女といっても、お前の大好きだった母さんではない。お前が会ったこともない人だ。
そして父さんも、ネットを通じて知り合ったその人と会ったのは、その日が初めてだった。
最初に母さんからその連絡が入った時、父さんは裸だった。
その女も裸だった。
父さんはベッドで煙草を吸っていた。
家では決して吸うことのなかった煙草を。
母さんからの電話だと分かった時、最初は無視しようと思った。
でも嫌な予感がした。
母さんからそんな時間に電話がかかってくるなんてめったにないことだから。
お前は母さんに頼まれて「サワークリーム」を買いに行った。
お前の大好きだったボルシチに使うための。
五百円玉一枚をポケットに突っ込んで、お前は携帯ゲーム機を放り投げ家を飛び出した。
大好きな母さんの頼み事だし、大好きなボルシチに使うとなれば、断るわけにはいかない。
その道はもう何度となく歩いていたし、お前も良く知っている道だった。
お前はそこで跳ねられた。
お前の体は大きく飛び上がり、そして地面に落ちた。
それから、同じトラックにもう一度、腹と腕を踏まれた。
お前を大きく成長させてくれた胃袋が、化け物みたいなタイヤの下。
お前とキャッチボールをした細い腕も。
痛かっただろう。苦しかっただろう。
でも、お前の体がトラックの下敷きになっている時、父さんは母さんとは別の女と一緒だったのだ。
母さんと結婚してから、母さん以外の女とベッドを共にするのは初めてのことだった。
父さんは母さんを愛していた。それは嘘じゃない。
でも大人になると、「愛している」だけではやりきれないことがある。
お前が大人になれば、きっとそんな理屈ではない不条理な感覚も分かってもらえただろうに。
お前が大人になることは永遠になくなってしまった。
これから母さんと二人きりで、お前の分まで生きていかなければならない。
お前のいない生活なんて、とても味気なくてつまらないものになってしまったけれど、まだまだこれからお前が生きてきた人生の何倍も、父さんと母さんは生きていかなければならない。
けれど、これからどんなに長く、どんなに仲良く母さんと生きていくとしても、その事実だけは墓場まで持っていくつもりだ。お前を亡くした悲しみに打ちひしがれている母さんに対する、今父さんのできる唯一つの誠意。
お前が死んだ時、父さんはお前が住む街の汚いラブホテルで、狂ったように行きずりの女を抱いていたということを。(了)