逃げる様に家を出た。最近顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。自身はともかく、一人娘が不憫でならなかった。こんな環境で勉強なんて出来る筈ないと思った。
私は車を走らせ、塾帰りの娘を迎えに駅に向かった。「子はかすがい」と言うけれど、高校生にもなると家にいる時間も少なく、かすがい効果は薄らいでいた。衝突する理由は様々だったが、とどのつまり私自身の所作から言動から全てが嫌われていた。妻とは上手くやりたかった。連れを途中で失うことの寂しさを知っているから。もう一度過去に戻り、どこかで混線した感情の糸を解したい、私は本気で思っていた。
駅前ロータリーに続く通りを走っていると、娘に似た背格好の女の子が、俯きながら反対側の歩道を歩いているのに気付いた。ポニーテール、胸のリボン、黒のソックスにイーストボーイの鞄。その鞄に括りつけられたカエルのマスコット人形で、私は娘だと確信した。何故歩いているのだろう。迎えに行くとラインを送り、「ヨロシク」という返信も確認したのに。
私は先のコンビニで車を転回させた。しかし今見た筈の娘の姿はもうなかった。私は周囲の路地裏を確認し、帰宅ルートを追ってみたが駄目だった。慌てて飛び出してきたせいで家にスマホを置き忘れ、直接連絡もとれなかった。どこかですれ違って、今頃家に着いているかもしれない。私はとって返し、家の車庫に車を入れた。
その時、私は気付いた。今朝はジャージで登校した筈だった。いや、考えてみたらあの制服は中学時代の制服で、高校は私服だった。他人の空似だったのだ。どうして娘だなんて思い込んでしまったのだろう。今頃ロータリーで待ちぼうけしているかもしれない。
スマホを取りに一旦自宅に戻ると、娘の運動靴が玄関に乱雑に置かれていた。
「パパ、お帰り」
娘は私の懐に鉄砲玉のように飛び込んできた。帰っていたのだ。しかし出迎えに違和感を覚えた。随分身体が小さくなった気がする。背は縮み、身体も華奢で、眼鏡をかけていた。まるで小学生の頃の娘のようだった。
「ねえ、後で算数見てあげて。私、教えるの下手みたい」
妻は台所から叫ぶように言った。算数? すかさず娘は演習用のプリントを私に押し付ける。易しい一ケタの足し算の羅列。混乱した頭を整理できぬまま玄関に立ちつくしていると「ついでにおむつも替えちゃって」と再び台所から妻の声がした。全く人使いの荒い妻だ。
座布団には、赤ん坊が仰向けに寝そべり大泣きしていた。とても良く知っている赤ん坊だと思ったら娘だった。おむつ替えなんて、いつ以来だろう。私は消毒ナプキンでお尻を拭き、泣き喚く娘におむつを当てた。久しぶりの割には手際良く出来た。まだ感覚が覚えているのだ。
おむつを捨てに行くと、台所に立っていたのは、妻ではなく私の父親だった。酒ばかり飲み何の取り柄もない父親だったが、食事の後の洗い物だけは、率先して引き受けた。今は故郷で一人暮らしをしている筈だった。
胸騒ぎがした。洗面台の鏡に身を映す。まさかと目を疑った。私は母になっていた。母は私が十八歳の時、家を出ていった。詳しい理由は分からなかったが、父の素行を見ていれば想像は出来た。父はその後再婚することはなかった。母は今どこで何をしているのだろうか。そう言えば、娘の十八歳の誕生日も明後日だった。
和室に戻ると、昔写真でしか見たことのない私自身が、気持ち良さげに眠っていた。私は一度も母親に似ていると言われたことはなかった。正直に言うと、父親にも似ていなかった。
母親になった私は考える。そして、母親になったことで分かったことがある。まずは十八歳になるまで、どうやってこの連れ子を育てていこうかしら。(了)