深夜のデッドヒート

 国道の追い越し車線を流していると、二つの強烈なハロゲンライトがみるみる大きくなって、ぴたりと背後に密着した。それは追突するかと思うくらいの猛烈なスピードだった。一日の仕事の疲れと、快適な車内の空調で少し居眠りしかけていた剛の目を覚ますには充分過ぎるくらいの急接近だった。
 前方の信号が赤になったので、剛は停止線を少し超えたあたりで止まった。後ろの車も車間距離を変えることなく、じっと息を押し殺した。フロントグリルには、テールランプを反射する四つのリング。点けっぱなしのLEDのヘッドライトが一層威圧的だった。
「くそ」
 信号が変わると、剛は左に寄った。シルビアとアウディでは、元から勝ち目はない。しかしアウディは追い越し車線を突き抜けるでもなく、剛の視界を遮るように前方に割り込んできた。ウインカーも出さず、わざとその機敏な動きを見せびらかすように。それには、剛も肝を潰した。危うく急ブレーキを踏むところだった。クラクションに一瞬手がいきかけたが止めて、ぎりぎりまで車間距離を詰めた。
 煽られてる?
 底に沈んでいた血液が急激に上半身に巡り始めたのを感じた。シフトレバーを握り直し、敵のテールランプに意識を集中した。こんな時間に、何かに巻き込まれるのは本望ではなかった。意識を鋭敏にすることさえ苦痛だった。早く帰って風呂も食事もなしに、そのまま布団に潜り込みたい気分だった。
 しかしこれまでのアウディの挙動はどう好意的に見ても理不尽だった。道路はがらがらだし急接近も車線変更も、状況から見て必要のない行為だった。運転手の様子が全く見えないということも、剛を苛立たせた。
 アウディの速度は八十キロを超え、間もなく九十に達しようというところだった。剛も負けじと短時間でクラッチとアクセルを忙しく踏み直した。瞬発力には欠けるかもしれないが、低中速域のトルクと伸びは侮ってはいけない。
 剛は車の運転には自信があった。車の性能、そして限界値を充分理解していた。挑まれた闘いを理性的に放棄するほど、剛の人格は完成されていなかった。それに加え、この日はただでさえ仕事と家庭のことでいらいらしていた。
 立体の橋の手前で停止する時、剛は追い越し車線に出てアウディと並んだ。本当に煽られているのかどうか試してみたかった。ドライバーの顔を確認するには、今の外灯の光量だけでは不十分だった。相手はサングラスを掛けているようにも見えた。夜にサングラスを掛けるという精神構造自体、理解不能だった。構うもんか。少し、自棄になっているのが自分で分かっていた。

 ゼロヨンスタート。剛は心の中で呟くと、信号が切り替わる直前に、ぐっとアクセルペダルを踏む込んだ。一足から二足、そして三足。吹きあがるマフラーからの爆音と合わせて、愛車はみるみる加速した。直線の国道には、当面遮るものや減速させるものはなかった。夜空と同化した漆黒の外壁と中央分離帯が視界の端に流れた。
 さすがのアウディもこのダッシュには意表を突かれたようで、バックミラーの中で小さくなった。しかし、それも時間の問題だった。ターボがかったスーパーカーのような爆音が聞こえたかと思うと、剛の車はあっという間に追いつかれ、追い越され、瞬く間に水を空けられた。圧倒的だった。運転手の問題ではなく、明らかに車の性能の違いだった。対抗するもなにも最初から勝負になっていないのだ。まるで俺の人生みたいだな、と剛は思った。

 走行車線に戻り、ギアを一つ下げた。遥か彼方まで飛んで行ってしまいそうだったアウディは二つ先の信号で停止し、左ウインカーを出していた。剛も同じく左の方向を指示した。今度は敢えて三台分くらいの車間距離を空けて停まった。
 それから車は細い市道に入り、急坂を上り、小学校のところを右折した。嫌な予感がした。シルバーのアウディA7。小学校の外周を半分周り、手入れの行き届いた緑地帯をすり抜けて、茶色のレンガの邸宅の前でハザードランプをたいた。気付くのが遅かった。深夜のデッドヒートは向かいの隣人との争いだったのだ。  剛はアパートの駐車場に車を入れた。レバーを握っていた手の平は冷たい汗で湿っていた。キーを捻り、ヘッドライトを消した。かちんかちん、という音がボンネットから聞こえた。

