいる方向に向かって真っ直ぐ飛び出し、みるみる小さくなっていく。
「ナイスショット」
 スイートスポットを完璧に捕まえた、会心の一打。これがあるから止められないのだ。ボールが地上に落下するや、鹿は散り散り梢に消える。
「どうだい、ねえキャディーさん」
 男は得意気に振り返るが、辺りには誰もいない。灰皿の側に、男が今日使っているブランドのボールが二つ並べて置かれている。
 キャディーは忽然と消えた。というより、そもそも今日はキャディーなど頼んでいない。
 男はもう一度打とうかどうか悩んだ。どうせ誰もいないのだ。練習練習。
 ポケットをまさぐり、今と全く同じ場所にティーを刺す。それから男は天を仰ぐ。病院のベッドで穏やかに眠る妻の顔。もう間もなく、俺もそっちに行くからな。
 スタンスを取ろうとする男の両脚は、既に消え始めていた。(了)

 


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