 サングラスを掛けたドライバーが運転席から降りてこちらに歩いてくるのが見えた。剛の心臓は大きく高鳴った。脚が長く、すらっとした体型。こつこつとブーツのような足音。耳の脇から、長い髪の毛が垂れているのが見えた。当たり前のように男だと思っていたドライバーはどうやら女性のようだった。女はシルビアの運転席側にくると、軽く会釈をしてウィンドウを下ろすように指で合図をした。
「お隣の方だったなんて。これは大変失礼なことを」
 女はそう言って、深々と頭を下げた。剛は「いいえ」と答える以外、どう反応してよいのか分からなかった。ひんやりとした外気が、解放された窓から急速に車内の温度を奪っていった。
「速い車ですね。これは何という車ですか?」と女は聞いた。嫌味な響きはなく、ごく自然な感じだった。
「日産のシルビアです。ミッション車ですし、もう十五年以上乗ってますからポンコツです」
「ポンコツだなんて」
「そちらこそアウディなんて、羨ましいです」
「私の趣味じゃないの。私はもっと、小さな車で充分だから」
 車から出るべきか否か剛は悩んでいたが、サングラス越しの眼光に体は射すくめられていた。
「以前にトマトをいただいたようで。その節はお世話になりました」
「トマト? ああ、お母様ね。家庭菜園が趣味だったから。一昨年、亡くなりました」
 女はアンケート調査にでも答えるように淡々と言った。確かに、最近どうも顔を見ないと思っていた。妻は知っているのだろうか。昼間仕事している剛にとって、近隣の住人で名前の言える人などほとんどいなかった。
 自宅の電気が付いているのが、ぼんやりと見えた。この数日、妻は実家に帰っていた。積りに積もった剛への不満は、年に数度、決まったように暴発した。妻のいない間、剛は車を大抵深夜まで当てもなく飛ばした。そんなことをしてもどうにかなるものではないが、誰もいないアパートに一人でじっとしていることが耐えられなかった。
「主人が」と言った後、女はしばらく言葉を詰まらせた。手を口に当て、目線を少しだけ下にずらした。
「倒れてしまって」
 女の体は揺れていた。震えている様にも見えた。
「まだ、四十歳なのに。くも膜下出血で」 剛には、そうなんですか、と小さい言葉で答えるのが精一杯だった。自分と同い年だった。
「ごめんなさい、今病院からの帰りで、ちょっと私、おかしかった。普段、決してあんな運転はしません。分かってくださる? 本当、どうかしてました」
「ああ、いえ、気にしないでください。僕もこんな側に住んでいる方にとても失礼でした」
 女はサングラスを外して、ハンカチで目を拭った。サングラスを外すと、さっきまでの大人びた威圧的な雰囲気とは違って、随分幼い感じに見えた。
「これからという時だったのに。もうきっと元通りには戻れません。後遺症が残ると。最悪の場合、寝たきりです。三日前まで元気な生活を送っていた人がですよ? 本当、人生何があるか分かりません。子供もいない中で、これからどうしていったらいいのかと思うと」
 余命を寝たきりで過ごすということについて、剛は考えていた。それはとても車の運転席などで想像できることではなかった。子供がいない、という彼女の言葉がいつまでも耳の奥に残っていた。

 フロントガラスから、異様に良く光る星が見えた。もちろん、星の名前など分からなかったが、もし知っていたとしたら、気の利いた言葉の一つでもかけられたかもしれない、と剛は思った。
「こんな時、お金なんていくらあっても何の役にも立たない。無力ね、人間なんて。何もしてあげられないことがとても悔しい。お金を持つことと幸せになることって近いようで全く違う。それが良く分かった。切り離して考えるべきなのね。こんな大きな家、私とお父様だけでは必要ない。主人のいない家で、お父様と二人だけでなんて、私、住めない。ねえ、あなた、失礼ですけど、おいくつ?」
「四十です」
「主人と同い年なのね。私は五十。主人と私、十違うの。お子様は?」
「いいえ、まだ」
「そう」
 その先、女はしばらく口を噤んだ。しかし彼女の言いたいことのほとんどは理解できた。心臓が大きく鳴っているのが自分でも分かった。ハンドルに掛けていた手を膝に置いた。自宅で妻がどんな気持ちでいるのかを、少し考えた。剛の妻は四つ違いの年下だった。
「ごめんなさい、こんな話、初めての方にする話ではないですよね。やっぱりどうかしてる。忘れて下さいね。余計なお世話でしょうが、奥様を大事にしてあげてください。まだお若いのですから」
 女はハンカチを上着のポケットに仕舞い、最初にしたのと同じくらい深く頭を下げた。剛も軽く会釈をしたが、女の上半身は中々上に上がってこなかった。自分がとても小さい、駄目な人間に思えた。自身の怠慢を、人を非難することでごまかしているだけに思えた。会社に対しても。妻に対しても。頭の中は真っ白だった。頭髪も真っ白になり、一気に三十くらい年老いたように思えた。
「それから」
 サングラスを掛け直した女は剛に飾りの沢山ついた車のキーを手渡しながら言った。
「よろしければ、この車自由に使ってもらって構わないわよ。主人、いつ戻って来られるか分からないし、もうこのまま戻ってこないかもしれないし。いずれにしても、私には大き過ぎる。大丈夫。保険には入ってますから。遠慮しないで使って下さい」
 玄関を通り、庭木の茂るアプローチに彼女は消えた。ずしりと重い金属とプラスチックの塊りが手中に収められていた。自由に使っていい、と言われても少しも嬉しくはなかった。このアウディは、彼女とくも膜下出血で昏睡している彼女の夫以外、乗ってはいけないような気がした。自分が乗るには、あまりにも不釣り合いだった。人が車を選ぶのではなく、車が人を選ぶのだ。
 剛は車を降り手動でドアロックをかけた。そして向かいの家の真鍮でできたポストに鍵を落とした。アウディは薄い月明かりの元でもはっきり分かるほど、ぴかぴかに磨きあげられていた。車内にティッシュの箱やら芳香剤なんて余計なものはなく、仕立てのいいレザーシートがその風格と価値を主張していた。

 自宅に戻ると、玄関に妻が立っていた。
 妻は何も言わず、じっと剛の口から出てくる言葉を待っていた。
「この前は、ごめん」と剛は言った。あれほど頑なに折れるのを拒んでいたことが、まるで嘘のように、この時ばかりは素直だった。
「私こそ、勝手に飛び出してしまって」
 既に日が変わっているのに、まだルームウェアにも着替えていない妻を、剛は不憫に思った。
「いいよ。俺がちょっと言い過ぎたんだ」
 ポケットの中のくしゃくしゃのハンカチをきつく握りしめて剛は言った。 「ねえ、何かあったの?」と妻が心配そうに言った。
「何もないよ」
「顔、真っ白よ?」
 鏡がないので自分で確認することはできないが、妻がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。
 剛は妻がいとおしかった。今頃、向かいの夫人がどうしているのかが、とても気になった。彼女には今抱きしめられたいと思っても、抱きしめてくれる人はいないのだ。このまま死ぬまでずっと一緒にいられるのは、誰でもない、今目の前にいる妻しかいないのだ。お互い強がろうが嫌味を言おうが、あるいはセックスするのに愛があろうがなかろうが。
「子供はやっぱり必要だよね」と剛は言った。それはもしかしたら剛が初めて心から自分の子供が欲しいと思えた瞬間だった。
「ずっと前から、そう言ってきた」と妻は答えた。
 妻の表情を確認することなく、剛は妻の肩をきつく抱いた。そこが玄関であることは全く気にならなかった。むしろ、世界中の人々に見せびらかしたいくらいだった。玄関で妻を抱きしめられることこそ、何よりの幸福だと。
 妻の髪の臭いを嗅ぎながら、再び、サングラスの夫人が思い出された。何度も挨拶をしているはずなのに、くも膜下で倒れた旦那の顔が全く思い出せなかった。 豪華な邸宅。豪華な車。身の丈の幸福。愛しき妻。
 そして。
 妻の背中に手が伸びようとした正にその時、おんぼろシルビアの中に財布と携帯電話を置き忘れてきていることに、剛は気が付いた。(了)

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